ツトム
暗い夜道を子供が走っていた。
小学校の中学年だろうか? 白い長袖のシャツにクリーム色の長ズボンをはいた、小柄な少年だった。まるで何かから逃げるように、必死の形相で走る彼の後を、どんなモノが追跡しているというのだろう。
少年の額から流れ落ちた汗が、頬を伝い、顎から滴り落ちていた。彼は、もうこれ以上はないと言うくらいに、この道を走ってきた。ところが、一向に出口に至らない。
そんなに長い道では無かったはずだ。その証拠に、彼が子猫を追って広場からこの道へ入り込んだ時には、歩いて十分とかからずに朽ちた廃ビルに到達したのだ。それが、まるで狐につままれたかのように、もう三十分以上、暗い道を一心不乱に走っていた。
もう息が切れそうだ。酷使された肺は、酸素を求めて少年の口を大きく開かせていた。両足の筋肉は限界まで伸縮を繰り返そうと、心臓に血液を要求した。
一体、少年は何から逃げているのだろう? 何故、道は続くのか?
更に二十分も走った頃だろうか? 突然、少年は道の小石に躓いて、勢いよく倒れ込んだ。涙と汗で濡れていた顔が、更に泥で化粧される。膝小僧を思いっきり地面に擦りつけたせいか、長ズボンの膝の部分は擦り切れ、薄く血が滲んでいた。
少年は、痛みに耐えながらも、恐るおそる後ろを眺めてみた。
──いない
ほっとしたのも束の間、前方で衣擦れの音がした。
「ひっ」
と叫んで、少年はその場にへたり込んだ。目の前に、誰かがいる気配がする。恐怖の根源である未知の何かから逃げ出そうとする本能が、少年の感覚を鋭敏化させていた。
──何だ? 何がいる?
少年は、追ってくるモノが何かも知らずに走っていたのだ。
目の前の暗い道には、擦り切れたグレーの裾が黒い革靴を履いて立っていた。
──き、来た。ヤツだ! ヤバイ。殺される……
少年の精神は、疲労と危機感で発狂寸前であった。彼は、ゆっくりと顔をあげていた。本当は見たくない。彼を恐怖させている本体など、知りたくは無かった。
しかし、脳の命令とは相反して、視界は上方へと移動していた。
黒い靴、擦り切れたズボンの裾、そしてこれも擦り切れたコートと思しき上着の裾……。
その上には、黒革のヨレヨレのベルトを締めた腹、それは白い薄汚れたシャツを着ていた。
視界は更に上に動く。
前を開けたコートの間には、グレーのジャケットが胴体を包んでいるのが分かった。
そして、ごつい両手を脇に垂らしている。少年は、その手を見て、何故か中年の男が脳裏に浮かんだ。
胸を包む白シャツは、第二ボタンも外していた。だらしないその隙間からは、褐色の胸と喉が見てとれた。
もうダメだ。これ以上見てはいけない! しかし、少年の意思に反して、その視線は上へと向かった。
──そうだっ、目を閉じよう。
咄嗟に浮かんだアイディアだったが、それは呆気なく裏切られた。まぶたが閉じないのである。転んだついさっきから、目は見開かれたままだった。乾いた瞳が水分を要求するのか、涙が止めどもなく流れ落ちた。
そして遂に、視線は『男』の顔を写した。暗くてはっきりとしないが、黒い帽子を被っているようで、顔は下半分しか見えない。無精髭が生えた顎は、恐怖を和らげる効果があったろうか?
そして、遂に少年は、眼前の恐怖と目を合わせてしまった。男の目は、腐ったサバのようだった。そこから腐臭が漂ってきそうな錯覚さえ覚えそうな。
実際には、男の目は帽子の鍔で隠れて見えない筈なのに、何故か少年にはそう思えた。
少年の精神が狂気で崩れそうになる一歩手前で、その元凶は声を発した。
「小僧。どうした」
抑揚の無いその声には、温かみというものを一切欠いていた。今にも途切れそうな、か細い声であった。これが、本当に少年を追い詰めていたモノなのか?
だが、この声をきっかけに、恐怖を堰き止めていたダムが遂に決壊した。
「うわぁぁぁあぁぁぁぁ」
と、少年は叫び声を上げながら後退ると、道に落ちている物を、何かれ構わず拾っては男に投擲していた。
だが、小石も木の枝も、土塊さえ、男を避けて通った。まるで不浄なものを避けるかのように。
「あ、あ、ああ、あああぁぁぁあぁぁぁぁぁ」
少年は後ろに手をついたまま、悲鳴を上げていた。泥のついた頬が、追加の涙で洗い流されていく。
「こら、小僧。オレは敵じゃない。おとなしくしろ」
眼前の男が、再び声を発した。
少年は、一時落ち着きを取り戻すと、もう一度男を見返した。そこには中肉中背の、貧相な男が立っていた。薄汚れた白シャツにグレーの上下を着て、その上にボロボロの黒いコートを羽織っている。ホームレスの男と言われても納得しただろう。今にも潰れそうな黒い鍔広の帽子を被った男は、腐った魚のような目で少年を見つめていた。
「お、オジさん……誰?」
少年は、ようやくそれだけを絞り出した。だが、それに応えた声は、今にも死にそうな鯉が過呼吸をしているかのように思えた。
「オレか? オレはデバッガ。虫取り屋だ」
少年は不思議そうに首を傾けると、
「デバッガ? 虫取り屋?」
と、オウム返しのように言った。
「そうだ。どうした、小僧」
「小僧じゃないやい。ツトム。荒木努って言うんだい」
恐怖の正体を知って平静を取り戻したのか、少年はぞんざいな態度をしていた。
「じゃぁツトム。何で『こんな処』を走ってたんだ?」
やっぱり抑揚のない、今にも死にそうな声であった。その声に少年は安心したのか、偉そうに、こう応えた。
「い、家に帰るところだったんだ。も、もう遅いから」
少年の言う通り、暗い空は遅い時刻を反映していた。
「お前、何か見たな……」
再び男が問うた。少年は、何かに怯えるように、
「な、何にも見てないよ。猫が……、子猫を追いかけていたら、ここに迷い込んだんだ」
と、応えた。
「だろうなぁ。『ここ』は普通の人間の入れる所じゃねぇからな。……おっと、お客さんだ。小僧、死にたくなかったら、そこを一歩も動くな。じっとしてろ」
そう呟く男の声は、まるで独り言を繰り返す人形のようだった。
その時、少年の背中に、ゾッとする感覚が走った。今度こそ本物だ。少年を追っていた恐怖の根源に追いつかれたのだ。
「小僧。じっとして、出来れば目ぇつむってろ。気が狂いたくなかったらなぁ」
そう言う男の両手には、いつの間にか赤錆た草刈り鎌が握られていた。農作業用の柄の短い、どこかのホームセンターででも買えそうな鎌だった。
ツトムが目をつむろうとした時、虫取り屋はその姿をユラリと消した。そして、彼のすぐ横を一迅の風が過ぎ去ったようだった。
そして、少年の背中の向こうで、何者かが争うような音が聞こえた。
しかし、虫取り屋は間違っていた。ツトムの精神の無事を望むのなら、『耳も塞げ』と言っておくべきだったのだ。
ツトムの耳を、虫取り屋とは違う声の持ち主が襲った。犬? 猫? 違う。人間? 猿? ゴリラ? どれでもない。それは、声を聞くと生命を奪われるマンドラコラの悲鳴のような、危機的な声を発していた。ツトムは、懸命に歯を食いしばって、ようやくそれに耐えていた。
ツトムの精神が断ち切れるのと、生命を蝕むような悲鳴が止むのと、どちらが早かったろう。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
彼はあまりに尋常でない声に恐怖し、悲鳴を上げると、気を失ってしまった。
ツトムが気が付いた時、彼は男の背で揺られていた。涙はもう乾いている。膝には、ハンカチが包帯代わりに巻かれていた。
ツトムは虫取り屋におぶさって、暗い小道を進んでいるようだった。
「オジさん、僕、どうなったの? 助かったの?」
ツトムが虫取り屋に訊いた。
「そうさなぁ。当面の危機は去った。後は、この無限回廊を脱出するだけだ。オレ一人なら何とかなるが、小僧も一緒だと、ちと骨が折れる」
少年を背負った男から、そういう答が返って来た。
「ここから出られないの?」
「何とかなるさ。術をかけた本人に解いてもらえばいいだけだからな。簡単な事だ」
虫取り屋の声は、相変わらず抑揚のない独り言のようだった。
「じ、じゃあ、あの廃ビルに戻るの! ダメだ。やだよう。アソコには……」
ツトムは、そこまで言って口ごもった。
「小僧、お前何か知ってるな。何だ? 何を見た?」
「な、何も見てないよ。僕は子猫を追っかけてただけだ」
と、ツトムは誤魔化すように、そう付け加えた。
「オレに嘘は通じねぇ。おい、小僧。何を見たか正直に言いな。悪いようにはしないから」
ツトムはしばらく黙っていたが、意を決したように、ボソボソと答え始めた。
「あの廃ビルは、小さい頃の僕達の秘密基地だったんだ。だから、よく知ってる所だよ。それが、ある時ホームレスのオジさん達が入り込んできて、怖くて行かなくなってたんだ。僕は、子猫が廃ビルに入って行くのを追いかけて、偶然、窓から中を見ちゃったんだ」
ツトムの声が、そこで一旦途切れる。
「何を見たんだ?」
「…………」
「小僧。言わなきゃ、ここから出られんぞ」
「笑わない?」
「おう。どんな話でも信じてやる」
「ほんとう?」
「本当だ」
「約束する?」
「約束だ。小僧の話を聞いたら、元凶を何とかして、ここを出よう」
「ほんとうだね」
「ああ、約束だ」
すると、ツトムはボソボソと話し始めた。
「僕は一階の窓から、ビルの中を覗き込んだんだ。猫を探してたんだ。そしたら、ビルの中にベッドが並んでいて、人が何人か寝てたんだ。たぶんホームレスの人達だろうと思ったんだ。着ている服がボロボロだったから」
「ふむん。それから」
「それから、白いヒゲモジャのお爺さんが、真っ白な白衣を着て、ベッドの脇に立ってたんだ。その人が……」
ツトムは、またも口ごもった。
「どうした? そのジジイがどうかしたのか?」
虫取り屋は、彼に続きを話すように促した。
「そのお爺さんが、……メスみたいな物で、人間を、……ホームレスのオジさんの身体を切り刻んでいたんだ。ベッドは血で赤黒かった。あいつ人殺しだ! きっと僕らも捕まって殺されちゃうよぉ」
ツトムの声は、最後には半泣きになっていた。
「死体を玩ぶ男か。『死体マニア』だな、そりゃ。全く、厄介なヤツに出くわしたもんだ」
虫取り屋は、さも面倒くさそうに、そう言った。
「え? 『死体マニア』って。……何それ?」
ツトムの疑問に、虫取り屋が応えた。
「ソイツは、死体を切り刻んだり、継ぎ接ぎしたり、内臓を入れ替えたりして、おもちゃにするんだ。そして、生き返らせる」
「生き返るの?」
虫取り屋のとんでもない説明に、ツトムが質問をした。
「生きちゃいないさ。もう死んでるんだからな。まやかしの邪法だ。……小僧、マズイものを見たな」
それを聞いたツトムは、虫取り屋の背中にしがみついて、悲鳴を上げた。
「やっぱり、僕殺されちゃうんだ。『死体マニア』なんかに勝てるわけないよぉ。わぁぁぁぁん」
恐怖にかられて、ツトムは、とうとう泣き出してしまった。
「落ち着け、小僧。オレが何とかしてやる。じゃないと、ここから出られんからな」
虫取り屋は、そんな少年をあやすように、そう言った。
「ほんと? ホントにほんとう?」
虫取り屋の言葉を聞いたツトムは、泣き止むと、そう訊いた。
「本当だ」
「約束だからね」
「ああ、約束だ」
それを聞いたツトムは、安心したのか、また男の背にしがみつき直した。
そして、十分も歩いただろうか、二人は今にも朽ちそうな廃ビルを目にした。
「アソコか」
虫取り屋がツトムに訊いた。いや、ただの独り言だったのかも知れない。
廃ビルは三階から上は崩壊していて、見る影もなかった。残った階も、壁がひび割れたり、窓がいくつか割れていたりと、とても人が住めるという状態では無いように見えた。
「アソコの左の壁の奥に扉があって、中に入れるんだよ」
ツトムが説明した。
虫取り屋はツトムを背中から降ろすと、「ここで隠れて待っているように」と諭した。しかし、少年は応じなかった。
「やだよう。こんな気味悪い所で一人で待ってられないよぅ。もし、その死体達が来たら、僕は今度こそ殺されちゃうよ。ねぇ、一緒に連れてってよ」
それを聞いた虫取り屋は、頭の横を掻きながら悩んでいた。
「行くも地獄、待つのも地獄か。はたまた、こりゃどうするよ」
傍らの少年は、両腕で肩を抱くと小刻みに震えていた。それは、捨てられた子犬のようにも見えた。
「しかたねぇか。おい、小僧。連れてってやるよ。その代わり……」
「大丈夫。オジさんの側を離れないから」
ツトムは、虫取り屋の答えを先取りしたつもりだった。しかし、男の返事は違っていた。
「いや、そうじゃない。危ないと思ったら、後先構わず逃げろ。死にたくなかったらな」
それを聞いたツトムは、内容を理解すると、蒼い顔でようよう首を縦に振った。
二人は、慎重に廃ビルに近づくと、ツトムの言っていた入り口から中に入った。
ビルの中には、微かだか異様な臭いが充満していた。死臭である。その耐え難い臭いに、ツトムは身を震わせた。「やっぱり、死体マニアがいるんだ。見つかったら殺されるかも知れない」と。
虫取り屋は、ツトムを連れて、臭いのキツイ方へキツイ方へと廊下を歩んでいた。鮫が血の臭いに引かれるように。
ツトムは思った。「こんな不快な臭いに、どうしてこの人は平気なんだろうか?」と。
しばらく廊下を右に左に曲がって歩くと、虫取り屋は、あるドアの前で立ち止まった。死臭は凄まじく、もう我慢の限界を超えていた。
「ここか?」
虫取り屋が独り言のように言った。
「たぶん」
少年は、そう応えて頷いた。
虫取り屋は、ドアのノブに手をかけると、そっと開いた。ギギギギっと不快な音を立てて入り口が開く。
部屋の中からあふれる臭いに、少年は吐き気をもよおした。濃密な血の臭いだ。つい最近、この部屋で大量の血が流されたのだ。
目を上げると、そこには、ツトムが窓から見た白衣の老人が立っているのが見えた。老人は二人を見つめると、
「いらっしゃい。ようやくのご到着だの。お前さん方はぁ……」
と、老人は自問自答するように言った。
「オレは虫取り屋だ」
と、男は独り言のように呟いた。
「虫取り屋ねぇ。はてさてどうしたものか。わしの送った奴は、どうなったのかのぅ」
虫取り屋は、
「アイツか? あのバケモンなら、オレが美味しく丁寧に頂いた。味はなぁ……まぁ、あまり上等とは言えなかったが」
と、応えた。老人はニタリと笑うと、
「それでは、もう少し上等の物を差し上げよう。立ちなさい、フュンフ」
と何者かに命を下した。
すると、傍らのベッドがガタガタと震えて、ノッソリと異形の怪物が立ち上がった。
ソイツは、虫取り屋と同じようにボロを纏っていた。ただし、その姿は印象派の芸術家が描いた人物画のようであった。顔は右半分と左半分が明らかに違う人物だった。垂れ下がった腕は、右が左よりも長くて、床に付きそうなほどだった。垢が詰まった爪は、長く伸びて鉤爪のように変形している。
「どうだ。なかなかの傑作だろう」
老人はフュンフと呼んだ化物を、我が子を愛でるように自慢した。
「さっきの奴と五十歩百歩だな。死体を蘇らせる技術、何処から手に入れた?」
虫取り屋が呟いた。老人がそれに応える。
「それは、秘密じゃ。クックククク」
虫取り屋は、
「小僧、ここで待ってろ」
と、ツトムに言うと、部屋の中に数歩入り込んだ。フュンフと呼ばれた死体と対峙する。しかし、その目は相変わらず腐った魚のような精彩を欠いたモノだった。
「お前たちも、わしのコレクションとなるが良い」
老人がそう言うと、動く死体は、その右腕を虫取り屋に振るった。不快な鉤爪は虫取り屋の顔を削り取ったかに見えた。
ところが、宙に舞ったのは死体の右腕であった。腐った血が傷口から迸り、部屋の空気を更に不快なものにした。そして、死体は、出血多量の所為か、その場に膝をついた。
「ほう、おかしな技を使うのう」
虫取り屋の右手には、いつの間にか例の草刈り鎌が握られていた。いつ、そして何処から取り出したのか。ドアのところで見ていたツトムにも分からなかった。
「おお、可哀想に。わしの息子よ。今すぐ、今すぐ助けてやるからのう」
いつの間にか、老人が死体戦士の傍らに立っていた。その手には、太い注射器が握られていた。中身は、たった今、老人の腕から採血したばかりの赤い血である。彼は、その注射器を死体の胸に突き刺すと、シリンダーの内容物を注入したのだ。
「わしの血で蘇れ。フュンフよ」
老人が高らかに宣言すると、死体は再び立ち上がり、不気味な唸り声をあげた。
「ヴヴォヴォヴォヴォヴォヴォ」
その不快な音響に、ツトムは思わず耳を塞いだ。
老人の血が死体にどのように作用したのか、巨体が咆哮を上げると、切り取られた筈の右腕の肘の部分から、新たな腕が一瞬のうちに生え伸びたのである。
虫取り屋は、このまさかのあり得ない光景に目を奪われていたのだろうか? それとも蘇った死体のスピードが、あまりに早かったのか? 彼は再生した豪腕に殴り飛ばされていた。死体の血で濡れた草刈り鎌が、彼の右手から離れると、カラカラと床に転がった。
「そうれ、虫取り屋など、そのまま倒してしまえ」
老人の檄が飛ぶと、死体は左腕で虫取り屋の胸ぐらを掴んで高く持ち上げた。そのまま、右手を鋭く伸ばした抜き手を、コートを羽織った貧相な男に振るおうとしていた。
絶体絶命かと思われたその刹那、死体の右腕は再度切り飛ばされていた。間髪入れず、左手も宙を舞った。
いつの間にか、虫取り屋の左手には二本目の草刈り鎌が握られていた。
「誰も鎌は一丁だとは言ってないぞ」
虫取り屋がか細い声で呟くと、今度こそ死体戦士の首が飛んだ。大量の腐った血が、床の上に雨のように降り注いだ。
虫取り屋は老人に近づくと、こう言った。
「その技術、その力、何処から手に入れた。正直に言わぬと、お前の首が飛ぶぞ」
と、容赦なく老人に鎌を向けながら言い放ったのである。
「わしは知らぬ」
「未だとぼけるか」
次の瞬間、老人の左手首が宙に飛んだ。男の草刈り鎌で切り飛ばされたのだ。
「ギィヤアァァァァァアァ、助けて。助けてくれぇぇぇぇ」
泣き叫ぶ老人に対し、彼は無慈悲にこう言った。
「お前、『黒い球体』を知らんか? その力、そこから手に入れたんだろう」
老人は左腕を胸に抱えながら、
「そ、そんな物は知らぬ。わわわわ。助けてくれぇ」
とぼける老人に、再度、鎌が振るわれた。今度は右の手首が飛ぶ。
「あ、あ、あ、あああああ。無体なぁ。……そ、そうじゃ。死体を蘇らせる力は『黒い球体』から手に入れた。は、早く助けて」
懇願する老人に、虫取り屋は再度質問した。
「『あれ』は何処にある。正直に話さないと、次は足が無くなるぞ」
「あ、『あれ』は、どっかに行ってしまった。本当じゃ、本当。いつの間にか、無くなってしまったんじゃ。嘘じゃない。嘘じゃないから、早く助けてぇ」
懇願する老人を、虫取り屋は鎌の柄で殴りつけた。死体マニアの老人が気を失って倒れる。
「オジさん、殺しちゃったの?」
問いかけるツトムに、
「いや、意識を失わせただけだ。血止めをして、救急車を呼ぶ」
と、虫取り屋は言った。そして、部屋の中を見渡すと、
「デバッグ終了。これより後処理に入る」
と、独り言のように呟くと、近付いてきたツトムの額に、手をかざした。
その手に如何様な魔力が秘められていたのだろうか。少年は、あっと言う間もなく、その場に昏倒した。辺り一面に飛び散った血液は、むせ返るような不快な臭いを発散し続けていた。
気が付くと、ツトムは暗くなった公園に立っていた。遠くでは、先を急ぐ救急車のサイレンの音が、夜の暗闇に響いていた。
と、そのうち、
「ツトム! こんな所で何してるの」
と女性の声がした。ツトムの母である。遅くなっても帰って来ない我が子を心配して、捜しに来たのだ。
「お、お母さん」
「もう、ツトム。お母さんじゃないわよ。捜したんだから。今までどうしてたの?」
そう問う母に、ツトムは、
「猫を追っかけてたんだ。子猫を。……それから、どうしたんだろう? わかんない。憶えてないや」
「もう、しようがないわね。お夕飯、冷めちゃったわよ。ほらツトムったら、帰るわよ。お父さんも、もうすぐ帰ってくる頃だし」
ツトムは母親の方を見ると、
「お母さん、今日のご飯、なぁに?」
と、幼い声で訊いた。
「今日はハンバーグよ。挽き肉が安かったの。大好物でしょ、ツトム。今日のは、血の滴るような肉汁の美味しいやつよ」
「うん」
ツトムは大きく頷くと、母に連れられて自宅への道を急いだ。
後に残された公園のベンチには、ボロボロのコートを羽織った帽子の男が座っていた。その膝の上では、白い子猫が丸まって静かに眠っていた。