オオヤマ
男は海沿いの道を走っていた。
白いワイシャツに、茶の背広。急いでいたのか、ネクタイはダンゴ結びになっていた。汗だくになって走る彼は、旅行用の大きなリュックを背負い、ゴツいスーツケースを左手に抱えていた。
宿からタクシーを呼んだが、一向に空車は来なかった。仕方なく彼は駅まで走ることにした。昼過ぎの列車に間に合えば、夕方の新幹線で東京に帰れる。しかし、何をそんなに急いでいるのだろう? そもそも、どうして彼はこんな田舎の漁村などに来ていたのか?
毎夜、歓楽街で接待をしていた身体は、重い荷物も相まって、既に悲鳴を上げていた。汗が止めどもなく流れ、顔を伝い、顎から滴っていた。ワイシャツの背中は既にびしょびしょだった。
(これさえ。この情報さえ持って帰れば、私は他の者を出し抜いて、部長に昇進できる)
男は出世欲に囚われていたのだろうか。
(急げ、急げ急げ。間に合う。未だ間に合う)
男は今にも萎えそうな両足に鞭打って、人っ子一人いない道を走り続けていた。
と、突然、目の前に一人の青年が飛び出てきた。男は止まろうとしたが、如何せん、重い身体と荷物は、慣性の法則に則り男を前に押し出した。
寸でのところで目の前の青年にぶつかりそうになったところを、男は何とか止まることが出来た。
「何だ君は。危ないじゃないか!」
男は青年にそう怒鳴った。
「おやおや、オオヤマさん。連れないじゃないですか」
青年は苦笑しながらそう言った。
「あの『黒い球体』は役に立ったでしょう。そろそろ、いい頃合いだ。返して下さい」
青年はそう付け加えた。
オオヤマと呼ばれた背広の男は、袖で吹き出る汗を拭うと、
「返してくれだと。アレは、お前が持って行ったんじゃないのか?」
と、言い返した。その顔は、あからさまに不満を表していた。
「なんと! 無くなったのですか? 『黒い球体』が無くなった。確かにアレは捕まえどころのないものだったが……。では、契約違反により、あなたにはペナルティーを負ってもらわなくてはなりませんね」
「ぺ、ペナルティーだと。そんな事知らんぞ。あの球体は、勝手にいなくなったんだ。てっきりお前が持って行ったとばかり思ってたんだが。それより、そこをどいてくれ。列車の時間が迫っている」
「棚から牡丹餅で手に入れた知識で出世を狙う……か。随分とチープな願いですねぇ。あの球体を使えば、そんなチャチな事以上の凄いことが出来るのに」
「チープで悪かったな。私はサラリーマンなんだ。家庭も妻子もある。出世して給料も上がって、うまくすれば役員も狙えるかも知れん。私みたいな男には、もう充分過ぎる。下手に世界を狙って、ヒトラーのような最後を迎えるのはゴメンだ」
「はぁ、それがあなたの望みですか。現代では、錬金術師も地に落ちたものだ」
青年が嘆くように言う間に、男は懐から小瓶を取り出すと、彼の足元の地面に叩きつけた。すると、瓶が砕け、内部の液体が空気と化学反応を起こしたのか、濃い白煙となって青年の姿を覆った。
「むっ、これは。くっ、催涙ガスですか。油断していました」
青年がガスにむせている間に、オオヤマはスーツケースを抱えると、再び走り出した。駅に着けば。列車にさえ乗ってしまえば。そう、男は思っていた。
しかし、百メートルも行かないうちに、オオヤマはまた足止めを喰らった。
今度は、汚れた白シャツに、ヨレヨレのグレーの上下を着て、ボロボロの黒いコートを羽織った男だった。無精髭を生やした顔は鍔広の帽子に隠れていて、その表情はよく分からなかった。しかし、男の腐った魚のような目だけは印象に残った。
(この辺に住む浮浪者かホームレスだろう)
オオヤマはそう判断して、彼を無視して先を急ごうとした時、独り言のような声が聞こえた。
「オオヤマさん。『黒い球体』は何処です」
この男も球体の事を知っているのか! 一体、何なのだろう。『黒い球体』とは、それ程重要な物なのだろうか?
「オレは虫取り屋。先に言っとくが、オレには催涙ガスは効きませんぜ」
懐に手を入れようとしていたオオヤマが、ビクッと身体を震わせた。
その時、後ろから明るい声が聞こえてきた。
「何だぁ、虫取り屋さんじゃないですかぁ。こんな所で、奇遇ですねぇ」
催涙ガスを越えて来たのか、笑顔の青年がオオヤマの背後から近付いて来ていた。
「あんた、『楽園の番人』か? あんたも『黒い球体』を追っているんだったな」
「せーかぁーい。あと既の所で手に入れる筈だったのに。そこのおっさんに横取りされてね。それで、取り返しに来たところですよ」
その言葉には、オオヤマが反論した。
「あの球体は、私が横取りしたんじゃない。球体が私を選んだんだ。そして勝手にいなくなった。それだけだろう」
この反論に、青年──楽園の番人は不服なようだった。
「その言い方は、まるであの球体に意思が在るように聞こえるじゃないですか。いい加減な事を言わないで下さい」
青年が不平を述べた。だが、
「いや、あの球体に保存されている技術や情報の量を考えると、知性が宿っても不思議ではない。あの玉には意思が在るんだ」
と、オオヤマが震えるようにそう言った。
「それも『黒い球体』から得た知識か? オオヤマさんと言ったか。あんた、『錬金術師』だね。全く以って、本当に厄介な連中ばかり出てきやがる。おまけに『楽園の番人』とは。手当を弾んでもらわないと割に合わん」
と、浮浪者のような男──虫取り屋は独り言のように呟いた。
「どっちみち、『黒い球体』は、もうここにはない。どうか私を通してくれ。駅に向かわせてくれ」
と、オオヤマは懇願するように言った。
「それは出来ん相談だな。あんた、……オオヤマさん。あんたの得た知識を公開されると困るんだ。あんたを、重要度の高いバグと認定した。これよりデバッグ作業に入る」
そう呟くように宣言してオオヤマに近づく虫取り屋を、楽園の番人と呼ばれた青年が制止した。
「待って下さい、虫取り屋さん。球体もこの男も、僕が先に見つけたんだ。僕の方に優先権がある」
虫取り屋は、その生気のない目で番人を見つめると、
「あんたも大きなバグだな。そのうちに修正しておかないとならんと思っていたが。取り敢えずあんたは後回しだ。今はその男、オオヤマさんのデバッグが優先する」
と、有無を言わさぬ言葉を発した。
「さすがは、アカシア直属のプログラムだ。その判断は間違ってないね」
楽園の番人が評した。
「しかし、僕の楽園の繁栄のためには、オオヤマさんの知識が必要だ。虫取り屋さんには悪いが、今回は見過ごしてくれないかな」
その願いに、虫取り屋は無言で返した。いつの間にか、だらんとぶら下がった虫取り屋の両手には、赤錆た草刈り鎌が握られていた。一体、何時、何処から出てきたのか? それは、オオヤマにも楽園の番人にも分からなかった。
「力ずくですか。仕方ありませんね」
楽園の番人はそう言って溜息を吐くと、何処からとも無く一振りの太刀を取り出した。刀身の長さは170センチを下るまい。大の大人も頭から真っ二つに両断出来そうな大剣であった。
虫取り屋と楽園の番人が、オオヤマを挟んで向かい合っていた。そしてジリジリとその距離を詰めつつあった。
先に動いたのは、青年だった。音もなく虫取り屋に近づくと、その大剣でもって、大上段から切り込んだのである。それを虫取り屋は、二丁の草刈り鎌でガッキと受け止めた。一丁なら、鎌ごと両断されただろう。それ程の剛剣であった。
「さすがですね。僕の一撃を防いだのは、あなたが初めてです」
楽園の番人が、感嘆の声を挙げた。そのまま太刀を引き戻すと、今度は横殴りの一閃を放った。だが、次の一撃も、虫取り屋の二丁鎌に防がれた。
しかし、情勢は楽園の番人が有利に見えた。彼の長剣は、虫取り屋の鎌よりもはるかに長い間合いを持っていた。何とか懐に入り込まなければ、虫取り屋に勝算は無いように思えた。
二人が互いの得物で打ち合ってるのを見て、オオヤマは「今しか無い」と思った。彼は懐から別の小瓶を取り出すと、彼等の立ち会っているその真ん中に投げつけた。すると、小瓶の中から溢れ出た液体が二人を取り巻くと、巨大な炎の渦となったのである。ただの炎ではない。錬金術師の生み出した、プラズマの炎である。その温度は、太陽大気のそれに等しかった。この炎の前では、何者をも焼き尽くすに違いない。
オオヤマは、二人が炎にのまれるのを確認して、駅への道を再び走り出した。
暑い。喉が焼け付くようだ。
走れ、走れ走れ。
駅だ。
駅に着きさえすれば、自動販売機がある。そこで、冷たいコーラを買うんだ。
そして列車に乗ってしまえば、もうこっちのもんだ。
如何にアイツラだって、列車の中では立ち回りは出来んだろう。
急げ。
走れ。
前へ進め。
駅だ、駅へ向かうんだ。
オオヤマの精神は、それだけに集中されていた。
あと少し。あと少しで駅だ。
その思いだけが、身体を動かしていた。
身体が重い。自分が走る自動人形のように思えた。
──あと少し、もう少し
そして、辿り着いたところは駅ではなかった。
道路の真ん中には、アスファルトの溶けたような円形の穴が穿たれていた。未だ焼け焦げた臭いが残っている。
──こ、ここは……
「はぁーい。お帰りぃ、オオヤマさん。どうしたの。お疲れのようじゃない?」
彼に声をかけたのは、先ほど炎にのまれた筈の楽園の番人だった。
「この瞬間に、漁夫の利を得ようとするとは。さすが、現代の『錬金術師』だけはある」
その独り言のように呟く声は、虫取り屋だ。
オオヤマは愕然とした。自分は駅への道を真っ直ぐに走ってたんじゃ無いのか?
「ゴメンねぇ。この道は、念のために僕が無限回廊に仕立ててあったんだ。一周回ってきて、お疲れさん」
番人のその声に、オオヤマはガックリと膝をついた。もう、立ち上がる体力すら無い。
「もう、精も根も尽き果てたようだね。これで、逃げる事は無いだろう。じゃぁ、安心して、あんたを倒せる」
そう言った青年は、右手の長剣を虫取り屋の腹に切り込んでいた。油断していたのだろうか。虫取り屋は為すすべもなく、剛剣の錆に倒れるのか。
「これで終了」
そう言って、青年は長剣を横に薙いだ。虫取り屋が腹を裂かれてその場に突っ伏した。道路に赤黒い鮮血が流れ、血の海を作っていく。
楽園の番人は、邪魔者が動かなくなったのを確認して、オオヤマに近付いた。
「さぁ、あなたには悪いが、その知識、僕がもらうよ」
彼はそう言いながら、オオヤマの額に手を伸ばすと、その指を彼の頭にめり込ませていた。
番人は、オオヤマの脳髄から直接情報を抜き取ろうと云うのか。疲れ切ってしまっていたのか、彼は、為すすべもなく、楽園の番人のするに任せていた。このまま知識を抜き出されれば、オオヤマの脳は破壊され、彼は廃人と成り果てるだろう。
オオヤマは悔やんでいた。
(少し、ほんの少し、夢を見たかっただけなのに。私はここで死ぬのか?)
あと少しで、オオヤマの脳が破壊されるというその時、楽園の番人の手が、鋭い刃物で肘から切断された。青年が、苦鳴を挙げてオオヤマから離れる。
そこに立っていたのは、今さっき腹を裂かれて絶命したはずの虫取り屋だった。
「虫取り屋! あなたは死んだんじゃ無いのか」
それを聞いた虫取り屋は、呟くようにこう言った。
「済まんな。オレは、生命というものを持ち合わせていないんでな」
「く、クソッ」
番人が傍らの長剣を取って構えた。しかし、片腕では、その剛剣を支えるのも困難に見えた。切り取られた腕からは、未だ鮮血がほとばしっている。
出血多量で顔の白くなった番人は、片腕ながら、その剛剣を振るっていた。しかし、如何せん、剣には勢いが無かった。岩をも砕く筈のその一閃には本来の力はなく、虫取り屋の鎌に呆気なく弾き飛ばされていた。
「ラクド──楽園の番人。お前の負けだ。今なら見逃してやろう。死にたくなかったら、この場から去れ」
虫取り屋の声は、相も変わらず独り言のようだった。
自分の不利を納得したのか、片腕の青年は剣を収めると、苦々しい顔で何処へともなく消えていった。
それを見送った虫取り屋は、オオヤマに近づくと、頭に突き刺さっている番人の手に、自分の手を添えた。
その様子を、オオヤマは虚ろな目で見ていることしか出来なかった。
その日の夕方、オオヤマは新幹線のプラットホームで携帯電話を耳に当てていた。連絡先は自宅である。
「そうだ。パパだよ。やぁっとお仕事が終わったから、もうすぐお家へ帰るからね。漁師の町だったんだよ。だから、お土産は干物だ。明日の朝、ママに焼いてもらって食べようね。……うん。うん。……今夜には帰るから、いい子にして待ってるんだよ。それじゃ」
オオヤマは、そう言って携帯電話を切ると、スーツのポケットに納めた。
(何だか重要な事を忘れた気がするが……。まぁいいかぁ。帰ったら女房に旨いもんでも作ってもらおう)
そう思いながら、彼は今しがた着いたばかりのこだま号の自由席の車両に消えた。
ホームのベンチには、ボロボロのコートを羽織った、帽子の男が座っていた。その男も、オオヤマが列車に乗り込んだのを確認すると、霞のように消えた。しかし、それに気が付いた者は誰もいなかった。