始まりの夜 4
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「あの少年をどうしようと言うのですか、ミレディ?」
貴夜が部屋を出たのを見送った後、彼が退室するのを待っていたかのように、シェラがそう口を開いた。
「あら、別にどうしようなんて思っていないわ。ただあの『血族』から守ってあげなければ思っただけよ」
リーゼロッテは明るい口調でそう答えた。
「なぜあの少年を守ろうとするのです? 我々の目的には関係ないことではありませんか。私達はあの方の行方を追う為に、この極東の島国へやって来たのですよ。ヨーロッパを離れてまでここに訪れたのは、『血族』の一人を滅ぼす為でも、ましてや人間の少年をそれから守ることでもありません」
シェラの声は普段と変わらず、平板で淡々としていた。はっきりとリーゼロッテを批難しているわけではないが、リーゼロッテの行動を諌めようとしているのは間違いない。
「あの方を追う為にも、あの『血族』を捕まえなければならないのよ。それにはタカヤを見張っているのが一番だわ。あの『血族』は、タカヤの血に潜むその力を得ようと考えているに違いないのだから」
自分でも言い逃れだとわかっていた。正論ではあるが、理由としては弱いのだ。しょせん、リーゼロッテたちにとっては『血族』も、そして『主』の資質を持つと言ってもただの人間に対し、積極的に関わる必要はまったくないのだ。
「あの『血族』があの方に関わりがあると言うのですか? 確かに、あの『血族』の波動はあの方に似ているものでした。ですがそれは、あの『血族』があの方の眷族の一人であると言うに過ぎないのでは? あの方の係累はこの二百年の間に、世界中で増え続けていますから、特に珍しいものではないでしょう?」
それはそうだ。あの方が変わってしまい、己の『血族』を無制限に増やしていった結果、あの方の『貴き血脈』は増え続けている。だからこそ、リーゼロッテはあの方の波動をはっきりと感知し辛いものになっているのだ。あの方はあまりにも無造作に『血族』を増やしすぎている。現在の苦労の原因がそれなのだから……。
それでも──。
リーゼロッテにはどうにも引っ掛かるものがあるのだ。
確かにあの現場に訪れるきっかけとなったのは、あの傲慢な『血族』の波動を感知したからだ。だがその場に辿り着いた時点で、リーゼロッテが感じた大きな波動は、貴夜と言うその存在からであった。
貴夜は明らかに普通の人間だ。『主』の資質を過分に秘めているとは言え、現状ではあのように凄まじい波動を放つものではない。だからこそ、リーゼロッテは勘違いしたのだ。
あの方自身がそこに居るのだと……。
シェラは淡々として言葉を続けた。リーゼロッテの思考を読んでいるのだろうか、主人の答えを聞かぬ内に、自分の考えをさらに説明しようとする。
「あの方がこの国にやって来たのは間違いないでしょう。そして、あの『血族』もあの方を求めてやって来たに違いません。この地ではここ最近、明らかに『闇に種族』の仕業と思われる事件が起きているそうです。次々に獲物を狩りだしているのはあの『血族』に間違いありません。その目的は──」
「あの方を喰らい、己が『真の王』の座に就こうとしている──でしょう? 自分より旧い、上位の『血族』や『主』を喰らってその力を得ようとするのは、『血族』には珍しくない考えだわ。まぁ、あの方があのような『オーガ』などに『喰われる』など有り無いけれどね。
──わたしだってそんなことはわかっているのよ」
事もなげにリーゼロッテはシェラの説明を遮った。
「ならばあのような者、放って置いても良いのではありませんか? ミレディが関わる必要などありません。たとえあの者の行動を見張っていたとしても、到底あの方に辿り着けるとは思いません」
当然の如く、シェラは反論をやめる事はない。こうなってしまえば、議論をし尽くしても無駄だった。シェラは本当に強情な使い魔なのだ。
だがそんなシェラも、次に発せられたリーゼロッテの言葉に沈黙した。
「あんな『オーガ』なんかどうでもいいのよ。でも、タカヤには興味があるわ。なんて言ってもあの方にほぼ等しい波動を発散する『主』──いえ、『主』の資質のある人間ね──などこの八百年の間、まったく見たことはなかったわ。タカヤはきっと、あの方に繋がる人間よ」
リーゼロッテの自信溢れる表情を見て、シェラはわずかに眉を顰めた。
「──でもそれはミレディの憶測に過ぎません。あの方がこの国に渡ったのは十八年前、あの少年があの方とどう関わったと思われるのです? それに、ミレディはあの方の波動を感じたと仰りますが、私にはなにも感じられません。もちろん、あの少年が『主』たる資質を備えているのは感知できますが……」
「ばかね。あの方の波動を感じられるのは、あの方の直接の『血族』か、わたしのような『養い子』くらいのものだわ。いくらあなたがあの方に造られた『使い魔』であろうとも、そうそう感知できはしないの」
リーゼロッテが自慢げにそう言い張ると、シェラは幾分面白くなさそうな顔をした。表情の変化の乏しいシェラにしては、それでも大きな変化である。
「そう言うものでしょうか……?」
「そうなのよ! それでわたしはタカヤとしばらくは一緒に居ようと思うの。それに、あの『血族』のことも少々気になるしね」
貴夜が両手にトレイを抱え、階段を昇りきると、部屋の中からリーゼロッテの声が聞えてきた。なにやらシェラに向かって熱弁をふるっているようだった。
「どうしたの? とりあえず食事を持ってきたんだけど……」
貴夜が部屋に入るなりそう問いかけると、リーゼロッテは片手を振って「なんでもないわ」と事もなげに答えた。シェラは無表情のまま、視線を貴夜から外した。
「なにか言い合いをしていたように聞えたけど──」
「言い合い? 言い合いなんかになるわけないでしょ?」と、リーゼロッテ。
貴夜は料理を載せたトレイをテーブルの上に置くと、
「それならいいんだけど……」と呟き、シェラの様子を窺った。
シェラはそっぽを向くようにしているが、その表情にはなんの感情も表れていないようだ。
「そんなことより早く食べましょうよ。わたし、今日はなにも食べていないのよ」
そう言いながらリーゼロッテはトレイの上を凝視していた。
トレイには三人分のビーフ・シチューの皿、そしてフランスパンをカットしたものとサラダの入ったボールが三つ。
暖め直されたシチューの芳香にリーゼロッテは頬を緩ませ、その瞳は魅せられたように釘づけにされている。
「ああ──どうぞ。口に合うかわからないけど……」
そう言ってスプーンを手渡すと、リーゼロッテはにっこりと艶やかな笑みを浮かべた。
「ありがとう、タカヤ」
そして──。
スプーンを握ったリーゼロッテは健啖な食欲を貴夜に見せつけた。
あくまでも品良く、小さく口を開けて食べ物を口にするのだが、その手は休むことなく、あっと言う間に自分の皿のシチューをたいらげてしまった。
シチューはまだ残っている。姉がシチューを作る時は大鍋で大量に作り、それを小分けして冷凍するのだ。自分が夕食を用意できない時に、それを温めるだけで貴夜が食べられるように……。
スライスしたフランスパンで、名残惜しそうに皿を拭っているリーゼロッテに向かい、
「温めればまだあるんだけど……」
と、貴夜はおずおずと告げた。
途端に目を輝かせ、リーゼロッテは天使の微笑を浮かべる。突き出された両手には、汚れ一つない白い陶器があった。
無言で差し出された綺麗になった皿を、貴夜はそろそろと受け取った。
「君はいいの?」
黙々と小さな手でパンを噛んでいるシェラに、貴夜は優しく訊ねる。
「私は結構です」
無感情にそう答えるシェラの皿は、まったく手がつけられていなかった。まったくもって子供らしくない言葉だと貴夜は感じた。
「ビーフ・シチューは嫌いだったのかい?」
「いいえ。私は元来小食なだけです。気になさらないで下さい」
そう答えたシェラの皿を、リーゼロッテはすかさず自分の手に取る。
「そうそう。シェラはあまり肉類を好まないのよね?」
そしてまた、リーゼロッテの右手に光る銀の匙──ただのステンレス製だが──は、すこし冷めかかったシチューを掬い始めた。
結局、リーゼロッテは四杯ものシチューと一本丸ごとのフランスパンを平らげた。見かけによらぬその食欲に、貴夜はただ呆然とするだけだった。
(あの細い身体に、よくもまぁあんなに詰め込まれるものだなぁ……)
食後に淹れた紅茶を飲みながら、優雅な仕草でカップを口に運ぶリーゼロッテを見て、感慨深く貴夜はそう思った。
「満足してもらえたかな?」
その表情を見ればすでにわかり切っていたことだが、貴夜はリーゼロッテに問いかけた。
「ええ、もちろんだわ。あのシチューは絶品だったもの。あれはあなたが作ったものなのかしら?」
「いや、あれは姉さんが作ったものだよ。気が向くと大量に作り置きしているんだ。ぼくが一人で居る時の為に……」
「そう……。あなたはその人に愛されているのね」
そう言って微笑むリーゼロッテの瞳に、微かな羨望の色が現れていた。もっとも、貴夜はそれに気づかず、
「はい? そ、それはどうなのかな……?」と、奇妙な返事を返す。
途端にリーゼロッテの瞳が、燃え上がるような輝きを見せた。それは剣呑な輝きを秘めた不思議なほど美しいものだった。
「タカヤ! あなたはあのような料理をいつも食べていながら、その作り手の愛情を感じていないの!」
リーゼロッテは怒ったように問い質した。
「へっ? ななななにを言っているんだい?」
リーゼロッテの放つ圧力に、貴夜は思わず後退りしてしまう。
「あの料理は食べる者への──あなたへの愛情に満ちていたわ。それを気づかないとは、なんてあなたは薄情な男なの!」
リーゼロッテは冷たい怒りと呆れたような表情の入り混じった顔をしていた。
「は、薄情? な、なんでぼくが薄情だって言うのさ! ぼくだって初ネェにはいつも感謝しているよ! で、でも、そのシチューに愛情がこもっているとか言われても、ただ美味しいとしか思っていないよ!」
「だからそれが薄情だと言っているのよ! あなたはいつも食べなれているからわからないのだわ! あの料理は、味も栄養もあなたの為にだけに作られたものだと言うことを主張していたもの」
「な、なんでそんなのがわかるんだよ! 料理の味なんかでそんなのわかるわけないだろ!」
リーゼロッテの言い草にカチンときた貴夜はそう言い返した。
「わかりますわ。ミレディは『主』ですもの」
静かに、そして淡々とした声でシェラがそれに答えた。
「はぁ? 『主』ってのはそんな便利なものなのか?」
貴夜は胡乱な視線でシェラを見つめる。その視線に、シェラは真っ向から見返してきた。
「そうですわ。便利な力を持っているのです。『主』と言う存在は」
「ふ……ん? どう言う原理なのか教えて欲しいね」
胡乱な表情を変えることなく、しかめっ面しく貴夜は訊ねた。
「あなたに理解できるかわかりませんが、これは初歩的な『概念解読』になります。固有の物体に宿る概念と、その製作者の残留思念を読み解くことにより、そのモノの成り立ちや成分、そしてそれに込められた思いを知ることができる、そう言った能力なのです。もちろん、ミレディはそれを自慢の舌で味わうことによって、あなたの姉の思念を解読したのです」
小面憎いシェラの言葉に、貴夜はちょっとだけムッとした。理解できないかもしれないだって? そんなことはない。小難しい言葉で煙に巻いているような説明だったが、貴夜はシェラの言葉を理解していた。だが、納得はしていない。
「舌で解読したってなんだよ。味覚でそんなことがわかるのか? ぼくのことをばかにしているんだろう?」
「そのようなことはありません。私はミレディの舌の能力を的確に説明しています。ミレディは類稀な味覚と感性を有しているのです。もちろんその力が、ミレディの食に対する欲望を基礎とするものであるのは間違いありません」
シェラは平板な調子で、それでいてはっきりと断言する。
「シェラ! それじゃあ、わたしが食いしん坊だと言っているみたいじゃないの!」
リーゼロッテがいきなり口を挟んだ。
「みたい──ではありません。はっきりとそう言ったのです。だいたいいつもミレディは、食事に対しての欲望が強すぎます。本来、ミレディの肉体はそのようなものを必要としないはずですが」
「そそ、そんなんじゃないわ! わたしはただ人間の食事を取ることによって、人の心や生き方を忘れないようにしているだけよ!」
「ならばそのように大量に摂取する必要はないと思いますが」
烈火の如く勢い立つリーゼロッテに、シェラは平板な声で返した。リーゼロッテは歯噛みしながら、なにか言い返そうと考えている。
シェラは冷たいとさえ見える超然とした表情で、自分を睨みつけているリーゼロッテの視線を受け止めていた。その間に見えない火花が散っている。
急に話題から取り残された貴夜は、二人の舌戦──まだ序章に過ぎないだろう──を呆然と見守っていた。だがこのまま放って置いてはいけないと言う、本能の叫びに導かれるままに、違う話題を振らなければと考えた。
「そ、そう言えば君達、やけに日本語が上手いんだね?」
一触即発の空気の中、貴夜は二人の気を逸らすように話しかけた。
二人は同時に貴夜を見て、そして顔を見合わせる。やがてクスリと笑ってリーゼロッテが口を開いた。
「あたりまえよ。なんと言っても、あなたの言葉を借りているんですもの」
「ぼくの言葉?」
「ええ、あなたと話す時はあなたの言葉を使っているのよ。実際はわたしの知識の中に、日本語なんてありはしないもの。あなたの語彙であなたに話しかけているだけよ」
「それじゃ──あの男と話していたのは……?」
「ああ、あれはあなたの思念をトレースしていたから。だからあなたには日本語で聞えていただけよ。どのように変換されているかわからないけれど、わたし達の言葉は、あなたの中にある語彙と語感によって作られているはずよ」
「ぼくの中の語彙?」
「その通りです。私達の言葉はすべて、あなたの知識にある言葉に変換されてあなたに聞えているのです。私達の思考は母国語でありますし、あなたに話しかける際もそのままです。でも、あなたに向かって口に出される瞬間、それはあなた達の国の言葉に変換されるのです」
シェラの重ねた説明によって、ようやく貴夜にそれの意味することが理解された。
「なるほど……。原理は良くわからないけれど、君らは対話する人間の思考を読み、そしてその相手の理解できる言葉で会話できると言うわけだな? だけど本当にその言葉の意味を理解して話しているわけではないと」
「なかなか飲み込みがいいじゃない。だからわたしの口調がこうなのも、あなたの語彙のせいなんだからね」
腰に両手を当て、胸を張るようにして貴夜を見上げるリーゼロッテの姿を見て、まるで『闇の種族』と言う人外の存在などとは思えなかった。
「ちょっと! 本当にわかっている?」
「う、うん、わかった」
ぼんやりとリーゼロッテの姿に見惚れていた貴夜は、慌ててそう答える。
リーゼロッテは満足気な笑みを浮かべ、何度も頷いた。そんな様子を見て、シェラは軽い吐息を漏らした。
「ところで──この家には他に誰も住んでいないの?」
「いまはいないけど、もうすぐ姉さんが帰ってくるはずだよ」
リーゼロッテの問いに、貴夜はすぐに答えた。
「そう。それじゃあ──取りあえず部屋はいくつも余っているわね」
「それは──どういう意味さ?」
貴夜は胡乱そうにリーゼロッテを見やった。
「わたし達の部屋があるか確認したに決まっているでしょ」
「君達の部屋? それって──まさかぼくの家に泊まるつもりなんじゃ……」
「だからそう言っているのでしょ!」
「ちょっと──待ってくれよ! そんなこと──」
──無理に決まっている。貴夜がそう言い掛けた時、階下から姉の初音の声が響いた。
「ただいま~。お姉さまのお帰りだぞ~!」
その声から、大分聞し召しているようだった。
貴夜の顔色は一気に蒼ざめていった。