始まりの夜 3
3
──騙された。いや、そうではないのだろう。だがこの展開に、貴夜はついていけなかったのだ。
少女に促されるまま、貴夜は自宅に少女を連れ帰った。幸い姉の初音はまだ帰宅していなかったので、すんなり少女を部屋に招き入れることができた。
もし姉が自室に少女を──ましてや人間離れした美しいこの少女を──連れ込んでいる貴夜の姿を見たのなら、どれほどの大騒ぎになることやら……。
そう思うと貴夜はわずかに身震いした。
幸いといっていいのか、姉は今日も遅くなるはずだ。
地元の音楽大学に通う姉の初音は、近々行なわれる大学内のコンクールの為、遅くまでレッスンに励んでいるだろうから……。
安堵しながらも、それでもそろそろと廊下を進む貴夜であった。
少女は貴夜の部屋にあるベッドの上に腰掛け、部屋のあちこちを見回している。好奇心も顕わに、目を輝かしている。考えてみれば自分の部屋に年頃の少女を招いたことは初めてだったが、貴夜にはその事実に緊張する余裕もなかった。それに、どちらにしても二人きりではなかったのだ。
貴夜の家に向かう途中、リーゼロッテと名乗った金髪の少女は、小さな女の子を待たせていたのだ。
シェラとリーゼロッテが呼んだその女の子は、まだ小学校低学年ほどに見える少女で、漆黒の豊かな髪に鮮やかな赤の大きなリボンを飾った、これまた愛らしい少女であった。惜しむらくはその表情に、ほとんど感情と言うものが顕われないことだろう。ただ古めかしい黒のドレスに身を包んだ少女は、まるでフランス人形のように愛らしく、リーゼロッテと同様に貴夜に緊張を強いていた。
シェラは無駄口を一つも叩くことなく、リーゼロッテの隣にちょこんと座り、貴夜が淹れた温かいミルクティーを飲んでいる。まるで小さな貴婦人の如く、気品溢れる仕草であった。だがそれは、この可憐な少女がやはり見た目通りの、年相応の人間ではないと言う証になっている。
「さて、そろそろ説明してくれないかな? ぼくがいったい何者だというのか。そして君達が何者なのかを」
貴夜は自分の机の椅子に座り込み、疲れたような声でリーゼロッテに問う。
ベッドに両手を突き、四つん這いになって体勢で、床に置いてあるテーブルの上のノートパソコンを、興味深げに見つめていたリーゼロッテは、慌てて居住まいを正した。そして軽く咳払いをすると、厳粛そうな面持ちを取り繕う。
「それでは教えましょう。まずわたし達が何者なのか」
リーゼロッテは両目を瞑り、歌うような声で話し始めた。
「わたし達は『闇の種族』と一部の人間に呼ばれている、人の種を超えた存在なのよ。まぁ、一般的には吸血鬼だの人狼だの、そして鬼だとか呼ばれている不死の生命体。それがわたし達なの。ただわたし達も人間から発生する存在で、その精神構造はそれほど人と違うものではないわ」
貴夜は目をぱちくりさせ、リーゼロッテの言葉を反芻した。それは到底信じられるものではない。特にオカルトなど信じない貴夜にしてみれば……。
だがいまの貴夜には、彼女の言葉を否定する気にはなれなかった。すべてを信じるというわけではないが、つい一時間前に行なわれたリーゼロッテとあの大男とのやり取りを、この目ではっきりと目撃していたからだ。それでも……。
「ちょ、ちょっと待ってくれよ。いくらなんでも吸血鬼とか狼男ってのは信じられないなぁ。『闇の種族』って言うのは、要するにモンスターだと言うのかい? それで、君らも血を吸うのか?」
「だから一般の人間が認識するのなら、そう言う存在になるってことよ。世界各地で伝承や伝説が残っているでしょう。人間は『闇の種族』と一括りに称しているけれど、『不死者』のすべてが怪物みたいな言い方は気に食わないわ。それに、わたしがそんな化け物に見える?」
「それは──見えないけど……。でも、君も人間の血を吸うんだろ? それじゃモンスターと言われても仕方がないと思うけれど」
貴夜の言葉に、リーゼロッテはわずかに傷ついた表情を浮かべた。
「──確かに多くの『闇の種族』はそうでしょうね。エネルギーをもっとも有効に摂取できる手段ですもの。でもわたしはいわゆる吸血鬼とは違うわ」
リーゼロッテは身を乗り出し、貴夜の目を覗き込むようにして迫ってきた。
思わず貴夜は身を引こうとしたが、リーゼロッテの赤と青の瞳に見つめられ、体中が強張ったように動けなくなった。
「あなただって──『闇の種族』の種を持っているのよ。しかも普通の人間よりも強い種を」
「ぼくが? なんでぼくが……」
「人間からわたし達『闇の種族』が発生すると言ったでしょう。わたし達だって木の股から生まれたり、なにもないところから湧いて出たりするわけではないの。もっとも、その多くは『血族』としてか『従者』として人間から変容してしまうのですけどね。でも、あなたはわたしのような『主』として覚醒する素養があるわ」
「それって──どういう意味なんだい? 『血族』に『従者』、そして『主』とか、その違いはなんなんだよ。それに、吸血鬼も鬼も、ましてや狼男も一緒くたにされているのはなぜなんだい?」
貴夜はすでにリーゼロッテの言葉に興味をそそられていて、信用するとかしないとかは二の次になっていた。現実に対応しなければ、自分は死んでしまうのだから、荒唐無稽な話でも信じざるを得ないと言うのも理由だったが……。
「それは『闇の種族』と言うものが、多くの吸血鬼伝説から名づけられたからなのよ。元々吸血鬼伝承と言うのはスラブ系民族が発祥のもので、クロアチア語やセルビア語で吸血鬼を表わすヴォルコドラークと言う言葉が、『狼の毛皮をかぶった人間』を意味するところから来ているの。
近代では別の怪物だとされているけれど、元来、人間とは違った人間のことをすべて『闇の種族』とすべきなのよ。結局、人類がその土地と風土により、名称をつけてそう区別していく内に、吸血鬼と人狼、そして様々な悪鬼が別の存在だと思われるようになっただけなの。
因みに『闇の種族』にはまず、『主』と呼ばれる者が存在するわ。それは始原のものであり、原初に現れたるもの。人間と言う生物から分かれた、それ以上の能力を持つある意味超人類と考えられる者たちのことよ」
そこでリーゼロッテは自嘲気味な、暗い笑みを浮かべた。
「──まぁ、その能力自体は昔の人間が神とさえ感じたことでしょうね。もっとも、そのメンタリティは人間とそう変わらないわ。ただ長く生きていると、ちょっと変わり者になってしまうのだけど……」
貴夜はそんなリーゼロッテの様子を怪訝に思ったが、なにも言わずに彼女が話を続けるのを待った。リーゼロッテはやがて桜色の唇を開き、また元の口調に戻って説明を再開した。
「『血族』と『従者』は──まぁ、簡単に説明すれば、『主』によって生み出されたこれもまた人外の生き物ってことね。
あなただって吸血鬼が吸血行為によってその仲間を増やすと言う伝承は知っているでしょう。その結果、『血族』と『従者』が造られるのよ」
「血を吸われた人間が吸血鬼になるってのは、昔映画でも見たことあるけれど、それが『従者』と『血族』にわかれるのはどうしてなんだい? それに、狼男や鬼はどうやって仲間を造りだすんだよ」
「だから言ったでしょ。もとは吸血鬼だろうが人狼だろうがおなじ存在なのよ。それに、吸血行為だけが『血族』達を造りだす行為ではないわ。『血族』は文字通りの意味で、『主』にとっての『仔』なのよ。血を分けた一族の意味ね。『従者』の言葉の意味はわかるわよね? 一族の中ではただの従僕で使用人のことよ」
「ああ、それはわかるよ。でも、どうしてそんな違いがでるのさ。どちらにしても『闇の種族』であるのは変わらないんだろう? 『主』だとか『血族』だとか『従者』」だとか、なんだかまるで人間とおなじように差別社会だな」
すっかり温くなったコーヒーを啜り、貴夜はボソリと呟いた。
「まぁ、仕方がないんじゃないのかしら。しょせん元々が人間だったものなのだから。なんと言っても、その出自によって能力の差は大きいんですもの。『主』はあくまでもその頂点に位置し、『従者』はいつまでも僕に過ぎないわ。
もっとも、『血族』だけはちょっと特別な存在だけれど……」
リーゼロッテは愁眉を寄せて声を途絶えさせた。
「特別な存在?」
「ええ──そうね。『血族』と言う者は『主』の一族として加えられることはさっき教えたわね。つまり、『主』ほどの力を最初から持っているわけではないにしても、長い生の間に、『主』と変わらない力を得る者も居るわ。『古の者』とも呼ばれる彼らの中には、自らを『闇の貴族』とも名乗って、この人間の世界に自分たちの社会を造り上げている者も存在しているの。しかも人間社会の中で成功している者もいるわ。なんと言ってもこの世にもっとも多い『闇の種族』は、彼ら『血族』なの。だから通常、『闇の種族』と呼ばれているのは彼ら『血族』のことだわ。きっとあなたが──普通の人間達が知っているヴァンパイアのイメージに近いのは彼らのことね」
「へぇ、それじゃ『主』って言うのは希少な存在なんだ?」
貴夜はおどけたようにしてそう言った。急に詰め込まれた闇の知識に、少々疲れ始めていたのだが、それを悟られないように陽気な声を出したつもりだった。
「──信じていないのね?」
リーゼロッテが唇を尖らせた。
「えっ? い、いや、そんなことはないよ。ただいきなり色んなことを教えられたので、ちょっと脳が疲れ始めているのさ」
貴夜は慌てて取り繕うように言いわけした。
ただ実際に、精神的な疲れと空腹が思考の妨げになっているのは明らかだ。もう夕食を摂らないまま、午後十時を過ぎてしまっている。
「ところでおなかは空いていないの──?」
貴夜はそう訊ねた後、慌てて口を閉じ、リーゼロッテの顔色を窺った。
リーゼロッテが人間ではないのだと、今時分が語っていた『闇の種族』とか言う存在なのだと失念していたのだ。
リーゼロッテの食事と言うものを想像して、一瞬だが、彼女が貴夜の首に咬みついている場面を想像してしまう。
だが、リーゼロッテの応えは貴夜が危惧していたようなものではなかった。
「そう言ってくれるのを待っていたの」
はにかみながらリーゼロッテは微笑んだ。
「正直言って、わたしは空腹で死にそうだったのよ」
「それじゃあ、とりあえずなにか食べ──」
そこで思わず言葉を失った貴夜は、恐る恐る訊ねた。
「君はどう言ったものを食べる──いや、なにか食べたいものはあるのかい?」
リーゼロッテはくすくすと笑い、
「なにを心配しているのよ? わたしは人間とおなじものを食べるわ。別に生き血なんて欲しくないし。ああ、でも日本食にはまだ慣れていないから、ナットウとかスシなんてのは無しにして」