第八話 ― 宣戦布告
”ベチャリ”
そんな音が聞こえたような気がした。
ハルが扉を開けたと同時に飛来したソレは、わずかに頭を動かしたことにより顔の中心に当たることはなかったものの側頭部を汚す結果となった。不快感に眉をひそめつつ彼は頭から流れ落ちるそれに手を伸ばす。見てみるどうやら泥のようである。
「おう、わりぃな。見慣れない野良犬が入ってきたと思ってつい手が滑っちまったよ」
投げた張本人であるグレッグはそういって取り巻きに同意を求める。グレッグの友人たちはその言葉を聞いて”だったら仕方ない”とハルを嘲笑した。
「だからさぁ、許してくれよ?」
”野犬は怖ぇからな”と言うグレッグに続くように周りの人間たちもあくまで事故だと言い張った。いったいどういう事故が起きたら扉に向かってこんな物を投げる事態に陥るのか説明して欲しいものだ、とハルは思う。
わざわざ布に泥を包んで用意してまでこんなことがしたかったのだろうか?
何となく彼らに聞いてみたくなった彼ではあるが当然そんなことは口にしない。
「僕は”犬”ではなく”山羊”だよ。この村にはいないみたいだし、馴染みはないのかな」
皮肉と取られるかは微妙なラインではあるが、明確に不満をぶつけることはしなかった。ハルが反撃することを想定していたのか、それとも泣き寝入りすることを想定していたのかについては判断できない。ただ、ここで下手に行動を起こしてしまうと今後の行動がとりにくくなる可能性を考え、今は大人しい子でいることを選択したのである。
「ああ? べつにお前がなんだろうと、”どうでもいい”んだよ」
”どうでもいい”ならなぜ半獣人を嫌うのかと言いたいのだが
「そっか、でも僕もここにはまだ慣れてないから、色々教えてくれると嬉しいんだけど」
「教える? オレがお前にか? ハッ、自分のお利口なおつむで考えればいいだろ」
ハルには何が気に障ったのかは分からないが、彼はますます気に入らないと言った様子で彼を見る。
「お前さ、ちょっと出来がいいか知らないけどあんまりここでデカイ顔すんじゃねぇよ」
「ごめん、僕にはあまり難しいことは分からないよ。何しろまだ六歳だからね。そういえば君の名前もまだ聞いてないよね? 名前はなんていうの? あと年は――」
風を切る感覚が顔の直ぐ側に生じる。その次の瞬間には先ほどの泥団子とは比べ物にならない硬質な音が響いた。どうやら計算の際に使っている板切れのようである。
「――明日また来たりするようなら思わず手が滑っちまうかもしれねぇな」
「君の手はよく滑るんだね。もしかして汗っかき?」
やたらと噛み付いてくるグレッグが面白いのかハルは何も知らない風を装って彼を煽る。その様子に教室の何人かが凍りつきギョッとした目を向けていた。
また事態が飲み込めぬ子供はどうしたことか、とオロオロとあちらこちらへと目をさまよわせている。
「テメェ、いい加減に――」
「あっ、ああ、そろそろ先生も来るし準備しないと!」
一触即発の空気の中、それを打ち破ったのは意外にも先ほどまで扉の横で震えていたアリスであった。
手を自分の前で組んで隠しているようではあるが、直ぐ側にいるハルには小刻みに震えているのが丸見えである。
グレッグはその言葉につまらなそうに舌打ちするとそそくさと自分に用意された席のほうへと移動した。
それを見てアリスは長い緊張から解き放たれたように息を吐く。
そんな彼女にハルは”ありがとう、おかげで助かったよ”と一言お礼を言っておいた。
彼女は驚いたようにハルを見ると恥ずかしそうに顔を赤くする。
その様子から”もしかして彼女は私が天然であんなことを言っていると思っていたのだろうか?”とハルは思った。確かに見た目、六歳の子供、それもこの中で最年少のハルがいきなりグレッグに喧嘩を売るとは思うまい。ハルとしてはそこまでするつもりはなく、ただ彼の人物像を探るためにとった行動に過ぎない。実際、彼が本気で怒り出すようなら直ぐに頭でも下げるつもりであった。
まぁ、確かに危うかったな
思った以上に気は短いし、血の気も多そうだ
複数人の取り巻きがいるのも厄介である。元々、孤立気味であったのならばやりようもあったのだが、徒党を組まれているとなるとすぐには手は出せない。
ハルは教室のほかの生徒たちを見る。皆、内心ヒヤヒヤしていたのか今も心持ち表情が硬い。その中には気になる者もいた。自分を見ていないのをいいことに苦々しい表情をグレッグに向ける少年。決まり悪そうにチラチラとハルを見る女の子。そして興味ないといった様子で壁に空けられた窓穴から外を見ている男の子。
あとは――
「……大丈夫?」
心配そうな様子でハルの頭についた泥を拭うアリス。懐かれる要素がどこにあったのかは分からないが、シンパシーでも感じているのかもしれないとハルは思う。
グレッグは味方も多いけど、敵も多そうだ
どうやって彼らを引き込んだものかな?
ハルにとって久々のこの環境、明らかに場違いなこの場所を、気の休まる場所に変えるにはどうするのが最適か?
それにかかる時間は?
必要な物は?
頭の中に湧き上がるそれらを適宜処理しながらハルは教室の一番後ろに用意された席に腰を下ろした。
――――――
一連の騒動の後、皆が席に着きしばらく経ってようやくアルフレッドはのんきな様子で扉を開けた。やはりアリスの言っていたことは出任せだったらしい。
アルフレッドはと言えば”ごめんねー、どこに置いたか分からなくなっちゃって”などといいながら手元の羊皮紙を広げた。ハルの席からでは小さくてよく見えないが、どうやら地図のようである。
”読み、書き、計算以外に地理も教えているのか?”と思ったハルであったがどうやら地理と言うよりも社会勉強に近いようであった。
「さて、前の授業で今の世界は大きく分けて四つの勢力に分かれていると言ったよね。それじゃあその四つは何だったかな? それじゃあ――ニコル君!」
「えっ、ぼ、僕? え、ええと、人間は……あってるよね。後はええと……」
急に当てられたことに驚いたように一番前の席の男の子は勢いよく立ち上がり、独り言のようにぶつぶつと指折りながら勢力を数えている。
「ええと、人間と……獣人? じゃなくてアレ?」
「あ、ああっと、もういいよ。そうだね一つは私たち人間の勢力だ。それと獣人も四大勢力に数えられているね」
アルフレッドが褒めるとニコルはうれしそうに笑顔を浮かべ、誇らしげに座った。
「じゃあ、他の勢力、何でもいいから言える人は?」
その瞬間、教室が静まり返り皆が一斉にアルフレッドから目をそらす。
こういうところは世界が変わっても同じようだ。
「うーん、誰か分からない? 一つだけでもいいんだよ?」
それでも誰も発言しようとしないので“しょうがない”と彼は自ら生徒たちを当てていく。
「それじゃあバートくん!」
「亜人……でしょうか?」
自信なさ気ににバートは答える。
ふむ、あれが次男のバートか
兄に比べると随分大人しい印象を受ける少年で、肌も白く線も細い。八歳と聞いていたが思っていたよりもしっかりしているようだ、とハルは思った。もちろん兄の件で判断基準が大幅に下がっていたせいも当然ある。
「その通り、亜人は獣人に近いけれど別の勢力として見なしている。もっともこれはあくまで僕らの分類であって、獣人と亜人を同じ集団にカテゴライズする場合もあるね」
アルフレッドは満足そうに頷き、バートの答えに説明を付け加えた。
「さて、三つでたよ。あと一つ誰か思い出せないかな?」
彼は教室を見渡す。
音がしそうなぐらい息のあったタイミングで生徒たちが下を向いたのを見て彼の目論見が失敗に終わりそうだとハルは心の中で思った。
答えておくか
「異――」
「えと……異人、だったと思います」
自分の想像を裏切り蚊の鳴くような声で隣の席の少女が発言する。
小さな声であったが、それでも静まり返った教室ではそのよく通った声は十分に響いた。
「そう! その通り!! よく覚えてていたね、アリスさん」
照れくさそうにアリスはうつむく。
「そう、最後の勢力は異人だね。この種族に関しては呼び方は色々あるし、定義も曖昧だ」
以前、本でこれらの種族について見たときハルもその曖昧さが信じられなかった。ある本では獣人に含まれる特長が別の本では亜人に含まれるなどざらにある。
そもそもハルはいまだに獣人、亜人、異人の言葉の違いを把握し切れていない。彼に言わせればどれも同じ意味なのではないかとのことである。
「今でこそ僕たちは平和に暮らしているが、百年も遡ればひどい戦争が続く時代だったんだ。僕がこんなことを言うと裏切りみたいに聞こえるかもしれないけれどこの四つの勢力の中では人間はとても脆いからね」
苦笑いを浮かべながらアルフレッドは語る。
「結局のところ人間が生きてこられたのは他の種族とは違う技術体系と団結力をもっていたおかげなんだ」
そう言ってアルフレッドは話を締めくくった。
人間の本で得た知識がどこまで正しいのかは分からないが確かにそう記されていた記憶がハルにもある。もっとも書き方は今の話の数倍は血なまぐさかったが。
結局、非人道的な開発に加えて合理的な集団戦闘術の研究によるところだったと理解している。それでもその時代はかなりの血が流れ、少なくとも人間の勢力が優勢だったということはなかっただろう。
人間の記した記録でさえこれなのだから実際のところは押して知るべしだ。ハルとしては出来ればもう少し詳しく知りたい話ではあるのだが、人間の社会でこれ以上知るのは難しいかもしれないと思っていた。
そんな風にして多少の滞りはあったものの、その後の社会情勢の授業はつつがなく進んでいく。特に問題もなく、次は小休止を挟んで計算の授業をすることになった。
歴史や情勢に関しては非常にありがたいのだが計算に関しては地球にいたころと大差ない――むしろ地球のほうが進んでいる――のでハルが学校に残る必要はなかったのだが、アリスに”受けていかないの?”と聞かれアルフレッドにも”せっかくだから受けていかないか”と直接言われてしまうと帰るのが憚られてしまい、結局ハルはその後の授業時間のほとんどを学ぶ振りに費やすこととなった。
――――――
「プッ、アハハ、ハァ、ハァ、ま、まさか、アナタが足し算を教わるなんてね!」
その夜、例の如く夢に現れた女神はハルの前で腹を抱えて笑っていた。
「そこまで笑われるとさすがにクるものがあるな」
「いやー、だって足し算って、ねぇ?」
「今は出来るだけ地盤を固めておきたいんだ」
「”計算”の?」
「”交友関係”の、だ」
馬鹿にするように言うトウカに対してハルは至極真面目な表情である。
「交友関係? でもいくらなんでもアレは無理じゃないかしら”グレイブ”だっけ」
「グレッグだ。別にわざと間違えなくていい」
「あら、これでもワタシの敬虔な信者を馬鹿にされて怒ってるのよ」
トウカは先ほどまで笑っていたのが嘘のように静かにそう告げる。
「別に私も彼とは交友関係を結ぶつもりはないさ。彼には立ち位置を譲ってもらうつもりだ」
「それは……とても素敵ね」
その言葉を聞きトウカは目を細めてハルを見る。
「いいじゃない。少し前まであった自分の場所に自分が一番嫌いな相手が座るなんて」
「そんな大層なものじゃあない。ただ村での優位性をほんの少しだけ、ただそれだけだよ」
ハルの言うことを信じているのかいないのか”ふーん”とだけ言うとそれ以上彼女は言及しない。
「それで? ワタシに話したってことは用があるのでしょう?」
「ああ、まぁトウカにというのも違うかもしれないがな」
あの日、トウカが自分の知らないゲームをしていた時から彼が利用できるのではないかと考えていたことである。トウカは記憶の残滓からデータを復元した。
「――ここには私の生前の記憶があるのだったな?」
「ええ、そうよ」
それはつまりこの世界では情報という意味において圧倒的な優位性を保持していることに他ならない。なにしろこの世界には足りない物が多すぎる、とハルは思う。生活にしろ、食事にしろ、文化にしろ、そこに改革をもたらすことことの出来る人間を人は天才と呼ぶのだ。
――それでは一人の人間がありえないほど多くの革新をもたらしたら?
「少し閲覧したい情報がある」
「おまかせあれ、なんてね」
奇跡を起こせる者を人はどう扱うのか
信仰しない狂信者は静かに動き始めた。
次話は三日以内を予定しております。