第十六話 ― ブラムの決断
ここ数日、ハルは暇だった。これまで村に滞在し続けていたアヒムも、資金が心もとなくなり始め、一度村を出て領主のいる町へと仕入れたものを捌きに旅立ったのが、一昨日のことである。資金の枯渇の主な原因がハルにあったため、引き止めるわけにも行かず、彼は黙ってアヒムを見送ったのであった。
そして現在、ハルは玄関先の部屋でテーブルに本を広げながら、慌しく物の整理を始めたフィーリアを眺めている。
「ええと、コレは自分の部屋においておくとして、指輪は……いっそ鍵を付けた箱にでもしまうほうが安全なのかしら?」
調薬の際に邪魔になると、普段は紐を通して首にぶら下げている指輪を見ながらフィーリアはそんなことをひとりごちる。
「ねぇ、ハルくんはどう思う?」
「……指にはめてたらいいんじゃないかな」
「もう、つれないこと言わないの! お母さんが指輪を着けるの好きじゃないこと知ってるくせに」
”面倒なことを聞くものだ”とハルは溜息をつきたくなるのを抑えてフィーリアに尋ねる。
「そもそも、どうして今になって、そんなことをしてるの?」
「それがね、この間久しぶりに村のほうに行ったら、村長さんのところに泥棒が入ったって言うじゃない? だから、用心しようと思ったのよ。ほら、ウチのは村長さんのとは違うし、高いものじゃあないけどさすがに盗まれるのは嫌だから」
そう言ってフィーリアは手元の琥珀のような石がついた指輪をハルに向かって差し出した。自慢げに指輪を見せる彼女に”高くないなら、そんなに用心しなくても”とハルが言うと”高くは無いけど思い出は詰まっているのよ”と彼女は大切な物でも見るかのように指輪を見て微笑んだ。たぶんアドニスにでも貰った物なのだろう、とハルは思う。
在りし日を思い出してか、ウットリとソレを見る彼女に”盗みに入られたって話は村長の誤解だったらしいけど”とハルは以前ザックとした会話を思い出しながら、頭の中で呟いていた。
「……そういえば、お父さんはどこに?」
いつまでもフィーリアの惚気話に付き合うというのも、曲がりなりにも血の繋がった息子として辛いものがある、とハルは話を変える。とは言ってもアドニスが家にいないことについてハルが気になっていたことも事実だ。朝は家にいたのを見ていたが気が付くとアドニスはいなくなっていた。
「なんでも、自警団の寄り合いがあるらしいわよ。今後のことで、とか呼びにきた人は言っていたかしら」
「寄り合い? どうしてまたこんな時間に」
寄り合いに集まるには少々時刻が早い。それ以上に普段はあらかじめ決められた定例会以外での集合はほとんど無かったことが余計にハルに違和感を抱かせていた。
”狼のことで何か動きがあったのか?”
ハルはそう疑う。このタイミングでの召集についてハルにはそれ以外の理由は考えられなかった。
「さぁ? 最近物騒だし、それに泥棒騒ぎもあったんでしょ? 緊急で村の警戒を強めるとか、そういう相談でもしてるんじゃないの」
フィーリアはまた物を片付ける作業に戻り、片手間にハルの質問に答えを返した。何か異常が起こっていること自体は彼女も既にアドニスに聞いている。なので彼女の回答はあくまで、ハルがその異常について下手に勘繰らないようにという思慮によるものであった。もっとも、その配慮も既に彼女よりその異常について詳しくなってしまっている彼にとっては無意味なのだが。
二人ともがそれぞれに隠し事をしながら話す。それはあまり心地のよい空間ではなかった。ハルはそんな複雑な内心を隠すように既に読み飽きたその本へと視線を落とした。それは読むという行為を主眼に置いたものではなく、そうしなければまた腹の探りあいをする羽目になりそうであったからだ。
その意味では会話の途切れた二人の間にドンドンと荒々しいノックの音が響いたのはまったくもって渡りに船であった。
「はいはい、少し待ってくださいね」
片付ける手を止めてフィーリアは音を立てる玄関へと足早に向かう。彼女が扉を開けるとすぐに聞きなれたガラガラ声がハルの耳に入った。
「おう、奥さん、悪りぃな、連絡もなく急に訪ねて来ちまって」
「ザックさんそんなに慌ててどうしたんですか!? 何かお薬でも必要に?」
心配するようにフィーリアはザックに声をかける。額から玉のような汗を流して、息を切らせた彼を見てフィーリアは、てっきり彼が薬を必要になって急いできたのだと思い込んでいた。
「いやいや、確かに奥さんが作る腰痛の薬には普段から世話になっちゃあいるがよ。今日はそっちの用事じゃあねぇんだわ」
フィーリアの言葉をザックは手を横に振って否定する。笑顔を浮かべようとしているようであったが、息が切れているせいかその試みは失敗に終わっていた。
「そうでしたか、それは良かった。でも、それではそんなに急いでどうなされたのですか?」
「ああ……なんというか、その……そう! アルフレッドのヤツがさ」
「先生がどうかなされたのですか?」
「ああ、何と言うか、俺にもよく分からないけど、ハルの坊主に話したいことがあるらしくてよぉ。それで俺が呼びに来たってわけさ」
そう言ってザックはチラリとハルのほうを見る。その顔がどこか困ったように見えたハルはさりげなく玄関に近づき、フィーリアの隣に並ぶ。近づいてきたハルに気付くとフィーリアはそっと彼の頭に手を置いた。ハルの頭を撫でながら、フィーリアはザックの言葉に首をかしげる。
「そうなんですか? ですけど最近は学校も休みなっているのに、いったいどうしたのでしょうか」
「ええと、俺は、その……内容までは」
「ああ、きっと本のことだね」
あからさまに焦り出したザックに助け舟を出すようにハルが口を挟む。すると二人の視線が一気にハルへと集中した、一方は”助かった”という表情で、もう一方は”何のこと?”といった表情で。フィーリアに説明するようにハルは続ける。
「前にアルフレッド先生にイドとハイアルのことについて書いてある本を読ませてもらう約束をしてさ」
「そうなの? でも、何も今日じゃなくても……今度、学校に行くときに読ませてもらったら」
「今日だからこそ、だよ。最近はあまり村にも行ってないし、時間があるときに読んでおきたいじゃない? きっと、アルフレッド先生もそう思って僕を誘ってくれたんだよ」
「うーん、だけどあまり遅くなると――」
「お、奥さんそれついては心配いらねぇぜ? 俺も今日は暇してるからよぉ、坊主の用が済んだらキッチリと送り届けてやるさ」
ザックの提案にフィーリアは難しそうな顔をした。ハルを行かせるべきかどうか悩んでいるようである。
「いいでしょう? ちゃんとザックさんの言うことも聞くし、遅くならないように注意するから」
最後の一押しとばかりにハルは困ったような顔でフィーリアに懇願する。しばらくは考え込んでいたフィーリアも最後には折れ、周りに気を付けることと行きと帰りはザックの側を離れないことを条件にハルが村に行くことを許可したのだった。
「だけどザックさんもわざわざこんなに急いでこなくても」
「いやなに、俺も内容を知らなかったからよ。アルフレッドが俺に言伝を頼むぐらいだからてっきり重要なことなのかと思っちまって……なんだ、本の話だったのか、ゆっくり歩いてきてもよかったなぁ。焦って損しちまったよ」
ザックの言葉にフィーリアは呆れたように笑う。
嫌な予感がしたハルは”それじゃあ、行こうか”とザックの手をとり、彼がボロを出す前にと家の外へと引いていく。ザックの手のひらは案の定、汗でびしょびしょに濡れていた。
その後姿をフィーリアが”いってらっしゃい”と見送り、ハルはその言葉に応えるように空いている手の方を彼女に向かって大きく振る。そうして、ようやく彼女が見えなくなるところまで歩いたハルはザックに尋ねた。
「それで、本当は何があったの?」
「……さすがに坊主は鋭いな」
感心したように言うザックにハルは頭痛がしそうになる。
「鋭いも何も……ザックさん、嘘下手すぎ」
「面目ねぇ、慣れてねぇんだ……こういうのは」
ボリボリとフケの積もった頭をかきながら、ザックは決まり悪そうに眼をそらした。
「い、いや、今はそんなこと言ってる場合じゃねぇ!」
空気を変えようとしてか、ザックは必要以上に大きな声を出した。飛び散った唾がかからないようにハルは半歩足を引く。ザックはそんなハルの両肩をガシッと掴むと体を下げてハルに視線を合わせた。
「坊主、落ち着いて聞けよ」
「僕は初めから落ち着いてたけど……」
その言葉に対して誤魔化すようにゴホンと一度咳払いするとザックは顔を真面目にして言い直す。
「ブラムの野郎がついに自警団を動かし始めた」
次話は三日以内を予定しています。