プロローグ ― 狂信者は死にました
この小説には宗教などに関する間違った知識が含まれる可能性があります。また本作品に登場する団体は現実のものとは一切関係ありません。
全く嘆かわしいことだ
そう頭の中で考えながら、雨宮想一は僅かに眉根にしわを寄せた。
どうにもこの国には都合のいい信者が多すぎる。
ハロウィーン、クリスマス、正月……パッと頭に浮かべただけでも、そのどれもが異なる宗教の催しである。ケルトのサウィンにキリスト教に神道、どれだけ混ぜ合わせれば気が済むのだろうか。
とはいえそれがある程度しかたのないことなのだと理解できないほど彼も子供ではない。日本には困ったときの神頼みなんて言葉あるぐらいで裏を返せば、平時はほとんどの人間が無神論者であることぐらいは彼も知っている。
ただ、それでも同業者にさえ宗教家足り得ない人物が多すぎる、と想一は考えるのだった。少なくとも周りから見れば敬虔な信徒であると見えるぐらいには気を使うのが最低限の仕事だ、というのが彼なりのこの仕事に対する矜持である。
この国では、あるいはどこの国でもそうなのかもしれないが宗教家というものはあまり社会に歓迎されない。もちろん想一もその例に漏れず、かつての友人知人は今となっては誰一人として連絡を取れない。
どうにも彼らには私が狂信者かあるいは宗教を食い物にする拝金主義者にしか見えないらしい、というのは想一の言である。その中には多分にやっかみも含まれていたのだが、想一は別段これらを否定するつもりもなかった。
私は宗教が好きだ
私は神という偶像を愛している
そして――
――それには何より金が必要だと知っている
だから彼らの言うことは間違っていない。想一は確かに狂信者であったし、それでいてある一面では非常なほどにリアリストだった。
それでは、と想一は自身に問いかける。
それでは目の前のこの男はどうだろうか?
この男は私を狂信者だと思っているのだろうか?
それとも守銭奴だと思っているのか、あるいは詐欺師か?
そんなことを考えながら想一は目の前の男へと視線を移した。
少なくとも男の様相はとてもではないが、神を信じる者には見えない。
――切っ先がわずかばかり赤く染まった肉厚なナイフを胸の前で構えて、血走った目を想一に向けているその様は。
参ったな……
これから祭典だというのにせっかくの一張羅が台無しだ
目の前の男よりもむしろそれなりに値が張る服が汚れてしまったことのほうが彼にショックを与えていた。ふと目をむけると袖口には意匠とは関係のない場違いな切れ目が走り、そこからポタリポタリと滴る赤い液体がワイシャツを赤く染め上げている。
「いったいどうしたんですか? こんなことをして、きっと神も悲しんでいらっしゃいますよ」
「ハァハァ……、お前さえいなければ……、お前さえいなかったら今頃……」
想一のそれらしい言葉にも男は聞く耳を持たず、ただ壊れたように”お前のせいで”と繰り返す。
その様子を見ながら想一は苦々しい表情でこめかみを押さえた。
あまりゆっくりはしていられないな……
傷口は熱を持ったようにうずく一方で、ダラダラと流れ続ける血のせいか体温は下がり続けているような錯覚を受ける。思っていたよりも深い傷らしく、このままではいつ気を失うか分からない。
それを踏まえて想一は冷静に目の前の男に語りかける。
「訳を聞かせてくれませんか――涌井さん」
名前を呼ぶと男は驚いたように目を見開いた。男は想一が自分の名を知っていることがよほど意外だったのか一瞬だけピクリと肩を揺らした。
想一自身、今のこの状況の危険さが分からぬほど危機管理能力がないとは思っていなかったのだが、頭は普段とほとんど変わりなく、自分でも驚くほど冷静に事態を観察し始めている。
「そんなに驚かないでください。私は敬虔な信徒のご家族の名前を忘れたりはしませんよ」
「……だったら――」
”敬虔な信徒”という言葉に涌井が反応する。
「だったら俺がなんでこんなことするのかぐらい分かるだろう!?」
涌井はそう叫ぶように言うと、手が白くなるほどナイフを強く握り締めた。
肩で息をし、目じりに涙を浮かべながら彼は続ける。
「お前のせいでうちは滅茶苦茶だ。妻は家に帰らない。近所からはおかしな目で見られ、おまけに金までむしり取りやがって!!」
ああ、またこれだ
既に流れる涙を留めようともせず、彼は思いの丈を、憤りをまっすぐに想一にぶつける。
その様に想一は思わず目を覆った。
「散々人を不幸にしておいて、これがお前たちの言う神なのか!?」
「ハァ……」
「――ッ、この――」
男の長い告発がようやく終わったことを知ると想一は大きくため息をついた。
先ほどまで悟られないようにしていた嫌悪感すらも今の想一は隠そうともしない。
その様子に男が殺気立ち、再び怒鳴ろうとするが、それを妨げるように想一は言葉をかぶせた。
「いいですか、よく聞いてください」
男は依然、何か言おうと口をモゴモゴさせていたが、想一は面倒だと判断し彼が何か言う前に畳み掛ける。
「まさか貴方は神が自分たちを幸せにしてくれるだとか考えているのですか? 神に祈れば仕事がうまくいって、家庭が円満で、才能に恵まれて、お金に困らなくて――」
「お、おい! 俺は――」
急なことに涌井はは鼻白む。
それでも想一は止めない。
「――子供が健やかに育って、親がいつまでも元気で、夫婦仲がよくなって、順調に昇進して、悩みなく眠りについて、苦しみを知らずに死ねると? 都合のいいときにしか神に頼らないくせに?」
「……」
一息に想一が言いたいことを伝えると男は急に何も言わなくなった。
本当はまだ言いたいことはいくつもあるのだが……
「それはあまりのも傲慢と言うものです。それに貴方は重大な勘違いをしている。そもそも神が与えるのは――」
最後に一番伝えるべきことを言おうとする。それを聞かないうちに男はスッっと想一に身を寄せた。あまりに急なことに反応できずにいると男が何かをぼそりと呟く。なんと言ったのか想一には分からなかったが気が付くと腹部には今までなかった異物感が生じていた。
「――ッ!!」
瞬間口元に競りあがる吐き気、鉄臭さ。そのあまりの不快感に耐え切れず上がってくる液体を吐き出しす。それは毒々しいほどの赤色で一瞬にして服を染め上げていった。黒かった服は気がつけばところどころ変色した見栄えの悪い赤色が目立つようになっている。
遅れて体に走った痛みと寒さにブルリと体が震えた。どうにかしてその発生源へと目を向けると腹部には見慣れない異物がその存在を主張している。そしてその根元から湧き出すように赤い水が溢れ続けていた。それと反比例するように失われていく力。膝が折れ、受身を取る暇もなく前面に倒れこむ。その衝撃で腹部に刺さった刃物はより深く肉を抉り、その苦痛に声にならない声を上げた。
私は……刺されたのか?
すでに口からは言葉を出すことが出来ずヒューヒューと不規則な息だけがかろうじて出ていく。どうにか顔を傾けることで自分を刺した犯人へと目を向けた。涌井は先ほどまでの勢いはどうしたのか血の気の引いた顔で誰に言うでもなく何事かを呟いている。
「お…俺のせいじゃない!! コイツが……コイツが!!」
半狂乱になって頭を抱える様子は気の毒なほどで、今の自分の状況も忘れて他人事のように彼に同情していた。
かわいそうに……
これではもう、まともな幸せはつかめないだろうな
きっと彼はこれから人生の長い期間を薄暗く塀に囲まれた鳥籠のような世界で過ごすことになるのだろう。そこに娯楽はなく、幸せはなく、快楽もない。きっとその中で自問自答を続けるのだろう。どうしてこうなったのか、と。
だが、それも神の思し召しと考えるならば素晴らしい事なのかもしれない。例え方法は褒められなくても彼は間違いなく神に目をかけられたのだから……。
「クソッ……クソッ!!」
いい加減、目を開けるのも辛くなってきてゆっくりと目を閉じる。薄れ行く意識の中でそんな彼の呪詛に満ちた嘆きが耳朶を打った。
ああ、やはり彼も神に愛された人間なのか
何せ、神が我々に与えたもう物は――
いよいよ消え行く意識の中で今日の祭典に出られなかったことばかりが自分を苛んだ。
まぁ、自分の代わりならいくらでもいるだろう
慌てた様子の教祖の顔が思い浮かぶ。
その顔にフッと笑みが漏れる。もっとも今となってはちゃんと笑えていたのかさえ分からなかったが。
仕方がない。これもまた神の導きだ
『導き』……そう、神が与えるのは――
――試練だけなのだから
戦闘はあまりありません。
ゆっくりと投稿していく予定です。
とりあえず次話は明日になります。