そのご
娘は信じられない思いで村を後にしようとしていました。
子供のころは棒でつつかれ髪を切られ、そして小さいながらも知っている最悪の言葉で娘を傷つけてきた村人が、美しく成長した娘を前にするとみながみな求婚をしてくるのです。
母親が言うように臆病になって家に閉じこもっているだけでは、何も進まず何も解決しないのだと、それどころか顔が『美しい』というだけでこんなにも掌を返したように誰もが親切になるのだと娘は思いました。
村に来た時とは大違いに足取りも軽く村を出ようとしましたが、普段何もしていない娘はスプーンよりも重いものなど持つわけはなく、手芸屋に貰った最高級の布が溢れるばかりに入った籠がだんだんと重く感じるようになり、とうとう村の外れで歩きどまってしまいました。
籠を道に降ろして一呼吸整えると、目の前にはあの狼がうろうろしているのが見えました。
このまま前に進むと狼と話さなければなりません。
そして狼と結婚しなければいけません。
娘にはそれが馬鹿らしくてなりません。
狼と結婚だなんて、苦労するに決まっていますから。
娘は狼に見つからないように風下にある大きな岩の陰にかくれました。
こうするといくら鼻のきく狼でも娘の臭いをかぎつけることなどないでしょう。
腕の痛みもあって、娘はじっとその場所で『時』が来るのを待っていました。
いつも家で一人でじっとしていることが多い娘は、この時間が苦痛では全くなかったので、いつものように空想にふけっていつものように気が付いたらうとうととまどろんでしまいました。
しばらくすると、温かかった日差しが何かで遮られ、娘は薄く目を開けました。
すると丁度お日様を背にしょって、一人の男が立っていました。
男は娘を見て、馬鹿にしたように笑いました。
「いい年をした娘が、共もつけず、こんな村のはずれでぐうぐうと寝ているなんて、馬鹿間抜けどころか救いようがないな」
いきなりぶしつけにそんなことを言われて、娘はさっきまでの高揚した気持ちはどこへやら。母と対峙するときのいつものふてぶてしい顔が表に出てきました。
「……なんでそんなことを見も知らないあなたにいわれなければならないのよ」
「はっ。逆に聞くが、その年でそんな当たり前のことも知らないなどとは、まさか言わないよな」
そのまさかです。
娘は何一つ『当たり前』のことを知ってはいませんでした。
家にこもってからというものの、まるで腫れもののように扱われ、扱われることが当然のように思ってきた娘ですから、母親が何か自分を諌めようとする度に母親が折れるまで癇癪を起し母親を傷つけては自分の思い通りにしてきたのです。『あたり前』というものが何を指しているかすら、娘には感じるとることができませんでした。
ただ、男が娘を馬鹿にしていることだけは男の蔑んだ表情からもわかりました。
「なんだ、お前。本当にわからないのか」
「別にわからなくても死にはしないわ」
「たしかにな。だけど生きて行く上で大切なことを学ぶ気もなければ開き直るほどの馬鹿のようだから、何を言っても無駄なだけだな」
娘が何を言っても、男の辛らつな言葉は止まることはありませんでした。
何か言い返すことができるかしらと、考え込みながらあたりを見回していると、森の入口にいるはずの狼が娘の帰りが遅いことにしびれを切らしたのか、いつのまにかいなくなっていたではありませんか。
娘はさっと立ち上がると、驚く男など見向きもせずに籠を手にとって、すたすたと森へと歩き始めました。