第一話
夕暮れ時の河川敷とは、えてして人の往来が激しいものである。
周囲に視線を巡らせてみると、愛犬と共に散歩する主婦の姿が見える。
その傍らを陸上部の男子数名が列を成して走り込んでいたり、或いは彼と同じように帰路に就く者もしばしば目に付いた。
十月も半ばを過ぎ、遠く山合いに紅葉の兆しが見える秋の候。
西の果てに沈んでいく夕日を背にしながら蒼井司は一人で河川敷を歩いていた。
ふと、彼が右に視線を向けてみると小さなグラウンドが見えた。
コートの中では赤と青のゼッケンを付けた小学生が砂埃を巻き上げながら白黒のボールを追いかけ、あっちへ行ったりこっちへ行ったり縦横無尽に忙しなく走り回っている。
対して左手には、司の学び舎である神在高校の校舎が夕日を浴びてオレンジ色に染まっていた。
屋上ではブラスバンド部の生徒が何か曲を演奏しているらしい。演奏してる曲は……何となく聞き覚えはあるがちょっと分からない。
「少し、寒いな」
ふるふるっと身体を小さく震わせ独りごちると、司は学ランのポケットに両手を突っ込む。
季節の変わり目とは非常に不安定で天気予報があまり当てにならない。
とうに過ぎた夏を思わせるような陽気に包まれることもあれば、冬に一歩踏み込んだかのような強烈な冷え込みが訪れることだってある。
今日がまさにそれだ。
秋という季節は一見すると穏やかで過ごしやすそうなのだが、その実空の気まぐれに振り回されて非常に過ごし難いのだと痛感する。
思った以上に強く吹き荒れる冷たい風を浴びてサッカー少年たちは辛くないのだろうか。まぁ、自分には関係の無い話なのだが。
「だから、それは違うって言っているだろう!?」
そうして歩き続けてどれくらいだろうか。
河川敷の区切り、ちょうどこの町と隣町とを繋ぐ橋の袂から何者かの激しい口論が聞こえてきた。
本来ならば無視してさっさと帰るところだが、物珍しさと小さな野次馬根性、それに一時の気まぐれが加わって司は何となく覗いてみることにした。
そこには男女が向かい合って立っていた。
二人とも二十歳前後だろうか。
袂の影に隠れていて外見は詳しく窺えないが、少なくとも男性の方は体格からして司より年上だろうと推測できる。
女性の方も詳細は分からないが、男性と妙に近い距離で口論するあたり親しい間柄、要するにカップルなのだろうと容易に見当がついた。これからまた冷え込むというのに、こんな場所でご苦労なことである。
「嘘、私見たのよ! アナタがあの子と腕を組んで楽しそうに歩いてるの!」
「誤解だって! あれは向こうが勝手にくっ付いてきて……!」
「その割には楽しそうにしてたじゃない!」
浮気の現場を見つけられてそれを責められているという構図、俗に言う修羅場と言うヤツだ。傍観しているご身分ではあったが、大変メンドクサイ話だなぁと司は遠くで嘆息した。
……馬鹿馬鹿しい。
そうやって誰かと一緒に居たがるから、くだらないコトで揉め事を起こす。
素性の知れない他人と他人が隣同士になるのだから何も起こらないわけがない。
そうと分かり切っているのに、どうして人は誰かと一緒に居たがるのだろう。
「……帰ろ」
夫婦喧嘩は犬も食わない、当然人間だって食うもんか。
周りに野 次 馬が増えているのにも関わらず、未だ激しい口論を続けるバカップルを尻目に立ち去ろうとした、その時だった。
「喧嘩はやめてくださいッ!」
突如凛と響いたそれは、正しく鶴の一声と形容するのが的確と思えた。
激しく論ずる二人の声が途切れ、それに釣られるようにして司も思わず振り返ってしまう。
そして、突如現れた第三者の姿を目にして唖然とした。
まず驚いたのは、現れた第三者というのが自分とあまり変わらないような十代の少女だったということ。
小柄な体躯にやや黄色がかった明るめの茶髪――たしか、亜麻色というのだっただろうか――を腰元まで優雅に伸ばしている。
差し込んだ夕日がまるで後光のように少女を照らしているが、その瞳は沈みかけの太陽に負けじと煌々と輝いていて、先の神々しさを完全に消し飛ばし無邪気な子供のような印象を受ける。
驚いたのはそれだけじゃない。
少女の出で立ちもまた司の、いや、周囲の野次馬やカップルの目を引くには十分過ぎるほどに奇抜だった。
時代錯誤も甚だしい、それこそ百人一首の絵札からそのまま飛び出してきたかのような色艶やかな和服……いや、和服とは少し違う、羽衣というのだったろうか。和服に関しての知識が乏しい司としてはそれ以外にうまく言い表すことができなかった。艶やかな桜色の生地に、桜の花びらを模した金色の刺繍がキラキラと眩しい。素人目で見てもそれが高級品だとわかる。
そんな絢爛豪華な出で立ちの少女は、その姿恰好に凡そ相応しくないと思われる河原の地べたをずんずん踏み込んでいくと、激しい口論を繰り広げているカップルの間に割って入っていった。
「ちょっと! アンタいったい何なのよ!?」
「関係無い子供は黙っててくれないか!」
ごもっともな反応。
しかし、少女はいやいやと首を右に左に振ってその頑なな意志を主張した。
「嫌です! せっかく結ばれつつあった縁が離れていくのを、黙って見過ごすなんて私には出来ません!」
その言葉を聞いた彼らの顔はどんなだっただろうか。
いやきっと、この会話を聞いていた司を含む野 次 馬全員が同じ顔を浮かべたに違いない。
『コイツ、何言ってんだ……?』
しかし少女の方は至って真剣らしく、羽衣の所為であるのかないのか不透明な胸をずんと張って威張るようなポーズを取っている。
腰に手を当て「いいですか?」と前置いてから少女は勝手に語りだした。
「“縁”というものは、人と人とを繋ぐ非常に大切なものなんです。あなた達が大学構内で初めて出会ったのも“縁”。初デートに水族館を選んだのも“縁”。遅刻が原因で喧嘩して仲直りしたのも、あなた達二人の“縁”が結びつけてくれた結果なんですよ!」
「な、何でそんなことを……!?」
「初デートの場所までって……!? まさかアナタ、こんな見ず知らずの子に言いふらしたの!? 信じられない、サイテー!」
「ち、違う! そんなわけないだろ!? でも、僕たち以外に知ってる人間なんて……」
「じゃあ何でこの子が知ってるのよ!?」
「僕だって聞きたいよ!」
「だから、もー! 喧嘩はやめてくださいってば!!」
今目の前で繰り広げられている喧嘩の要因の一つが自分だとは露知らず、羽衣の少女はぷくーっと頬を膨らませ両手をブンブンと振り回し始める。羽衣の袖がばさばさと音を立てて、鳥の羽ばたきに似ているとも言えなくもない。
全くもって奇妙な少女の登場、及び不可思議な言動に最初はまばらだった野次馬の数が徐々に増加していく。
その中には司と同じ帰宅途中と思しき学生の姿も見えた。
老若男女問わず、各々手にした携帯電話やスマートフォンのカメラ機能を活用し始める者も現れ出す始末。
大方、ツイッターか何かで呟いているのだろう。変質者発見なうだとか、コスプレイヤー発見なうとか、そんな感じか。
「いいですか、“縁”というものは本当に大事なものなんです! 人と人とを結び付けてくれる反面、一度切れてしまうともう二度と会えず離れ離れになってしまうことも珍しくありません! それなのに、たかだか浮気程度で別れ話だなんてのは早急すぎます!」
聞いている限りでは、まだ別れ話には発展していなかったように思えるがどうなのだろうか。
そんな少女の一方的とも思える言動にカップルが揃って顔を見合わせる。
そうか、その手があったか。
みたいに小さく頷き合うのが見えた。
「別れる……そうね、それが今の私たちにとっては最良の道なんじゃないかしら?」
「そうだね、いい機会だと僕も思う。まさか君がこんなに自己中心的で被害妄想の強い人だとは思わなかった……いや、気付けなかったよ」
「別れるとなったら急にボロクソ言うのね……ますます嫌いになったわ!」
「そうかい、僕もだよ!」
とんとん拍子に事が進み、二人の間でお別れムードが漂う中、件の少女はぷるぷると身体を震わせ、そして――ついに爆発した。
「ち――がああああああああう、ですッ! あなた達、私の話全っ然、ちっともさっぱりこれっぽっちも聞いてくれてませええええん!!」
「「いや聞くわけないだろう!?」」
見事にハモって返答するあたり、相性自体はあるのかもしれない。その相性があったからこそ交際にまで発展したのだろうけど。
「もおッ! 言うこと聞かない人は……こうですッ!」
膨らませた頬が熟れたトマトのように真っ赤に染まっているのが遠目で見ても分かる。
あれは怒っているのだ。
目の前のカップルが自分の話を聞かず、勝手に別れ話に発展してしまったのが原因だろう。……で、そのカップルを怒らせたのは少女の方だと司は思うのだが。
怒った少女は何を思ったのか突然カップル二人の左手と左手に両手を伸ばしむんずと掴むと強引に引き寄せた。そのまま二人の小指と小指を絡め合わせ、ちょうど『ゆびきりげんまん』のカタチに結びつける。
「な、何するのよ!」
「放さないか……な、動かない!?」
「い、痛ッ! 指が折れる……ッ!」
小指というのは指の中でも一番細く脆い場所だから、例えそれが少女の力であってもやり方次第では容易に折ることは出来そうだが……その光景に、司は微かな違和感を感じていた。
「……アイツ、どんだけ力強いんだ?」
見れば、男の方が少女の腕を掴んで剥がそうとしているのにピクリとも動かず平然としている。痛がる様子もなければ、特別力んでいるようにも見えない。傍目から見ればそれは異常としか思えない光景だった。
涼しい顔をしたまま、少女はゆっくりと瞳を閉じ何か小さく呟き始める。
司のいる場所からは遠過ぎて声までは聞こえないが、そんな彼女を見てカップル二名が不気味がっているのは表情から読み取れた。
「な、何を言って……!?」
「ちょっと! いい加減に、放しなさ……きゃッ!?」
瞬間、カップルと少女を中心に淡く白い光が広がり一瞬にして三人を包み込んでしまった。突然の怪現象に野次馬たち全員が揃ってどよめきの声を上げる。司も思わず「うわッ」と小さく声を漏らしてしまった。
体感的に数十秒程度か、そうは長くなかったと思う。
少女と二人を包んでいた光は徐々に弱くなっていき、気が付くと謎の光は消え失せ元の河川敷に戻っていた。
特にこれといった変化は見られないのだが、何故か少女は自信ありげな表情を浮かべている。
「な、何が起こったんだ……?」
それが野次馬の台詞だったのか、カップルの言葉だったのかは分からない。
もしかしたら両方だったのかもしれないし、無意識のうちに司が呟いてしまったのかもしれない。
ざわつく野次馬の視線は一直線にカップルたちの方へと注がれていく。
肝心のカップルはというと、こちらと同じように何が起こったのか把握できていない様子で、自分の身体をつま先から頭の天辺まで手探りで確かめているようだった。
「何も変わってない……か?」
「え……えぇ。別にどこか痛いわけでもないし……」
ここで、二人の視線は少女へと移る。
件の少女はニコニコと呑気な笑顔を浮かべていた。
「君、いったい何をしたんだ……?」
「お二人こそ、ここでいったい何をしてらしたんですか?」
「私たち? 何をってそれは……えっと……あら?」
カップルはもう一度顔を見合わせ思い出そうとするが、口をパクパクと開かせるばかりでそこから先の言葉が出て来ない。
不思議なことに、何故か今までここで何をしていたのかサッパリ思い出せなくなっていた。
たしかに二人で大事な話をしていたはずなのに、肝心な部分の記憶だけがごっそりと切り取られてしまったかのように何一つ思い出せなかった。
「じゃあ、代わりに私が教えてあげます。あなた達は、ここで些細なことが原因で喧嘩してたんです。それは思い出しましたか?」
「いや、その……全然」
「うふふ。でも、喧嘩はもう終わりました。あなた達は……えと、そうですね。今日はこの後一緒にご飯を食べに行くんです。仲直りの記念に、ちょっとオシャレなレストランなんかどうです?」
「そ、そう……ね。うん、そうしましょ! そうだ、たまには私が奢ってあげるわよ!」
「いやいや、そういうのはオレが払わなきゃ。男が廃るってもんだよ」
「いいわよ、たまには私が」
「はいはい。そういうお話は歩きながらでもいいんじゃないですか? 時間も時間だから、早く行かなきゃ席無くなっちゃいますよ?」
少女にそう促されると、二人は元気よく頷き意気揚々と河川敷の坂道を上って繁華街の方向へと走って行ってしまった。
残された野次馬全員がポカンと呆けてしまうのも無理はない。
何せ、今の今まで喧嘩していて別れ話にまで持ち上がっていた二人が、突然目の前で仲直りして笑顔で走り去ってしまったのだ。
これでは最初の喧嘩がまるで茶番で、野次馬たちが騙されたような複雑な気持ちになってしまうのは仕方の無いことだった。
「何だったんだか、今の」
「うわー白けたなぁ……」
「帰ろ帰ろ」
はてさて野次馬たちは何を期待していたのやら。
それぞれに不満の声を漏らしながら彼らは蜘蛛の子散らすようにして去っていく。
とはいえ、司も他の人同様少し期待外れな感があったのは確かだったが終わってしまったこと。もう関係はない。
「俺も帰るか」
結果として珍しいものが見れたことには違いない。
と、司は家に帰る前にもう一度“少女”の姿を見てみようと思い振り返った。
それがいけなかった。
「……あ」
少女の瞳がハッと大きく見開かれていく。
それは、大切な探し物を見つけた時のような。
それは、懐かしい友人と久方ぶりに出会ったかのような。
驚きや戸惑い、喜びや嬉しさ、それらの感情全てが綯い交ぜになったかのような、一言では言い表し難い感動を湛えた瞳が司の姿をハッキリと映す。
「す、凄い偶然……! うぅん、でもやっぱり、これは私の……」
少女が駆ける。
一心不乱に、羽衣の袖がはためこうと土埃で汚れようと目もくれず、司の元へと全身全霊を尽くして一直線に駆け抜け――そして、跳躍。
「なッ――う、うわあああああッ!?」
全く身構えることの出来なかった司の身体に少女一人分の衝撃が襲いかかる。どうにか全身で受け止めはしたものの、止めきれなかった勢いに負けた司は少女に押し倒されるような形で尻もちをついてしまった。
「つったぁ……! な、何だよいきな……りッ!?」
飛び込んできた少女は、司の度肝を抜くほどの美少女だった。
まるで黒曜石を埋め込んだのかのような艶のある漆黒の双眸。
端正な顔立ちは間近で見るとより一層引き立ち、はらりと零れた前髪に上気する頬も相まって見た目に不相応な色香を漂わせている。
若干ドギマギしつつ密着した状態から逃れようとするが、しかし彼女の手がそれを許さない。
ぎゅッ、と思いのほか強く握りしめられた手は雪のように白くきめ細やかな少女の手そのもの。こんな華奢で小さな手の何処にそんな力があるのか、司が思い切り引き離そうとしてもピクリとも動いてはくれなかった。
「さ、探してたんです! 君を……司君を!」
「探してたって……や、そんなことより何で俺の名前を……!?」
「忘れるわけ、ないじゃないですか! 私、私ずっとこの日のためにこうして……」
「な、何なんだよお前は!?」
今にもぼろぼろと涙をこぼしそうな勢いの少女を前に、司はただただ困惑することしか出来ず見守ることしか出来ない。
ややあって少し落ち着いたのか、少女は司にのしかかったまま胸に手を当て息を整える。
そしてゆっくりと、少女の桜色の唇が言葉を紡ぎだす。
「私……ッ、わ、私は縁結びの現人神、『此比良桜夜』と申します。此度は君が……蒼井司君の失われた“縁”を直すため、出雲の地より馳せ参上致した……んですッ!」
「は……はぁ?」
宵闇迫る秋の河川敷。
これが、司と桜夜のファーストコンタクトだった。
恋と、青春と、ファンタジーと。
というわけで始まりました新作『コイヒメサクヤ』!
ラブコメ……ではなく、どっちかっていうと普通の青春系なお話です。
恋愛はともかく青春ってどうなのかなぁ……と、ちょっと心配ではありますが、『図書室の幽霊は占星術師』と併せ、完結まで頑張りたいと思います!
次話も、同じく金曜日辺りを予定。
ご意見ご感想など、お待ちしております。