第九話 ― 忍び寄る崩壊
「なに? 酒をくれ?」
朝一番、挨拶もそこそこにハルの口から出た言葉が何かの間違いではないかと思いアドニスはオウム返しをした。目の前の息子と言えばいつもどおり涼しい顔に少しだけ笑顔を浮かべてその問いかけに頷く。その様子を見てアドニスは”自分が飲んでいるところを見て、飲みたくなったのだろうか?”と少しばかり遅い子供らしさの表出を喜んでいた。
普段は昼前に家を出て森で狩を行うアドニスであるが、今日は久々に休みを取っている。というのも、今年は例年に比べて小動物が多いと感じているからだ。普通、狩りを行うにはそれなりに森の奥に入らないと獲物に出会えないのだが、最近は森の入り口付近でも兎などの小動物を見かけたりもする。
そのおかげでこの年の食卓事情はすこぶる良かった。例年ならば黒パンにスープと兎の肉が付けばいいほうなのであるが、今年は毎日、兎の肉をつけても蓄える分が用意できている。おまけにそこに鶏肉が加わることもあり、村へ流す肉を確保しても稼ぎにはそれなりの余裕があった。そのおかげもあって今日は体を休めようと椅子に腰掛け、狩りに使う弓やナイフの手入れをしていたのだ。そんな彼に息子がかけた言葉は”酒をくれ”である。
何せこれまでは遊びを教えてもその時のみ真似るだけで、目を離せば直ぐに本を読むような子供であったのだ。”これもフィーリアの言葉を聞いて学校に入れた成果だろうか?”とアドニスは思う。
「んー、だがフィーリアがなぁ……」
「ダメ、かな?」
困ったような顔をして懇願する息子を見ると甘やかしたくなるが、フィーリアにばれたらどれほどお叱りを受けるのか分からない。”子供に何を飲ませてるの!”と目くじらを立てる彼女の姿がアドニスはアリアリと想像できた。
「分かった、それじゃあ、森で取れた果物があるからそれを絞って飲もう!」
フィーリアは怖いのでアドニスはとりあえずそうやって妥協点探す。
「ええと……お酒じゃないと意味が無いんだよ」
けれどそんな提案はけんもほろろである。
仕方ない、か
アドニスは心の中で覚悟を決めた。
「少しだけだぞ?」
「ああ、いや……そういう意味じゃなくて――」
”酒に飲む以外の意味があるのか?”とアドニスは首をひねる。少し考えたが少なくともそんなものに心当たりはなかった。料理に使うというのもあるがハルはそんなことをしそうにないし、何より朝食は既に終わっている。結局、アドニスにはハルの考えていることがなんなのか全く予想がつかない。
なので彼は目の前の息子に尋ねてみる。
「あれ? 酒が飲みたかったんじゃないのか?」
「飲みたいんじゃなくて……その、ええと”酒精”――であってるのかな? ともかくお酒の成分が欲しいんだ」
酒精つまりはアルコールである。ハルは酒を蒸留し、それを手に入れるつもりであった。
蒸留という行為自体は特別珍しくなく、この世界においても蒸留酒というものは存在する。それはハルたちの住む『リグラッド大陸』の東端、主に異人種の住む場所で好んで飲まれる酒である。基本的に他種族との流通は盛んではないものの、特産品の行き来はあるのでモノがないわけではない。
もっとも、輸入品であるので価格が高いほか、度数が高く飲みにくいこともありそこまでメジャーにはなっていない。それ故、たとえその話を聞いたとしてもアドニスには想像がしにくいものであったのだ。
「ふむ、よく分からんがどれぐらい欲しいんだ?」
「できるだけたくさん」
無水エタノールとまではいかなくとも、酒から抽出できるエタノールの量などわずかである。葡萄酒で十パーセントほどで、アドニスがフィーリアに内緒で隠してもっているものでも二十パーセントいくかいかないかだろう。
仮に二リットルの酒を蒸留したとしても最大で四百ミリ、つまりコップ二杯分に満たない計算となる。不純物も混じるので実際は少し多くなるだろうが、濃度を上げようとすればむしろ少なく見積もるべきだ。
そんな考えもあり、ハルは漠然とそう要求する。具体的な量を言って多すぎると断られないように、という配慮でもあった。
「危ないことには使わないよな?」
「もちろん」
「……分かった、少し待ってろ」
アドニスは少しだけ考えるそぶりを見せたが、直ぐに立ち上がり勝手場の棚を探り出す。しばらくするとアドニスは小ぶりの陶器をハルに差し出した。飾り気のない壷のような形をしており、容量は二リットルぐらいであろう。
ハルは渡された陶器を軽く振り中身を確かめる。どうやらまだ半分ほどは残っていそうだ。
「コレ全部使っていいの?」
「ああ、だけどくれぐれも母さんには内緒だぞ」
そういってニカリとアドニスは笑みを浮かべる。人であれば爽やかであったのだろうその笑顔は山羊の顔のせいで人間視点ではかなりで恐ろしかったことをハルはあえて言わない。
言わぬが花、なんて言葉を使う日が来るとはな
そんなハルの内心を知らないアドニスは”それと、後で何に使ったか報告すること”と最後にハルに言うと再び道具の手入れに取り掛かる。そんな父親に”ありがとう”と礼を言いハルは大事そうに酒を抱えて、調薬室へと歩いていった。
ちなみにアドニスとハルがこのことを知ったフィーリアにこってりと絞られたのはこの日から二日経った夜のことであった。
――――――
最近”何か”がおかしい
グレッグは焦りを周りの人間に悟られぬよう心の中で舌打ちした。
何がおかしいのか?
そんなことは既に分かっている
急に村に来るようになったあの獣人のことだ
実際のところハルは半獣人であるのだがグレッグにとってそんなことは瑣末な問題である。彼は獣人を汚らわしい生き物としか見ていない。それは例え人間であっても獣人と結婚したフィーリアも同じであったし、ましてや二人の子供の半獣人は言わずもがなである。
”なぜ汚らしいのか?”彼はそんな疑問を持とうとはしない。都市部に住む人間が生まれたときからそう考えているのと同じように彼もまたそうであっただけだ。そんな彼にとって今の村の雰囲気は虫唾が走るほど不快だった。
村人も初めは同じであったはずだ
皆が獣人を嫌い、それに関わる全てを拒絶する、そんな完成された秩序がこの村にはあったのだ
グレッグは真面目にそう思っていた。彼にとって元々いた一部の穏健派など存在しないも当然だったのである。なので彼の思考は常にあの一家によってこの村が汚されたというただその一点に尽きた。
気が付けばグレッグの周りにも獣人を認めるものが増え始めていた。フィーリアに薬を貰い認めたもの、肉が村に入るようになり喜んだ者、害獣を殺すアドニスを褒める者。少しづつ現れ始めたその忌々しい兆候にグレッグは幼いながら歯噛みしていた。
オレの家が一番だ
この家が村を治めていたから村は安泰だったのではないのか?
あの日のこと思い出し、グレッグは拳を握り締める。村の長だというのに獣人の一人も排斥できないばかりか、出て行かれては困る、と情けなく下手に出る父親。そんな父親にさも当たり前のように提案する半獣人。思惑が外れ肩を落とす父を無表情で見ていたときはさすがに殺意が湧いた、とグレッグはあの日目にした光景に顔を歪ませる。
十五歳で成人と見なされるこの世界において、十三歳のグレッグはちょうど大人と子供の間で揺れ動いている。十五でいきなり村を治めることはないが、それなりの役職として父の側で学び、いずれは自分がこの村を治めるのだ、とグレッグは考えている。
そんな彼にとって父はいわば目標であった。その目標が子供、しかも自分の半分もいかない者に言い負かされるのだ、彼が受けたショックは大きい。
だから彼は毎日のようにハルをいじめた。来るたびに泥をぶつけ、常に見下し、機を見てなじる”どうして獣人がこんなところに来るんだ?”と、それでもハルは学校に来ることをやめなかった。
毎度律儀に泥をかぶり、女に庇われる
獣人にはプライドなんてないんだろう
グレッグはそう考えていた。
彼は常にハルを過小評価する。それゆえに一度も考えなかったのだ”毎回同じタイミングで飛んでくる泥を何故一度も避けないのか”と。
「おお、おお、今日も朝から汚ったねぇ格好しているな」
今日も例の如くグレッグは泥をぶつける。
その惨めな様子を見て笑えば少しは気分も晴れるだろう、そう思っていた。
だが、その日だけはいつもと違っていた。
そう、彼はもう少し早く考えるべきだったのだ。
ハルが”避けれない”のではなく”わざと避けなかった”可能性を――
いつもなら直ぐに顔を上げるはずのハルはその日だけは何故かなかなか上げようとせず、ついには蹲る。
「なんだぁ? もしかして泣いちゃったのかな~?」
コレは面白い物が見れそうだと身を乗り出したグレッグの目に飛び込んできたのは、ハルの手の隙間からポタリ、ポタリと流れる――
――血だった。
その瞬間、部屋が大騒ぎになった。普段自分とつるむ友人たちも今は自分から少し離れ、教室の隅からはグレッグを非難するような視線が向けられる。そんな中でアリスはしきりに”大丈夫?”とハルに話しかけていた。弟のバートさえも軽蔑するような目で兄を見ている。
何だコレは?
グレッグはパニックになりそうな頭を冷やして周りを見る。
「ち、違うんだよ。そ、そうだ! 事故だよ事故! だ、大体泥が当たったぐらいで大げさじゃねぇか!?」
しかし、訴えもむなしく仲間たちは誰一人目を合わせない。
早くこの状況を打破しないとヤバい
と、とにかく、アイツが悪いってことに……
「そうだよ。コレは事故だから、気にしないで」
”助かった”一瞬そう思ったグレッグであったが、その言葉を言った者に気付き唖然とする。
被害者であるはずのハルは額を手で押さえながら笑顔で生徒たちに言い切ったのだった。
次話は三日以内を予定しています。