一章 主人公死亡、なお案外元気な模様
以前小説大賞に応募して二次選考落ちした作品です、ですので既に完結しています。
よろしければ感想などいただけましたら嬉しく思います。
「安藤晟―――年齢は二十九歳、と、これは享年て言った方が良いか。身長百七十五センチ、体重は六十キロ、体脂肪率は十五%、中肉中背。趣味はコミック集めと音楽鑑賞、好きなマンガは「ジョジョの奇妙な冒険」。毎朝六時に起床、清々しい空気を吸いながら十五分の軽いランニングを日課としている。」
冷たい冬の雨が降る暗い路地裏の突き当りにて、仰向けに男が倒れている。趣味の良い少し高そうな白いスーツが、血でところどころ赤く滲んでいる。両脚と腹部には長いナイフが突き刺さっており、大量の血が流れ、それを雨が洗い流していく。コンクリートの地面にはビニール傘が一つ、持ち主の手を離れて開いたまま寂しげに転がっている。
「会社では物静かだが人当たりの良い好人物と認識されているが、プライベートでの繋がりのある友人は少ない。恋人はいない、両親は健在。毎月仕送りと手紙を送り、家族仲は良好」
人間の大半は、『勝利』というものにこだわる。そんなものは、ただの『幸福』に至るための手段にすぎないというのに。目的と手段を取りちがえ、勝利に固執し、次第に自分から勝手に縛られていく。
だけどこの男は違う。他人に勝つことなどどうでもいい。ただ自分が望むもののために動き、生活する。清々しいまでの自分勝手。故の人畜無害。この男は、たった一人で完結している。
もっと長い間、コイツの人生を見ているのも面白かったのにな。―――しかし、返事は帰ってはこない。もう死んでしまっているのか・・・雨にぬれた彼は、ピクリとも動かない。
「その能力からしたらあまりに謙虚なほど、富や名声には興味は無く、そんなことよりも家でお気に入りの音楽を聞きながらコミックを読む時間を奪われることを何よりも嫌う。夜更かしをしないように、午前零時には必ず布団に入るようにしている。」
(こんな男が、いったいどこの誰の恨みを買ってしまったのだろうな)
何よりも他人によって自分の平穏が乱されることを嫌う。毎日をただ、雲が流れるように緩やかに過ごし、そして死んでいく。それに価値を見出し、幸福を感じる男だ。
だまってりゃこんな人畜無害な奴いないだろうに。
まあ、長年人間ってやつを見続けてきたが、アイツらは実に簡単に人を殺すことができる。物理的に実行可能でお手軽があれば、本当にただ「気に入らない」だけとか「うざい」とか、そんなつまらない感情で他人を殺せる。
「―――あーあ、そう考えちまうと、つまんねえ死に方しちまったな災難だったな、お前」
実際に手を下して、お前の心蔵の鼓動を止め、脳の電気信号を止めたのは紛れもなく俺だが、それには同情せざるを得なかった。他人に殺されるなんて、コイツにとっては最悪のドジを踏んだってことだ。疎まれもせず、やっかみも受けず、可能な限りニュートラルな人間関係を構築することに神経をすり減らしたこいつからしたら、誰かに殺したいほど恨まれているなんて思いもよらなかっただろう。
「もし街で見かけたらさ、俺のお気に入りの喫茶店で飯でも奢ってやるよ。―――特別だぜ?」
ま、今度遭うまで無事に『死んで』たらの話だがな………
袂から白くて細い棒を取り出し、側面に付いたスイッチを押す。しばらくすると吸い口から白い煙が出てきて、棒を口に咥える。
プラスチックの円筒状の機械の中に様々なフレーバーの液体が入ったカートリッジを入れそれを加熱してその水蒸気を吸引する。電子タバコというものらしく、俺の愛用品の一つだ。
元々は喫煙者の禁煙を助けるために開発されたものらしいが、俺は別にタバコを吸っていたわけでもないが、これが気に入って二年前から愛用している。
降りしきる雨の中、落ちていたビニール傘を拾い上げながらタバコを蒸していると、袂の中でぶるぶると携帯が震えだした。
「もしもし」
電話の話し口からは、いつも通りの落ちつき払った今の俺の雇い主の声が聴こえる。五十代にしては若く聴こえるが、さすがに人間にしては長く生きているだけあって貫禄がある。
「ああ、今終わらせたよ。―――ああ、わかってる。確認は、明日の朝刊でも見せとけよ。―――だが、思った以上に落ちついてるんだな。罪悪感とか無いの?」
俺の言葉にも、電話口の男は動じた様子が無い。この男は、自分と自分の成すことに絶対の自信を持っている。―――そしてその自信の通り、この男は頭が良く狡猾で、きっと天才というのはこういう男のことを言うのだろうな。今も電話口から「幽霊であるお前は、人間の法律に引っかからない―――ならばこの殺人が裁かれる時は、私がヘマをした時ということだ。つまり私が裁かれることはない」と、特に自慢げでもなく、当たり前の事実をただ述べるように男は言う。
―――まあ、俺が訊いたのはそういうことじゃなくて、お前の気持ちのことなんだがな。
「これから忙しくなるな、典三よ」
電話口から「そうだな」と低く響く声が聴こえ、「お前にもしっかり働いてもらうことになる、銀」と言われて、通話は切れた。銀というのは、俺の通称だ。元々の名前は銀二だったか、銀河だったか、とにかくそんな名前だった気がする。
とはいっても、幽霊は自分の本名を正確には思い出せないようになっているので、これも偽名と言ってしまえばそれまでだが。
「ふう」
街の喧騒から離れた路地裏で、雨の冷たさを感じながらため息を吐く。ここから数分も歩けば大通りに出て、こんな土砂降りの雨だというのに人が溢れ、騒がしく生活している。
そう言えば、生きている人間が生活するのを『生きる』と言うが、―――『今日を精一杯生きよう』とか、『君と共に生きる』とか。
じゃあ俺達死人が生活するのはなんて言うべきなんだ? 死んでるのに『生きる』とか『生活』なんていうのはちょっとおかしいよな。『死ぬ』とか『死活』って言うべきなのかな。
足元で倒れている男の体見る。この男も明日からは、俺と同じように『死んでいく』のか………。
最初は戸惑うだろうな。その様を想像すると少し可笑しくなった。
「じゃあな。縁があったらまた会おうぜ―――」
都会人というのは、私が思っていた以上に他人に無関心らしい。
まあそれも自然なことか………。
映画・本・テレビ番組・ゲーム・音楽・美食―――これだけ娯楽があれば、そりゃ他人になんて関わっている暇なんてないだろう。きっとそれらを消化しているだけで、人生は楽しいものになるのだから。
文明が発達すれば必然、他人の人生に進んで関わろうとする酔狂な奴なんて減るに決まっている。それが良いことなのか、はたまた悲しいものなのかは、私が判断するべきことではない。
例えば目の前で子どもが大型トラックに轢かれたとして、コイツらはきっと挽き肉にいなった子どもを一瞥して顔を歪めるだけで救急車とかを呼ぶこともせず、ましてや駆け寄って生死を確認したり呼びかけたりなどしないのだろうな。
友人や恋人にだって、きっと口で言うほどの執着はないのだろう。誰かの誕生日や恋人との記念日なんかよりも、好きな漫画の新刊が発売される日や給料日の方が誰だって大事だ。
私だってそうだ。
だから、例え池袋の駅前で裸の中年が悠然とベンチに腰掛けていても、誰もそれに眼も留めず声も掛けず、警察が寄ってこなくても不思議ではないのだろう。
「―――一体いつから、日本人はこんなにも冷たい人種になってしまったんだろうな………」
裸で緑色のベンチに座りながら、目の前を何事もなかったかのように通り過ぎる人々を見て一人ごちる。
裸足で踏みしめる茶色い煉瓦のような素材のタイルと、尻と背を付けたベンチがひんやりと湿っている。どうやら昨日は雨だったようだ。上を見るとまだ雲が厚く張っている。今にもまた降りだしてきそうだ。
何故私が裸で駅前のロータリーにいるのかは、皆目見当がつかない。気が付いたらここにいた。十分ほど前にこのベンチの上で目を覚ました時には、すでに何も服を着ておらず焦ったものだ。
だが何故か頭がうまく働かず、今に至るまでぼーっとここで街ゆく人々を眺め続けている。頭に靄が掛ったように思考が判然としない。今日は何月の何日だったか………
寝ている間に身ぐるみを剥がされてしまったのか、それとも最初から着ていなかったのか。それすらも判断がつかない。前も隠していない。一糸まとわぬ姿とは正に今の私のためにある言葉だろう。
ここまで来てしまったらうろたえたら負けだと思い、公然わいせつ罪でも痴漢でもなんでも来るなら来い、懲役何年くらいだろうか等と覚悟を決めてそのまま現場にとどまり続けたのだが。
何故かいつまで経っても捕まらない。制服を着た警官が訝しげに睨みながらやってくることも、道行く人々が蔑むような目で見てくることも無い。
今は何時なのだろうか。学生らしい姿がちらほらと見えることから、少なくとも放課後か、通学時間なのだろう。
セーラー服を着た女子高生も、黒いスーツに身を包んだOLらしき女性も、何事も無かったかのように私の前をただ通り過ぎていく。小学生くらいの女の子が隣に座って来た時などは目を疑った。
―――どうやら私が思っていた以上に、都会の人間は他人に無関心らしい。
それにしても、なぜ私は裸でこんなところにいたのだろうか。
酒にでも酔ってしまったのだろうか、そう考えて前日の出来事を思い起こしてみるが、一切思い出せない。いや、何よりも不思議なのが、それ以前のことすら全く思い出せないのだ。
一体どんな人生を送ってきたのか、それが思い出せない。いつ生まれ、どこの学校に通い、誰と恋をし友人となり、どこで働いていたのか。自分の本名すら思い出せない。
記憶喪失―――その単語が脳裏を過った。
だが一体どこからどこまでが記憶喪失なのか………思い出せるのはどうやら、自分の趣味嗜好くらいの物のようだ。好きな食べ物、音楽、本、尊敬する偉人、女性の好み、風呂に入った時に最初にどこを洗うか。そういった私自身の感情によるモノは、どうやら覚えているらしい。
人格をまるまる失ったというよりは、私の『思い出』だけが、根こそぎ奪われたような感覚だ。一体どんな人生を歩んできたのか。どんな友人がいたのか、出世はしていたのか、どこに住んでいたのか、家族は、役職は。そういったことは全く思い出せない。
街行く人々の姿を見ると、皆厚着をし首にふかふかのマフラーを巻いている。どうやら季節は冬らしい。そしてそれに気付いた瞬間、思い出したかのように冷たい風が私の体を撫で上げる。吸い込む冷たい外気が肺を冷やし、しびれるような寒さが体に奔る。
「とりあえず、服を手に入れないと死んでしまうな」
だが困ったことに服があるだろう自宅の場所はわからないし、新しく買おうにも金を持っていない。
「さてどうしたものか」
途方に暮れ悩んだ末、私は池袋駅に隣接する大手百貨店の四階、紳士服売り場に来ていた。
ここならば中は暖房が効いているし、頼みこめばひょっとしたら古い服をもらえるかもしれない。
エレベーターに乗っている時に太った婦人と女子高生が二人、それに私と同い年くらいの男性と一緒になったが、私には目もくれず、鏡に映るその様は我ながらに不気味に思えた。
原色を散りばめたような凝ったものから黒塗りのシンプルなものまで、様々な内装の店が並ぶ中、私は黒地に白いアルファベットで書かれた看板の店に足を踏み入れた。
内装も磨き上げられた黒いタイル一色で、鏡のように光が反射して鈍く輝いている。品物もどちらかというと落ちついた色合いでタイトなものが多く、若者よりも少し上の年齢がターゲットのようだ。
中で品物を出していた男性店員に声を掛ける。もし良かったら服を一着恵んでくれないだろうか、と。
訝しんで見られるだろうなと考えた。怪しい客だ、そう思われて相手にもされず警察を呼ばれるかもしれない。だが実際にはそれは無かった。肌に張り付くようなフォルムの黒い服を着ていた男性店員は、私の言葉など聴こえていないかのように、私など存在していないかのように、黙々と品出しを続けた。
いくら裸の男が相手だからといって、いや裸の男が相手だからこそ、服屋の店員としてこの態度は失格じゃないだろうか。ある意味今私は、この世の誰よりも服を欲しているのだから。
しかし何度呼びかけても私には見向きもせず、そして他に客が来た時には積極的に接客をしに行く。
そして同じようなことを他の店舗でも試したが、皆私のことなどそこらに転がる石ころのよ
うに、いや、それどころかまるで空気であるかのように無視するばかりであった。
ここに来てようやく、ぼんやりと抱いていた疑惑が確信に変わった。
「―――私の姿が、誰にも見えていない?」
まるで透明人間にでもなったように、私の姿が誰にも見えていない。そう考えるのなら、これまでの周囲の反応も納得がいく。
「馬鹿な」
漫画の読み過ぎだ。そんなことが現実に起こりようはずがない。自分の頭に浮かんだ子供じみた発想を、心の中で懸命に否定しようと試みた。
―――仮に、あくまで仮説ではあるが、私のことを『透明人間』と仮定することにしよう。
一体なぜそうなってしまったのか。いつからこうなってしまったのか、もしかしたら生まれた時からそうで、私が忘れてしまっているだけなのか………。それすらもわからない。
そして、どうやら異変はそれだけでは済まなかったようだ。
姿が見えていないのであれば、店の商品を少しの間『拝借』してもばれないのではないだろうか。そう思い好みの服を一着選び、聴こえないだろうが店員にわびを入れて持って行こうと手を掛けた時、それに気付いた。
綿でできたカーキ色のズボンに手を伸ばし、触れた瞬間、それが柔らかい泥でできたように、ズプリと私の腕が飲みこまれた。これには流石に驚き跳びはね、腕をそのズボンの中から引っこ抜いた。
まさかと思い、もう一度そのズボンに触れて見る。しかし私の腕はまたもズボンの中を泳ぐだけで、持ち上げることも動かすこともできない。試しに他の服にも触れてみたが、どれ対しても同じ、服は皆一様に私が触れた瞬間、抵抗の無い液体のようになって、私の腕をすり抜ける。
まさか物にも触れないのだろうか、私の体は一体どうなってしまったのだ―――?
だが物に全ての物に触れないのならば、こうして床に立っているのも、壁に触れるのもおかしい。どういうことかと、私は首をひねった。私の知らない所で、私の身に一体何が起こったのか………。
とりあえず、ここで服を調達するのは無理そうだ。いや、それ以前に他人に見えないというのに、裸でいることを気にして服を着る必要があるのだろうか………。
それにもし服を得たとして、その服は他人に見えるだろうから、それを透明な私が着たら目立ってしまうんじゃないか?
どっきり人間として妙な研究所に送られるのは御免だ。それよりは思い切って、全裸のまま過ごした方がむしろ理に適っているとすら思える。、開放的だと考えれば悪くない。人間だって、太古の昔には服なんて着ていない姿が自然だったんだ。
ここにいる分には特に寒さも問題にならない。しばらくはここで色々見て回りながら、状況を整理することにするか。
エレベーターの所に戻り、下層階行きのボタンを押す。どうやらエレベーターのボタンは押すことができるようだ。ボタンに明りが灯り、扉の上部に付いた階層を示す数字がだんだんと下がっていく。まずは一階から順に見ていこう、できれば少し実験もしたい。早めに私という存在を把握しておきたい。
チン、という音がして扉が開く。私の他に待っていた客はおらず、エレベーターの中には茶髪の若者が一人乗っていた。それに乗り込み、一階のボタンを押して扉を閉じる。駆動音と少しの浮遊感と共にエレベーターが動きだす。
目の前の若者はイヤフォンを耳にして目を閉じている。眠いのか、はたまた音楽に陶酔しているのか。服装はラフな格好にもこもこのジャケットを着ており、明るい茶色に染めた髪も相まっていかにも『今時の若者』といった風貌だ。
一体どんな音楽を聴いているのだろうかと想いを馳せる。ロックだろうか、以外と演歌かもしれない。今時の若者の好みはわからないからな。などと思っていると、若者がパチリと目を開ける。ちょうど彼の顔を見ていた私と視線が交錯する。
パチパチと忙しく瞬きを繰り返し、若者は目を見開いた。
何か珍しいものでもあるのだろうか? このエレベーターには私を除けば誰も乗っておらず、エレベーター自体もごく普通のものに見えるが………
「―――へ」
少し広めのエレベーターの内部をキョロキョロと見渡していると、若者が突然口を開いた。
「変態だーッ!」
男性にしては高い金切り声で若者は突然叫び出した。至近距離でそれを聴いた私はあまりのやかましさに両手で耳をふさいだ。
そうしている間にも若者は「変態だ!」と、まるで子どもが覚えたての言葉を連呼するかのように騒ぎ続ける。
「少し黙れ」
いい加減うるさかったので止めようと手を伸ばすと、彼は額に汗をかき、何か不潔な物を見るような目で私を見、手で払うような仕草をしながら遠ざかる。
「うわッ! ち、近寄るんじゃねえよこの変質者! ―――なんつーカッコしてやがんだテメエ!」
ちょうどその時、エレベーターのドアが重苦しい音を立てながら開いた。目的の階に着いたらしい。エレベーターの外では到着を待っていたらしい客が二人いた。
私を性的に危険な男と判断したのか、若者は扉が開いたかと思うと、どたばたとした足取りで逃げるようにエレベーターから飛び出し、外にいた中年男に縋りついた。
「た、助けてくれ! へ、変態がいるんだよ!」
おもむろに手を掴まれた中年の男は怪訝そうな顔で若者を見て、それからひょいと辺りを見渡すと、訝るように「何言ってんだい?」と若者に言った。周りにいる人達も奇妙なものを見るような視線を若者に注ぎ、遠くでは買い物の最中だろう女性二人がひそひそ話をしながら横目で見る。高校生らしき男子三人組が、馬鹿にしたような視線を彼に浴びせる。
周りの雰囲気に気付いて若者は「な、なんだよ………!」とたじろんだ。私のいる場所を指さし、「アイツだよ、アイツ!」と必死に周りに騒ぎ立てる。
「は、早く警察を呼んでくれよ! やべえだろ!」
「あー。落ちつきなさい。―――あんまり騒ぐようなら、店の人を呼ぶよ?」
周りの者が遠巻きに眺める中、中年の男がなだめるように言った。その態度がますます気に食わなかったのか、「な、何言ってんだよ」と、若者は疑心暗鬼になったように男の手を振り払った。
「そ………そうか、わかったぞ。―――お前ら、俺をハメるつもりなんだろう! お前ら全員、コイツのグルで、俺の反応を楽しんでるんだろ! クソ、ふざけやがって」
中年男があきれ果てたようにため息を吐いた。「何を言っても無駄だ、何か怪しい薬でもやっているのかもしれない。全く、最近の若い奴は」という彼の心の声が聴こえてくるかのようだった。
そうこうしている内に騒ぎを聴きつけた店の警備員が遠くからやってきた。また面倒なことが起こった、とでも言いたげな気だるい動作だった。それを見て、若者がますます狼狽した。
私は焦る若者を見て、このままだとコイツは捕まるだろうと感じた。ひょっとしたら幻覚幻聴を見聞きする異常者と判断されて妙な病院に連れて行かれるかもしれない。
貴重な若い時間を私のせいで潰してしまうのは心苦しい。少し思慮は浅そうだが、彼は何も悪いことはしていない。ただのちょっとした認識の違いによるトラブルだ。それに………。
私は若者の背後から近寄り、その細い肩に手を伸ばす。
―――この男は私のことが見えている、みすみす捕まらせてしまうのは惜しい。
当然だが周りの人間には私のことが見えていない。そして肝心の若者も今は別のことに気を取られている。
丁度いい、ここで試しておこう。………人間に触れるのかを。
手が触れる寸前に、若者が何かの気配に感づいたかのようにこちらを振り向いた。だが時すでに遅し。私の手が、彼の体に触れる。
ずぶり、と手が彼の体に入り込む。まるで沼に腕を突っ込んだかのように、皮膚も筋肉も全てが感触の無い重い水になってしまったかのように、私の腕を飲み込んだ。
「………これは」
「―――ひっ!」
若者はそれを見て短い悲鳴を上げる。私という存在よりも、自分自身の身に起きている変化に恐怖するように顔を引きつらせる。通り抜けるような感覚を確認して、腕を若者から抜く。
どうやら人間には触れられないらしい。
「落ちつけ」
自分の理解を超えたことが起こり、思考のキャパシティを超えてしまったのか、彼は口をパクパクと動かし、言葉を発せないほど混乱しているようだった。
「お前が今見た通り、私はお前達の常識の範囲外の存在らしい。そして、私の姿はお前以外には見えていない。どれだけ騒いでも、お前が狂人として見られるだけだ」
「―――見えて………ない?」
若者は必至に思考を正常に戻そうと、可能な限りこの異常事態に順応しようと頭をフル回転させる。
「そうだ………よし、だんだん落ちついてきたな? よしよし、良い子だ」
パニックに陥った子どもをなだめるように、できるだけ優しく落ちついて、「こんなことはなんでもないことなんだよ」という風に若者に言葉を掛ける。何度か深呼吸をさせると少し落ち着いたようだ。目の光が安定し始める。
中々どうして、子供をあやす才能があるんじゃないか、私?
「外に出るぞ。ここにいたら捕まってしまう」
私が言うと、若者はまだ混乱しているようだったがとりあえず頷いて、怪訝そうに見つめる人の群れを速足に通り抜けて、正面玄関から大通りに出た。周りの人も警備員も、面倒事に巻き込まれるのは御免なようで、それ以上追うことはしなかった。
「………マジに誰も見えてねえのかよ」
デパートを後にし、昼間のアーケード街を闊歩していると、若者が周りの人間をキョロキョロと眺めながら言った。
「ここにいる全員が、私とお前に対してドッキリを仕掛けてでもいない限り、それは確かだ」
車道を開放し、歩行者天国となっている大通りには老若男女様々な人間が行き交う。そしてその誰もが、私の存在に気付いた様子など無く、私にぶつかっても気付かずに当たり前のように通り過ぎていく。
私の言葉に若者は「そりゃそうか」と納得していた。少し歩いたこともあり、彼は大分落ち着いたようで私に着いてきた。
「で、アンタなんなわけ?」
「私にもわからん。気付いたら既にこうなっていた。ちなみに気付いたのは二時間ほど前だ」
「透明人間?」
「お前に見えていることから、そうだと断定するのは危険だということがわかるがな」
何故私のことが見えるのか、この男は全く身に覚えが無いらしい。私みたいな人間を見たのもこれが初めてだということだ。
だがまあ、見える人間がいるということがわかっただけでもラッキーと考えるべきか。
若者は「透明人間ねえ」と呟き、何気なく私に訪ねた。。
「どんな気分? おもしろい? やっぱ」
「やっぱとは、まるで透明人間が愉快な物のようだな」
「だって透明人間だぜ? 他人から見えねえって、ある意味無敵じゃん。なんでもし放題だろ?」
若者は「何を当たり前のことを」と言いたげに私に言った。まだ出会って十分ほどしか経っていないというのに、その口調はもうすでに親しい友人に対するように馴れ馴れしいものになっていた。 それが少し不愉快だったが、言われてみて少し考えてみる。―――私自身は、この状況をどう考えているのか………。
「―――不安だ」
「え、そうなの?」
若者は少し意外そうに声を上げた。
「ああ、―――お前にはわからないかもしれないが、『自分』というものが正確に把握できないのは、私にとっては耐えがたいくらいの恐怖なんだ。自分が何をできるのか、何ができないのか、何者なのか。それが把握できないというのは、恐ろしいものなんだ」
「でもよ、透明人間なんだぜ? 良いこといっぱいあると思うぜ? 女子更衣室とか覗き放題じゃん」
お前は中学生か。
「例えば、私が『誰にも見えない存在』だとする。そう考えれば、その案は悪くない。ノーリスクハイリターンだ」
「お、覗くのがハイリターンだと認めたぞ、このオッサン」
「何が悪い………。だが今の状況では、それは賢い行動では無い。お前が私のことを見ることができた時点で、『誰にも見えない』という前提が崩れるからだ」
「でもよ、大体の人間には見えてないんだろ? 俺だけが例外かもしれないって考えてもいいんじゃねえか?」
「私が恐ろしいのはそこなんだ。自分の行動に、不確定要素が多すぎる。それはとても恐ろしいことだ。―――逆に言えば、お前以外の誰も私のことを見ることができないということがわかれば、私は迷わず女子更衣室を覗く」
若者はへー、と興味があるのか無いのかわからない頷き方をする。
「自分にとって何が可能で何が不可能なのかを知ることは、幸福に生きるための絶対の知識だ。―――政治家は多少のムチャをしても国民が怒らないのを知っているから、税金で私腹を肥やせる。無知な猫はタマネギを喰い、死亡する」
だから早急に、自分がなんのかは把握したい。ひょっとしたら他の人間が平気で食べているものが私にとっては猛毒だったりするかもしれない。それを知らずに死んでしまっては洒落にもならない。
「アンタ、これからどうするつもりなんだよ?」
「さあな………。家に帰りたいが、場所を忘れてしまった。ホテルに泊まろうにも金が無い。―――こんな格好で野宿をすれば、明日には凍死体になっているだろうな」
よくよく考えれば、何て八方ふさがりなのだ。行く当てなんてあるはずもなく、まるで生まれた瞬間に野に放り出されたかのようだ。
それを聞いて若者は「ふーん………」と少し考えるように唸って、私に言った。
「なんだったらアンタ、ウチに来るか?」
それを聞いて、私は耳を疑った。こんなどこの馬の骨ともしれない、それどころかまともな人間であるかすら怪しい裸の男に、この男は………。だが私としてはとてもありがたい。
「良いのか!?」
「ああ、アンタ悪い奴じゃなさそうだし。それに、透明人間なんて面白そうじゃんか」
ああ、若者の好奇心というのはなんと素晴らしく、そして無防備なんだろうか。これでもし私が本当にただの露出癖の変態だったらどうしていたのだろうか。照れくさそうに笑うその笑顔を見てそう思う。
コイツは悪人ではないが、見た目以上にどうやら頭は悪いらしい。
だがそんな人間は、私は嫌いじゃない。
「感謝だ」
私は心からそう言う。「お前に会えてよかった」と、ドラマのようなセリフを吐く。若者は照れくさそうにはにかみ、「良いってことよ」と言った。
そうだ、いつまでも『若者』『アンタ』では不便だな。
「君の名前は?」
「ああ、拓郎ってんだ。つまんねえ名前だろ?」
「いや、良い名だ。親に感謝しろ」
肩をすくめながらやや自嘲気味に言う拓郎に、私は即答する。名前なんてのに、派手さは必用ない。ほんの少しの意味があって、それで呼びやすければそれが一番良い名だ。
「アンタは?」
「私は――――」
ああ、まただ。頭に靄がかかったように、ある部分だけが隠されているかのように、自分の名前がわからない。悩む私を見て拓郎が呆れたように「何だよ、自分の名前も忘れちまったのかよ?」と言ってくる。
「いや、待ってくれ………ここまで出かかってるんだ」
そう言って自分の喉を指さす。拓郎が「ホントかよー?」と笑う。いや、本当にあと少しなんだ。―――佐藤………いや、遠藤だったか? とにかくそんな感じだ。
そうていくらか考えて、私は数十の候補の中から「もうこれで良いか」と、一つの名前を選んだ。
「………梧桐だ。下の名前は忘れた」
「テキトーじゃねえのー?」
さも可笑しそうに拓郎が言う。笑う顔には中々愛嬌のある奴だ。
「まあいいや」と拓郎がコホンと咳払いをして右手を差し出す。
「これからよろしくな、梧桐」
いくら触れないと言っても、この握手を無碍にできるほど、私は人格が破綻していない。まあ、こういうのは気持ちと形が大事なものだと思い、私の右手を差し出す。
「ああ、よろしく。長い付き合いになりそうだ」
そうして拓郎の手に触れると、不思議なことが起こった。
さっきは触れなかったのに、私の手は拓郎の手に触れ、ガッチリと握手を交わしていた。
その若者特有の少し柔らかい手触りと力強い握力に誰よりも戸惑ったのは私自身だった。
それを見て拓郎はどこか嬉しそうに笑い。
「へへ、本気で長い付き合いになりそうだな」
と言って、確かめるように私の手を握った。
読まれたら続き上げます