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右手に真っ白のちびたチョーク。目の前では黒板がてらてらと碧色の光沢を惜しげもなく晒している。美しい表面とは裏腹に爪をたてたら耳を突き刺す騒音を奏でるそこには今、半分と少しが文字で埋まっていて何も喋らず、まるでただじっと八重を待っているようだ。
そこまでは良かった。丸みを帯びたチョークの先を黒板にあてながら、重大なことを思い出す。
の、ノートを机に置いてきた。
そうノートをだ。
強制連行されたとはいえ、今更何を書くかさえ分からないなんて、チキンハートには口が裂けても言えないのである。それもこれも、全ては隣の男のせいだ!と横を見上げる。悪態をつきながら睨んだ先で、八重は驚きに目を見張った。
「ノート忘れてきたのか?ドジだな、八重は。ほら、これ見ろよ。」
呆れた顔をしても綺麗な顔は変わらず綺麗だ。その顔がにこりと笑ったのだ。天使がいる、と神に祈る習慣のない人間に思わせるほどその笑みは強烈だった。がやがやと煩い教室でそっと差し出されたノートは、まるで雨の日の傘を忘れた時に借りる傘と同じくらいキラキラしている。
「あ、ありがと、です。」
朝の無礼など帳消しにお釣りをあげたいほどの何かがきゅっと心臓を締め付ける。苦しくて、うれしくて、よくわからない。
ここだろ、と開いて指差された所を急いで黒板に移していく。合っていないなどという心配はしない。この男は数学が得意だ。学期末テストで毎回百点を叩き出す羨まし過ぎる頭脳をお持ちなのである。毎回赤点ギリギリセーフの補欠組よりも確実に正答を導き出しているはずだ。
丸写しは少し罪悪感が募るが、先生が生徒たちの文句に文句返しをしている間にささっと書き終わる。真っ白な頭はいつの間にかお花畑で埋め尽くされていた。
「ありがと、です。」
書き終わったノートを返しながら、もう一度横を見上げる。
「ああ、お礼に今日の日直手伝えよ?」
いつもなら断固拒否をするところだが、今日は催促される前に首を縦に振る。それくらいお安い御用だ。この恩は一生忘れない。じんわりする胸を抱えて着席するために広い背中を追う。
私はその背中の向こうで彼がにやりと笑っているとは朝露の一滴ほども知らないまま、小さな幸せを噛みしめて席に腰を下ろすのだった。