『七主』
朝はやはり調子が出ない。それはリーゼロッテが『闇の種族』であるからには仕方がないことだったが、それでも『七主』である彼女は、普通の人間とそう変わらずに活動できる。苦手ではあるが、無力になってしまうわけではない。
朝に弱い人間とそう変わらないとも言える。しかし倦怠感は拭いきれず、寝起きは最悪に近い。もっとも夜に寝る『主』と言うのも珍しいのだが……。
初音に呼ばれて階下に降りると、ダイニングのテーブルには様々な料理が用意されていた。すでにシェラはテーブルの席に着いていた。
「おはようございます、ミレディ」
シェラは椅子から立ち上がり、深々と頭を下げた。
「おはようシェラ──それにハツネ」
リーゼロッテはテーブルに近づきながら、キッチンから新たな料理を持ってきた初音に目を向けた。
「おはよう。良く眠れたようね」
皿をテーブルに置きながら、横目で初音はリーゼロッテを確認しながらそう言った。
「ええ、良く眠れたわ。もっとも、タカヤと一緒の部屋だったなら、もっと良く眠れたでしょうけれど」
天使のような微笑みを浮かべて、リーゼロッテは挑むようにそう返した。
「──品がないことを言わない方がいいわよ」
「あら、そんな意味で言ったわけではないわ。ただタカヤを護るにはおなじ部屋で休んだ方がいいと思っているだけですもの」
リーゼロッテの平然とした言葉に、初音は苦々しい顔で睨みつける。だがすぐに、微笑を浮かべ続けるリーゼロッテに呆れ、小さく肩を竦めた。
「──もういいわ。それより早く食べてちょうだい。せっかく温めたのに冷めてしまうわよ」
「ええ、いただくわ」
リーゼロッテはシェラの横に座り、テーブルの上にある朝食を見て目を輝かせた。
「おいしそうだわ」
「どうぞ。飲み物は紅茶とミルク、どちらがいいかしら?」
「ハツネが淹れてくれるのならなんでもいいわ」
リーゼロッテの言葉を聞いた初音は、ポットから紅茶を注いだカップをリーゼロッテに手渡した。もちろんティーバッグではなく、茶葉から抽出したものである。いつもはクィーンメリーとオレンジ・ペコの二種類を好んでいる初音は、今朝は特別のダージリンを使っていた。
初音が自分の紅茶を味わいながら、リーゼロッテの食事を眺めていると、その美しい少女は実にいい顔をして料理を口に運んだ。
スクランブルエッグにカリカリに焼いたベーコン、そしてラタトゥイユとヨーグルトサラダ、パンは昨日の内にパン焼き機にセットしておいたものだ。
一口頬張るごとに、見ている初音がつい微笑を漏らすほど、実に幸せそうな顔をする。
「ハツネの料理は本当に素晴らしいわ」
非常に速いスピードで、かつがっついているとは見えず、それどころか上品とさえ言える食べ方だった。そんなことができるのはリーゼロッテだけだろう。
「それはありがとう」
惜しみない賞賛の声に、戸惑いながらも初音はそう答えた。
「昨夜のシチューもそうだったけれど、ハツネの作る料理には愛情が溢れているわ。久しぶりに満足できる食事だったもの」
初音は嬉しさと懐疑の入り混じった、微妙な笑顔を浮かべる。
「申し訳ありません。私の料理ではミレディは満足されませんからね」
ミルクを啜っていたシェラが、平板な口調で呟いた。
「まぁ、そんなこと──あるけど。でも、それはシェラが悪いんじゃないわ」
そう言ってリーゼロッテは無邪気に微笑む。
二人が食事を終える頃を見計らい、初音は改まった口調で重々しく口を開いた。
「さて。そろそろあなた達の目的について教えてもらいましょうか」
リーゼロッテは笑顔を崩さぬまま、
「目的とはなにかしら?」と、紅茶を一口啜った。
初音は片方の眉を吊り上げ、苛立ちを押さえた平板な口調で続けた。
「ふざけないで。あなたがこの街にやって来た目的よ。まさか貴夜を、あなたの『血族』にするつもりではないでしょうね? 『七主』であるあなたが、そんなことの為にわざわざやって来るなんてあり得ないわ」
リーゼロッテはそこで微笑を引っ込めると、胡乱な顔つきで初音を凝視した。
「そんなことを知っているとは、あなたもただの人間ではないのね?」
「わたしは人間よ。すくなくともあなた達よりは人に近いものだわ。けっして『闇の種族』の一員ではないわ」
「──なるほど。ではわたしが『七主』の一人であることを知り、『闇の種族』と言う存在を知るあなたは、いったい何者なのかしら?」
リーゼロッテは落ち着いた表情にわずかな笑みを浮かべ、初音の目をその不思議な色合いの瞳でじっと見つめた。青と赤の輝きが増していく。
「私に『魔眼』は効かないわ。だからそれは止めてちょうだい」
ぴしゃりと初音がそう告げると、リーゼロッテの瞳から妖しい輝きは消えた。
「それじゃあ、素直に教えなさいよ」
リーゼロッテがむくれたような声でそう言うと、すかさず横合いから、諭すような声でシェラが語りかけた。
「はしたないですよ、ミレディ。ハツネはこの国の『血族』なのでしょう。あなたの目的を話し、協力を仰いだ方が得策ですよ。それに──」
初音は「違うわ」とシェラの言葉を遮った。
「私はこの国の退魔師──『鬼』を封じる役目を持った人間よ。あなた達の言う『血族』ではないの。逆にそれを屠る者よ」
「なぁに? それじゃあ、『教会』とおなじ連中なの?」
リーゼロッテはどこか哀しげにそう呟いた。その目に敵意は湧いていないのを確認して、初音はその呟きのような問いに答えた。
「それも違うわ。あなたが言う『教会』はこの日本ではその活動を許されていないの。この国には元々、『闇の種族』に対抗するべき組織があったから、協力関係にはあっても、『教会』のように特定の相手を脅威として殲滅しようとは考えていない。
──私の一族はその組織の一つなのよ。だからあなたのことを知ってはいても、別に敵対しようとは思わないわ。それに、『七主』相手にそう考える愚か者でもないもの」
苦い思いを押し殺して、見た目は平然とした表情で初音は語った。
「ふ~ん、そうなの。まぁいいわ」
リーゼロッテは詰まらなそうにそう呟き、空になったカップの底を覗き込んだ。
すかさず初音はポットを取り上げ、そのカップに新たな紅茶を注いだ。
「ありがとう」
リーゼロッテはまさに華のような笑顔を見せた。その愛らしい笑顔は、けっして『闇の主』と呼ばれる陰性の存在が見せるものではない。
「──それではタカヤもあなたとおなじ存在なのですか? この国の『鬼狩師』──『闇の種族』を狩る者をそう呼ぶのですね──の一族のことは、私もあの方から聞いております。『真皇寺』に『九凱』そして『桐生』の三つの家名を。その中で桐生の一族が日本の『主』の末であることも知っております」
突然語りだしたシェラの平板な声に、初音は思わずはっとしたような表情で振り向いた。
「──なぜあなたがそれを……?」
「私達はヨーロッパを根城にしていましたが、この国の知識と情報は十七年前から収集していたのです。特に『鬼』と呼ばれている『闇の種族』と、それを狩り出している『鬼狩師』の存在について、重点的に調査しておりました」
淡々と答える幼い少女を、初音はじっと凝視していた。そして冷たく響く硬い声で、
「それでは貴夜のことも調べていたのね? そうなんでしょ?」
と、鋭く問い詰めた。
「いいえ。それは違います。私が調査したのは、この国においてのあの方の行動を追う為であり、それに付随してあなた方の一族を知っただけです。タカヤの存在は昨夜の遭遇で初めて知りました。けしてタカヤが目的でこの国にやってきたわけでは在りません」
「そ、そうなの……?」
初音はまだ納得がいかないと言った表情で、さらに質問を続けた。すでに問い掛ける相手はリーゼロッテではなく、幼い少女の姿を持つシェラであった。
恐らくは──シェラも『血族』であるのだろう。しかも数百年を経た『エルダー』だ。すくなくとも初音はそう考えていた。
「それではあなた達の目的と言うのは貴夜ではないのね? 『あの方』とか言う存在なのね?」
初音の声は明らかに安堵の響きを帯びていた。
「ええ、その通りです。それでは先ほどの問いに答えてくださいませんか? タカヤはあなたとおなじ存在──退魔の一族としての能力を持ち、『鬼狩師』として──」
「違うわ! ──貴夜は違うの。それにあの子はなにも知らないのよ」
慌てて答える初音の態度に、シェラは感情の顕われないアイス・ブルーの瞳を向ける。
「そうですか……」
そう呟き、シェラは自分のミルクを一口飲んだ。
懐疑的な調子でもない呟きであったが、その答えにシェラが納得していないと感じ、初音は話の筋を変えるために次の質問をぶつけた。
「でも──あの方と言うのはいったい何者なの?」
急な初音の問いに、しばらくしてからシェラは口を開いた。
「あの方は──『原初の王』であり『真の王』と呼ばれているお方です。前史より存在する、人が生まれたと同時に誕生した『闇の種族』の祖であるお方です」
シェラの答えを聞き、初音は思わずカップをその指から落としてしまった。テーブルにぶつかった白磁のカップは、澄んだ音を立てていくつかの大きな欠片になる。
「それって『鬼』の祖──『真祖』のことなの……?」
震える声で呟くように訊ねる初音の瞳には、明らかな恐怖と不信感が滲み出ていた。
『真祖』とは伝承に過ぎないものだと初音は聞いていた。『鬼』は人から生まれ出るが、それは多分に偶発的な条件下で誕生するものだ。『祖』などと言う存在があり、それが『鬼』を──彼らの言う『闇の種族』を生み出した原因であるとは考えられていない。
まさに『魔の神』とも呼べる超越的な『鬼』。そんなものが存在しているとは考えられない。在り得ない──いや、在ってはならない存在だ。
すくなくとも初音の信じる真実には、『真祖』など存在しない。
「ハツネは信じていないみたいよ」
いままで沈黙していたリーゼロッテが、詰まらなそうな声でそう言った。
「ついでにわたしもハツネの言葉を信じていないわ」
辛辣な口調でリーゼロッテは初音を睨みつけている。その瞳は初音の一挙手一投足を見逃さぬように、鋭い視線を送ってきていた。
「な、なにを信用しないと言うのよ!」
思わず立ち上がりながら、初音はリーゼロッテを睨み返した。
リーゼロッテは初音の視線を柳と風に受け流し、涼しい顔をして初音を見つめている。
「シェラの答えを信用していないでしょ? でもあの方が『教会』が決定した『真王』であるのは間違いないわ。なんと言っても、わたしはあの方に育てられたのだから。
ハツネは『七主』と言うものがどういう意味で名づけられたか知らないのね? あの方自身が発見し、育て上げた『主』のことをそう『教会』は呼んでいるのよ。だからそれは紛れもない事実なの。わたしがそう言うのだから間違いないわ」
そこで一旦、リーゼロッテは言葉を切った。そして驚愕に目を見開き、そしてすぐに眉を顰めた初音に向けて、あらためて言葉を続けた。
「──それに、タカヤが『主』の素養を持っているのをハツネは知っているはずよ。それがあなたの家系に連なる者の常であるのかはわからないけれど、タカヤもまた普通の人間ではない。ハツネはそれを知っていて、タカヤが普通の人間だと、なにも知らないのだとわたし達に言ったわ」
リーゼロッテの口調は、決して責めるような響きを伴っていない。それどころか唇には悪戯っぽい微笑を湛え、愉しくて仕方がないと言った響きを含んでいる。
「だからと言って嘘ではないわ。貴夜は実際になにも知らない。桐生の家のことも、自分がどのような存在であるかも、まったく知らないで生きて来たのよ。あなた方が現われるまではね」
なんとなく自分の心の奥を見透かされ、それを揶揄されているような気分に陥り、初音の返す言葉は刺々しいものになった。
「あら? それは心外だわハツネ。もうあなたにはわかっているでしょうけれど、タカヤが昨晩話したことは嘘よ。タカヤが襲われたのは人間ではないの。
旧き血筋の『血族』、それが貴夜の血の特殊性に気づき、その魂を手に入れる為に貴夜を狙っているのよ。それをわたしが救い出し、そして守って上げると言っているのよ」
リーゼロッテが相変わらず愉しそうな声で答えると、初音は驚きの形に口を開いたまま、しばらくの間声も出せない状態になってしまった。
「な、なんですって?」
ようやく口から発せられた声は、驚愕に裏返ってしまっていた。
「け──『血族』ですって?」
「そうよ。最近この街を騒がしている、連続通り魔殺人の真犯人がその『血族』なの。そしてその『血族』の目的が──」
「貴夜だと言うの?」
初音の声は緊張に震えていた。
「まぁ──そうだとも言えるし、違うとも言えるわね」
「それは──どう言う意味?」
困惑したような初音の声に、
「タカヤが真の目的と言うわけではないのです」
と、シェラが平板な声で答えた。
「あの血族の目的は己が自己存在の強化であり、力有る者のすべてを奪うことにより、高位の『闇の主』の道を辿ることです。いずれは『真王』であるあの方を凌駕し、その存在を自らに置き換えること──それが終局的な望みでしょう。
タカヤは力在る者です。潜在的に有する霊的な力は、『主』の中でもかなりの高位に位置するでしょう。その力を奪うために、彼の『血族』はタカヤを狙っているのです」
落ち着いた声で事も無げに語るシェラの顔を、初音はじっと凝視していた。
「──それじゃあ、貴夜はメインディッシュの前の前菜と言ったところなのかしら?」
初音の声は怒りを通り越したのか、どこか無機的なものになっていた。
「冗談じゃないわ! 貴夜は桐生の人間よ! 私の──『斬幽』の『鬼斬り』であるこの私の弟なのよ! 『血族』だか『闇の貴族』だか知らないけれど、貴夜に手を出す連中はこの私が滅殺してあげるわ!」
いきなり爆発した初音は、その切れ長の目に鬼火のような輝きを宿し、まるで目の前の二人がその仇のように睨みつける。
緩やかにウェーブした長い神が、ざわざわとうねり始める。
涼やかに微笑んだリーゼロッテは、本来は敵になるはずの『鬼斬り』に対して、
「やだわ、落ち着いてよハツネ」と、穏やかに声を掛けた。途端に我に帰った初音の目から、奇妙な輝きは消える。
「わたし達はそのためにここに居るのよ。あなたがどれほど力を持つ退魔師かわからないけれど、あの『オーガ』を相手にするのは難しいわ。なんと言っても、アレは特別な血脈の『血族』ですもの。でもわたしなら、あの『オーガ』を撃退することができる。それは信じてもらえるでしょ?」
──初音は暫し動揺する。だがそれも仕方がないだろう。
なんと言っても、本来は敵対すべき『鬼』が、しかも最強レベルの『闇の種族』である『七主』の一人が、最愛の弟を護ると宣言したのだ。
通常なら信用できる言葉ではない。
だがこの少女は──。
なぜかリーゼロッテは、初音にとって信頼に足る存在に思えていた。
「──わかったわ。いまのところ、あなたを信じましょう。でもなぜ、あなたは貴夜を護ってくれるの? あなた達の目的は『真祖』を探すことなのでしょう?」
「あの方はそう見つかるものではないの。でも、貴夜にはあの方の痕跡があるから、貴夜と一緒に居れば、なにか手掛かりが得られるかも知れないのよ。それに……。
貴夜が『主』の資格を持つ人間ならば、わたしが導き、育て上げなければならないのよ。それがあの方の望みなのだから……」
そこでリーゼロッテは、初めて見るような愁いを帯びた微笑みを浮かべた。
初音の胸がなにやら締めつけられる。この儚げなで、この世のものとは思えぬ美しい外見の、そして実に堂々としたもの言いの誇り高いこの少女に、哀れみと愛情が湧きあがるのを抑えることができないでいた。
「──ところでね、あの包みはいったいなにかしら?」
いきなり屈託のない声でリーゼロッテは問い掛けた。そしてリーゼロッテ指差したものを見て、初音は思わず声を張り上げた。
「ああ、もう! 貴夜ったらまたお弁当を忘れているわ!」
「お弁当? それじゃあ、貴夜はランチを食べられないの?」
リーゼロッテは妙に驚いた顔でそう訊ねた。
「いえ──まぁ、そんなことはないわ。購買だってあるのだから、食べるものは買えるでしょう」
「でもそれはハツネの料理ではないわ」
そう呟くリーゼロッテの声は、妙に真剣なものであった。
「──わたしが届けに行くわ」
「えっ?」
初音は驚きのあまり、思わず言葉を失った。
「だからもう少し──その──量を大目にしてくれない?」
わずかにはにかみながら、リーゼロッテは微笑む。
「──だってわたしも一緒に食べるんですもの」
初音はリーゼロッテの笑顔に釣られるように笑みを漏らした。そして急に真顔になり、
「もう真昼よ。それに今日は特に日差しが強いけど、大丈夫なの?」
と、訊ねた。
「わたしは『主』なのよ。確かに調子は良くないでしょうけど、普通の人間のように行動するぐらいは問題ないの」
リーゼロッテは朗らかな笑顔で答えた。
「わかったわ。それじゃ、もう少し料理を作ってあげるから、お茶でも飲んで待っていて」
初音はそう言ってキッチンに向かった。
冷蔵庫の扉を開き、新たな食材を取り出している時、ふと初音は考えた。
リーゼロッテは本当に『闇の種族』らしくない。もしかしたのなら、初音以上に人間らしい感性を持っているかも知れない。
『七主』ともなれば、その力は神か悪魔の如き超越的なものだと言うのに……。
無邪気にさえ見えるリーゼロッテの態度に、初音は戸惑いながらも惹かれていると、いまはっきりと認めた。