チヨ
静かな門前町の狭い道を、和服の老婆が小走りで駆けていた。
何のために、何処へ急ぐのか。
もう、三十分以上この蒸し暑い盆地の町を駆けているのに、老婆は額に少しじっとりと汗ばんでいるだけだった。
と、突然、老婆は立ち止まった。目の前を一人の青年が塞いでいたからである。
白い長袖のワイシャツに、濃紺のスラックスを履いている。一見、大学生のようにも見えた。
「やぁやぁ、お婆さん。どちらへお急ぎですか?」
明るく話しかけるその青年は、『楽園の番人』──朽木楽土であった。
「何を急いでいるのか知りませんが、一つお尋ねしたい事が有ります。よろしいですか?」
楽園の番人は、あくまでも紳士的に交渉しようとしていた。
その問に老婆は、
「あたしゃ急いでるんだ。アンタの用事に付き合ってる暇はないんだよ」
そう言って、青年の脇を通り過ぎようとした。その時、巨大な太刀が目の前を塞いだ。一体何処から出したのだろうか? その太刀の刃渡りは、人間の背丈ほどもある長刀であった。
老婆はそれをどう取ったのか、青年から数歩退くと、両手で印を結んで呪文のような言葉を唱え始めた。
するとどうだろう、その場の空気が<ピシ>っと張り詰めた。そして、詠唱が終わると、老婆の雰囲気が変わった。老婆の全身から、凄まじい闘気が吹きつけてきたのである。
「お主のその刀。小次郎の物干し竿に似ておるな。お主がその気なら、手合わせ願おうか」
と、このような言葉が、老婆から発せられたのだ。
そして、老婆は懐から合口を取り出すと、その鞘を抜いて、鈍く光るその刃を構えたのだった。
「ふむん。この刀は、一撃で岩をも砕く剛剣だ。そんな小さな短刀では、防げませんよ」
楽園の番人は、そうは言ったものの、老婆から発せられる凄まじい闘気に攻めあぐねていた。さっきまでは、確かに普通の老婆に思えた。それが、今目の前にいるのが、大昔の剣豪のように思えた。
「お主の剣、ワシに通じるかどうか……。かかってこい」
老婆は口調まで変わっていた。その様子に、楽園の番人は一瞬躊躇したが、長刀を大上段に振りかぶると、必殺の剛剣を老婆に放った。
「甘いな、小僧。小次郎どころか、その末弟の足元にも及ばぬわ」
と、青年のすぐ耳元で声がしたのだ。驚いたことに、老婆は番人の剛剣を紙一重で避けると、一瞬のうちにその懐に入り込んだのである。合口の切っ先は、青年の首の横二センチで寸止めされていた。
「なんと!」
楽園の番人は、驚くと、後方へ大きく飛んで身構えた。
「お婆さん、あなた『イタコ』だね。結界も法具も何もないこんな場所で、口寄せが出来るとは。しかも、口寄せした当人を、自分の身体に憑依さえさせられる。普通では考えられない霊能力者だ。あなたのその力、『黒い球体』から得たものですか?」
冷静に問うたつもりだが、楽園の番人は焦っていた。脂汗が顎を伝って滴となる。
「だったらどうした。あたしゃ、この力で、孫の命を救うんじゃ。もうすぐ手術が始まる。急いでおるんじゃ。さっさとそこを退きなされ」
有無をも言わせぬその言葉に、番人は気圧されていたが、それを嘘ぶくようにこう言った。
「名医の霊でも、憑依させるつもりですか? しかし、その力は大きすぎる。この世界では、ルール違反ですよ。しかも、それは、あなたの身体にも大きな負担となるんだ」
すると老婆は、
「そんな事は百も承知よ。あたしのこの身体……、いや、命と引き換えとなっても、孫を救うつもりじゃ。こんな所で、あたしの残り少ない命を無駄遣いするつもりはない。そこを退きなされ」
と、言ったのだ。
「僕も、『黒い球体』の情報を棄ててまで、退く気はありません。どこです、『黒い球体』は?」
もとより、楽園の番人も退くつもりはなかった。
「あの玉は、あたしの口寄せに引かれて来たんだ。それを無茶を承知で憑依させた。その代償がこれだよ。たぶん、あたしは、明日の朝まで保たない。おどき、あたしには時間が無いんだ!」
その時、二人の間を涼風が吹き抜けた。どちらが先とも知らず、二人はその風上に目を向けた。
そこには、ヨレヨレの上下に、鍔広の帽子を被った、貧相な男がいた。この暑いのに、ボロボロの黒いコートを羽織っている。何故か、その男の腐った魚のような眼差しだけが、妙に印象的だった。
「お二人さん、諍いは、それくらいにしなさい」
帽子の男が言った。それは、か細く微かで、まるで独り言のようだったが、何故か青年と老婆にははっきりと聞こえた。
「オレは虫取り屋。婆さん、アンタ、禁断の知識を手に入れたね。第一級のバグと認定した。これよりデバッグを開始する」
それを聞いた老婆は、
「ふん、アンタがアカシアのデバッガかい。あたしなんか、アカシックレコード上のホンの些細なバグじゃないか。後、十二時間でいい。この場は見逃してくれないかい」
と、虫取り屋に逆らう素振りを見せた。
「アンタ、『黒い球体』を降ろしたね。知り過ぎた者には、代償を払ってもらわねばならん」
虫取り屋の冷淡な言葉に対して、
「ふん、たかがデバッガの分際で。『アカシア』の暇つぶしの道具のくせに、大きな口を叩くんじゃないよ」
と、老婆は今度は敵意を顕にしたのだ。
しかし、このやり取りを聞いて、
「なに! 『アカシア』とは何なんだ。ぼくの認識を越えるモノなのか?」
と、楽園の番人も、驚きを隠せずにいた。
「なんだい、知らなかったのかい、小僧が。『アカシア』とは、この世を作った神が、無限の過去から無限の未来を記録する、アカシックレコードの管理をするために生み出した『神工知能』だよ。アカシックレコードをホロメモリとして駆動する超次元演算知性体さ。この男は、その不具合を潰すための、単なるプログラムなのさ」
老婆は驚愕するような事を語って聞かせた。
「な、なんだって! で、では、『黒い球体』とは何だ。僕は、オーバーテクノロジーの産物と考えていたんだが……。違うのか?」
楽園の番人が、驚いて問い正した。
「何だい、お坊っちゃん。そんな事さえ知らなかったのかい。あの球体は、アカシアのバックアップアーカイブの一つなのさ。気の遠くなるような程に超大容量の情報のうちの、ホンの少しのバックアップのカケラなんだよ。それでさえ、膨大な情報量のせいで縮退し、ブラックホール化している。全く、アカシアとは厄介な存在だよ」
と、老婆が事も無げに応えた。
「そ、そんな。……であれば、アカシアとは、神をも超える知性体ではないか。そんな物に敵うわけがない」
楽園の番人は、新たに知らされた事実に、痴呆状態にあった。
「婆さん、それ以上は喋ってもらっちゃ困る。アンタを、特別重大なバグとして認識した。生かしておく訳にはいかん」
そう言う虫取り屋の両手には、赤錆た草刈り鎌が握られていた。その辺のホームセンターなら、どこででも買えるような柄の短い草刈り鎌だ。相変わらず、いつ、どこから出したのか、誰の目にも分からない。
「聞いて無かったのかい。あたしには、大事な用があるんだ。こんな所で足止めされる訳にはいかないんだよ!」
老婆は叫んで、霞のように消えた。瞬間移動の能力さえ、老婆は身につけたのだろうか。
しかし、次の瞬間、虫取り屋の背中で苦鳴が響いた。そこには、汗でびっしょり濡れた老婆が膝を付いていた。
「無駄だ。この辺りの空間を閉鎖した。逃げ切る事は出来んぞ」
虫取り屋の言葉は、情け容赦が無かった。
「くっ、閉鎖したんなら……、ブチ壊せばいいだけじゃ」
老婆は、ようよう立ち上がると、目の前の空間に向けて左手をかざした。すると、どうだろう。空に、壁に、大地に、細かくヒビが入り、次の瞬間には砕け散ったのだ。
「何! 閉鎖空間を破壊するとは……。婆さん、何処まで『黒い球体』の情報を手に入れた?」
虫取り屋の言葉に、憔悴しきったような老婆は、
「言わなかったかい? あたしは『黒い球体』を降ろしたんだよ。それは、今もこの身体に憑依している。デバッガごときに遅れを取るはずもなかろう」
「ふむ、婆さん。アンタ自身が球体ということか。これは厄介なことになったな」
虫取り屋は、まるで他人事のように、そう呟いた。
「と言う事は、お婆さん、あなたを捕らえれば『黒い球体』は僕のモノとなる。違うかな」
楽園の番人が、目を輝かせて、老婆に近付いて行った。
「やめとけや、楽園のぉ。アンタの力じゃ、この婆さんを抑えるのは無理だ。ここはオレに任せろや」
虫取り屋が口を挟んだ。
「しかし、虫取り屋さん。アンタに任せたら、『黒い球体』は、アカシックレコードの保管庫に戻される。そうだろう?」
楽園の番人の問に、
「まぁ、その通りだな」
と、虫取り屋は事も無げに応えた。
「それでは僕が困る。『黒い球体』は、僕の楽園には必要なんだ。悪いが、先手必勝。先に行かせてもらうよ」
そう言うと、楽園の番人は、長刀を片手に再度老婆に立ち向かった。
「止めときな、若いの。アンタの腕じゃ、あたしを捕まえることも出来ないよ」
あくまで、老婆は冷静だった。初戦では、老婆は圧倒的な差で楽園の番人を退けている。
「僕を見くびると、痛い目を見るよ」
楽園の番人は薄ら笑いを浮かべながらそう言うと、今度は、懐から木の枝のような物を取り出して老婆に投擲した。
複数の木の枝は、老婆を直接狙わず、彼女の周囲を囲むように地面に突き刺さった。そしてそれは、みるみるうちに成長して樹の牢獄を作り出したのだ。
「チョコザイな。何のこれしき」
老婆はそう言うと、印を結んで、自分を覆っている木々に攻撃を加えた。
しかし、術式は木々の表面でに弾かれて爆散し、効果は見られなかった。
「フハハハハハハ。どうだい、その牢獄は。呪紋処理された木の枝は、お婆さんの術など跳ね返してしまうぞ。おとなしく、僕の虜になれ」
勝ち誇った楽園の番人をよそに、虫取り屋は、両手の草刈り鎌を樹の牢獄に振りかぶった。
しかし、鋼の打ち合うような音がしただけで、樹には傷一つつかなかった。
「貴様、楽園の番人。何をした」
虫取り屋の問に、楽園の番人は事も無げに応えた。
「さっき聞かなかったかな。その木々は、既に強力な呪紋処理を施してある。虫取り屋さんの鎌なんかでは、傷一つ付けられないよ」
虫取り屋は、焦っていた。このままでは『黒い球体』は楽園の番人の手に渡ってしまう。それ以前に、老婆の身体が心配であった。
「じゃぁ、そろそろ始めるかな」
楽園の番人は、そう言って、手にした長刀を樹の牢獄の頂点にあてがった。すると、牢獄の中にまばゆい光が舞った。それと同時に、老婆の苦鳴がこだました。
「貴様、何をした」
虫取り屋が呟くように言った。しかし、その声には、幾分かの怒りと抗議の声が混じっていた。
「何をしたもなにも、デバッグ、デバッグ。アンタのお手伝いだよ、虫取り屋さん。このお婆さんの身体から、『黒い球体』を分離しているんだ」
楽園の番人は、事も無げに答えると、樹の牢獄を見つめていた。
「何ぃ。そんな事をすれば、婆さんの身体は、負担に耐えきれず壊死してしまうぞ。無茶な事はやめるんだ」
いつになく感情的な虫取り屋の言葉に対し、
「虫取り屋さんは優しいねぇ。生命を持ってないくせに。この世界に長く居過ぎたせいで、里ごころが生まれたかい? どっちみち、このお婆さんの生命は長くはないんだ。アンタだって、さっき「生かしておけん」って言ってたんじゃないかな」
と、青年は飄々と応えた。その間にも、球体の分離作業は進んでいる。老婆の生命は、大風の前のロウソクの灯火に等しかった。
「フフフ。もうすぐ、もうすぐだ。『黒い球体』は、もうすぐ僕のモノとなる。僕の楽園を実現するのだぁ」
「いい加減にしろぉ」
罵声と共に、虫取り屋の鎌が番人を襲った。
鋼の打ち合う音が、その場に<キン>と鳴り響いた。
「おやおや、虫取り屋さん。らしくないなぁ」
鎌を長剣で受け止めた番人は、さも事も無げに応えた。しかし、その顔には疲れが現れていた。老婆から球体を分離する術式に、多くの労力を使っているからだろうか。
更に何回か刃を打ち合って、二人は対峙していた。
「無駄ですよ。あなたの太刀筋は、もう見切っています。勝ち目は無いんですよ。分かりませんか?」
そう勝ち誇った楽園の番人に、虫取り屋も応えた。
「それはこちらも同じ。術式を行いながらのお前には、本来の太刀は打てん」
「言いますねぇ。ならば、これでどうです」
楽園の番人は、その長剣を大上段に振りかぶると、必殺の剛剣を放った。しかし、太刀は虫取り屋の鎌に弾かれて、その半ばから切り飛ばされたのである。
「なんと!」
驚愕して、楽園の番人が飛び退った。
「オレが、オマエの剣を、ただただ受けていただけと思ったか? オレは、オマエの刃に、少しずつ傷を付けていたのだ」
と、帽子の男は種明かしをするように呟いた。
「しかし、ゲームエンドです。剣技では負けましたが、勝負では僕の勝ちですよ」
青年の言葉に気が付いて、虫取り屋は樹の牢獄の方を振り返った。
「くっ、しまった」
虫取り屋が、思わず声を挙げた。そこには、『黒い球体』を納めた樹のカゴと、地面に倒れている老婆とが見て取れた。
楽園の番人は、球体の入ったカゴを手にすると、
「さぁ、これで、世界は僕の物だ。ご機嫌よう、虫取り屋さん。まぁ、新しい僕の楽園には、アナタは居ないでしょうがね。ハハハハハ」
と、哄笑を残して虚空の果に消え去って仕舞った。
「やられたな。デバッグ失敗。トレース処理に移行する」
虫取り屋は独り言のように呟くと、老婆の傍らに急いだ。
「婆さん、大丈夫か」
虫取り屋は跪くと、老婆に問いかけた。
「フフフ、あたしとしたことが、大失敗だよ。この身体も、そう長くは持たないさ。……虫取り屋さん、さっきは悪かったね。確かにあたしは、ルール違反をするつもりだった。そうしてでも、孫を助けてやりたかったのさ」
「分かっている。もう喋るな」
虫取り屋の言葉と行動は、いつに無く感情的だった。
「済まんが、もうすぐ生命が尽きる婆の頼みを、……ひ、一つだけ、聞いてもらえんかね。孫を……、孫を、何とか助けてくれんか? 虫取り屋さん、これもルール違反なのかい?」
そう訊かれて、彼は首を横に振った。
「元々助かる命であれば、死ぬことはない」
と、老婆にそう応えたのだった。
「そうかい。……そうだよねぇ。あたしのしようとした、こと……ことは、余計な、お世話だったのかも……知れないねぇ。……フフフ、バカみたいだよ」
寿命の尽きかけた老婆は、ようようとそう言った。
「そんな事はない。生き物全ては、その生を懸命に生きるように創られている」
虫取り屋は、そう応えていた。
「そうかい。そう……だよねぇ。じゃぁ……、後は任せたよ。あたしゃ、さ……先に、川の向こうに行くさ……」
そう言って、老婆は虫取り屋の腕の中で事切れた。
その日の夜中、市民病院で八時間に及ぶ大手術が終了した。
成功率が十五パーセントと云われていた手術は、取り敢えずの成功と言えた。しかし、余談は許さない。幼い少年の意識がまだ回復していないのだ。
だが、その数時間後、処置室のベッドの上で、少年は奇跡的に意識を取り戻した。過去の経験から言えば、有り得ないような出来事だった。
後に少年は、この時の事をこう称している。
「大きな川の岸の向こうに、お祖母様が居たんだ。それで、「お前は未だこっちに来るんじゃ無い。良い子だからお帰り」って、言ってたんだ。それを聴いて、ボクは川を渡らずに帰ってきたんだよ」
それは、孫を思う祖母の、最後の力だったのかも知れない。