第十話 ― 狂信者は嗤う
「そうだよ。コレは事故だから、気にしないで」
ハルは手を伝う液体の感覚を感じながら、笑顔で生徒たちに告げた。
ハルの言葉がよほど意外だったのか先ほどまで隠しきれない焦りのせいで、引き攣った笑みを浮かべていたグレッグまでもが目を見開いている。
”コレは事故だ。誰も悪くない”
そんなことを言うハルではあったが、この教室にいる全ての人間が例外なく”グレッグのせいだ”と考えていることなど自明である。今更、どれほどフォローしようとグレッグは加害者であることを免れない。むしろハルが健気に振舞えば振舞うほどグレッグに対する周りの心象は悪くなった。
「あ、ああ……ホ、ホラみろ、コイツも事故だって言ってるだろ!?」
グレッグはと言えばそれに気付くこともなく、これをチャンスとばかりに自信の正当性について熱弁し、一向に非を認めようとしない。しかし、そういった行動をとるであろうこともハルにとっては分かりきったことだった。”保身には回っても獣人に下げるような頭など持ち合わせていない”とでも考えているのかもしれない、そうハルは思う。
そもそもあの泥ぐらいハルは簡単は避けることができた。何せこの校舎――いや、校舎と呼ぶほど立派でもないこの小屋には、所々隙間がある。それは入り口の扉の横にもあり、詳しくまでは分からなくとも何となく中が見えてしまうのである。
グレッグがその隙間を気にしなかったのは彼の背が同年代よりも高かったためだ。彼にしてみれば扉の横の隙間など自身の視線のずっと下にあり、角度的にどう足掻いても中の様子を窺い知れない。だがそれは背が低いハルにとっては同じではない。
ハルの場合、その隙間はちょうど目線の高さにある。そうでなくとも獣人の血のせいか、力はそれほど強くないが五感は鋭いのだ、ハルにしてみればグレッグが何をしようとしていたのかなど初めから筒抜けであった。
それでは何故ハルは避けなかったのか?
その問いの答えは至極単純で”弱者”となるためである。彼はただそのためだけに毎回、泥をかぶった。それでもやはり素直に顔の真ん中で受けるのは抵抗があるので、少しだけ場所を選んではいたのだが。
そのせいで気付かれるかもしれないという危惧はあったけれども、最終的にハルは”おそらく大丈夫だろう”という結論に至った。
それも当然のことで、普通の人間は当たると分かっているものにわざわざ当たったりしない。事実、周りの生徒たちは、一部の獣人に対する反感が強い者を除いて、日に日に憐憫の情を滲ませるようになった。もしもグレッグが人の心の機微に鋭く、このことに気付いていたのならば対処する機会はあったのかもしれない。
しかし彼の普段の行いが仇となる。”唯我独尊”そんな思考回路を持つ彼に逆らうことを恐れた弱者は水面下でこの感情を育んだ。例え種族は違っても自分達と同じ立場、それも年下である。彼らがグレッグよりもハルに共感を抱くようになったのは言わば必然であった。
つまりハルは自らをグレッグに反感を持つ者たちの、ひいては弱き者の象徴に仕立て上げたとも言える。
結果、グレッグの知らぬうちに反体制派とでも言うべき一大派閥が出来上がることとなった。その数はハルの見立てでおよそ生徒の四分の一から三分の一ほどである。
”これだけでも、上手く利用すれば抑止力としてそれなりの効果を発揮するだろう”そう判断できる程度には多い。けれどもグレッグと正面きって対立するにはまだ心もとない、とハルは考えた。
”潰すなら徹底的に”
その行動理念の下で、ハルは次に教室内の中立あるいは無派閥の取り込みを画策する。それこそが今回の一連の騒動であった。
無派閥の中にはとりわけハルに肩入れする者はいない。だが、グレッグに対する反感を持つものはそれなりにいる。その悪感情にハルはつけこんだ。少しだけ彼らの背中を押したのだ。
”こんな暴君がここを支配している”
それを見せ付けるだけでいい。
作戦の成果は予想以上であった。
グレッグの取り巻きまでもが彼を見放したのは、はっきり言ってハルも予想外と言わざるを得ない。この後で取り巻きと組んで散々とハルを責め立て、責任の所在ごとうやむやにしようとするぐらいは想定していたのだが、悲しいかなグレッグにはハルが思っていた以上に人望がなかった。
”つまらない”
口にこそしなかったが意外なほど簡単に進んでしまった計画のせいでハルは半ば以上、興味を失っていた。
もちろん居場所の確保は必要なので最後までやり通すが――
口から泡を飛ばしながら顔を赤くして弁明する少年に同情しながら、ハルはここ数日のうちに行った準備や根回しが過度であったことを理解する。
最悪の場合も想定して、こんな茶番まで準備したんだが……
自分でやったこととはいえ、いい加減ヌルヌルとした感覚が気持ち悪い。
人知れずそんなことを考えていたハルの耳に少女の言葉が届く。
「そ、それよりも、早く手当てしないと!!」
その声に顔を上げると、教室の騒ぎには目もくれずアリスは心配そうにハルを覗き込んでいる。彼女が目に涙を浮かべているのを見て、ハルは少しだけ良心の呵責を感じた。
こういう相手はどうにもやりにくいものだな
アリスに申し訳ない気持ちになりながら、ただでさえ平たい黒目をさらに細め、彼はここ数日の苦労に思いを馳せた。
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次話は三日以内を予定しております。