始まりの夜 2
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男は何気ない様子で緩やかに近づいて来た。そして十歩ほどの距離を開けて少女に相対すると、あの厭らしい歯を剥き出しにした笑みを作り、
「これはなんと言う僥倖だろうか。我が前に二人もの『貴き血』の持ち主が姿を顕わすとは。やはりこの地には獲物が濃いと言うことか」
と、低い嗚咽のような声で呟いた。まるで歓喜に堪えないと言った響きであった。
「ふ~ん。あなたが最近この地を騒がしている『オーガ』なのね。これほど短期間に飢えを満たそうとするなんて、あまりにも愚かな行動だと思わないの?」
少女は男の放つ異様な雰囲気に、まったく動じていない様子だった。
「そのようなこと貴様が考える必要はない。我は貴様の血肉を受け継ごう。あの方がこの地に存在した名残を追っていて、これほどの血族に出会えるとは、我は真に運のいい男だ。これこそまさに、我こそが『真の主』へ近づくことを神が思し召したと言う証に違いない」
男は身を包んでいたマントを広げ、両手を前に突き出した。その胸には中世の鎧のような胸当てと、両腕には手甲が嵌められていた。
胸当ては黒地に金の紋章──二匹の龍が相対している図だ──が描かれていて、腰には長剣が佩かれている。まるでファンタジー世界の戦士のような姿だと思えた。
「それでは同胞の少女よ。その身体を我に与えたまえ」
男は慇懃な口調で一礼した。だがその紅い目は、明らかに嘲弄の意を顕わしている。
「お断りよ。それに、わたしはあなたなんかとは違うのだから、勝手に同胞扱いはしないでちょうだい」
少女は動ずることなく、にべもない言葉を返した。
「ほう、同胞ではないと? どう見ても貴様は『闇の種族』として存在しているではないか?」
「だからと言ってわたしがあなたのように、『血族』であるとは考えないで欲しいわね」
高慢な口調と表情で、少女は腕組してそう言い放った。
「小癪な小娘め! よくもこの我に向かい、そのような生意気な口を!」
男は激昂し、長剣を引き抜いた。凄まじい殺気が立ち昇り、思わず貴夜はよろめき後退りした。だがその美しい小柄な少女は、冷たい微笑を貼りつかせたまま、
「たかが『オーガ』の分際で、このわたしに向かってそんな口を利いていいのかしら?」
と、さらに挑発するような言葉を叩きつける。
大男は咆哮を上げて少女に飛掛かった。十歩ほどの距離を一気に跳躍して、少女の頭上にその幅の広い禍々しい刃を振り下ろす。貴夜の目が追いていけないほどの、神速とも言える速さだ。
まるで鉈の刃のようにぶ厚く重そうな刃が、凄まじい勢いで少女の美しい金髪に触れようとした瞬間、少女は突然消滅した。いままで存在していた空間から、突如と消えてしまったのだ。
いや、貴夜にはそう見えただけで、実際は、少女は信じられないスピードで横っ飛びにそれを避け、大きく距離を置いて着地していたのだった。
勢い余った長剣の刃はアスファルトの地面を抉り、青白い火花を飛び散らせた。爆弾でも爆発したかのように、そのアスファルトの欠片は四方に砕け跳んだ。
男はすぐに、唸り声と共に長剣を持ち上げると、風を切りながら横薙ぎにその刃を払った。
(やられる!)惨事を予想し、貴夜は思わず目を瞑りそうになった。
だがその切っ先が捉えたものは、おぼろげに残る白い少女の残像であり、生身の肉体は、すでに男の頭上遥か高く跳躍していた。
男はにやりと唇を歪め、左手を大きく振り上げた。その指先から銀色の光条が少女に向かって伸びていく。それが大型の短剣であると貴夜が気づいた時には、短剣は少女の胸に吸い込まれる寸前だった。
貴夜は声にならない悲鳴を上げた。少女の白いドレスの胸に禍々しい凶器が突き立ち、鮮やかな紅い色に染まってしまう映像が脳裏に浮かんだ。
しかし、そんな状況には至らなかった。少女の胸に突き刺さる前に、重そうな短剣は澄んだ音を立てて跳ね返ったのだ。
少女の胸元に光る環が形作られ、それが盾のように短剣を弾き飛ばしたのだ。
「『環の護り』だと! 貴様! 『教会』の魔術を使うのか!」
そう叫んだ男は憤怒の形相で歯を軋ませた。
「あら、防御の術さえあなたは知らないと言うのかしら?」
軽やかに地面に降り立った少女は、憎たらしいほど愛らしい微笑を浮かべ、
「やはりただの『血族』風情が、『黄昏に抗う者』と呼ばれしこのわたし、リーゼロッテ・クリスティーナ・シュヴァルツヴェルトに挑むなど、あまりにも愚かしい行動だったわね。彼我の力の差を認識できないようでは、『真の主』などなれるわけがないわ」
と、嘲笑うようにしてそう言った。
紅い髪と目の男は、少女の言葉を聞いた瞬間、凄まじい衝撃を受けたように身体を強張らせ、大きく目を見開いた。
「なんと……。『旧きもの(エルダー)』であるとは思っていたが……。まさか──このような地に『七主』の一人が?」
男は信じられないものを見るような表情で、少女の顔を凝視しながら呟いた。
「あら、あなたはわたしを感知したのではなかったのかしら? それはご愁傷様ね。まぁ、いまなら見逃してあげる。いまのわたしはちょっとだけ気分もいいから。だからこの少年のことは諦めて、さっさとねぐらに帰りなさい」
屈辱に青白い頬をさらに蒼褪めさせ、男は後ろ向きに跳躍した。その高さは絶対に人間のものではなかった。七階建てのビルの屋上まで、膝を大きく曲げる風もなく、一気に跳躍したのだから……。
貴夜は呆然とその姿を見上げていた。これが夢ではないと知りながら、夢の中の出来事であって欲しいと望んだ。
だが男の、屈辱に満ちた憤怒の怒声は、貴夜の鼓膜を確かに震わせる。
「今宵は退くとしよう、美しき『主』よ。だが貴様のその血、そして肉と魂を得る為に、我は再び貴様の前に現れよう」
男の姿はその声を響かせ、闇の中に消えて行った。
「さて、あなたをどうすればよいのかしらねぇ」
呆然と男を見送った貴夜に、少女は可憐な笑みを見せてそう言った。
「ど、どうするって……?」
少女の言葉の意味が理解できず、貴夜はただオウム返しにそう聞き返す。
「バカねぇ。あの『血族』の男は、またあなたを狙ってくるに違いないのよ? 今回は偶々わたしが居合わせたから撤退してだけなの。あなたはあの『血族』にとって、類稀なる獲物なんですもの」
「え、獲物? なんでぼくが狙われなきゃならないんだよ!」
「だって──あなたは『貴種』なんですもの。わたしとおなじ『主』に変化することのできる、この世界でも特別な存在なのよ」
少女の艶やかな微笑が、妙に揶揄するようなものに見えた貴夜は、急に腹が立ってしまった。
「いい加減にしてくれよ! いったいなんなんだよ『主』って言うのは? ぼくがなんでそんなものになるって言うんだ? そんなのぼくに関係ない!」
苛立ち紛れに貴夜は叫んだ。途端に少女の笑みが強張った。
「な、なによ! 助けてあげたって言うのに、なんでわたしが怒鳴られなければならないって言うのよ! あなたが『主』の素養があるのはわたしの所為じゃないわ! それに、あの『血族』に狙われるのだってあなた自身の問題じゃない!」
良く言えば人形みたいに整った、悪く言えば無機質なその表情を崩し、少女は感情も顕わに叫び返してきた。
「だって──だって君はさっき、勘違いだったと言ったじゃないか。相手を間違えたって言ったじゃないか」
自分でも言い掛かりに近い、わけのわからないことで怒っているのは理解していた。だが、目の前で起きた非現実的な場景と圧倒的な恐怖が、貴夜にそのストレスを吐き出すことを強いていたのだ。
「それは間違えるわよ! まさか覚醒してもいない人間のあなたが、あれほどあの方に似た波動を発しているなんて考えられなかったんだもの! それに、あの『血族』だってあなたのことを『主』だと認識していたじゃないの! どちらにしても、わたしがあなたの命を助けたことに変わりないわ!」
少女はムキになって言い返してきた。それは、さきほどの超人的な行動を見せた者との、非常にギャップが激しい仕草でもあった。
怒っていながらも愛らしい、普通の──普通ではないほど美しいが──人間の少女のような反応だったのだ。
「いや──だ、だからさ、君の言っていることが理解できないんだけど……」
その顔を近づけてくる少女の剣幕に圧倒され、しどろもどろになってしまった貴夜は、力なく両手を挙げた。
「理解できない? ああ──そうねぇ、あなたはまだ人間ですものね」
少女はそう言ってようやく落ち着いたようだった。何度も小さく頷きながら、ぶつぶつと口の中で呟いている。
「仕方ないわね。このまま放って置くわけにもいかないし……」
大きく憂鬱そうな溜め息を吐いた後、少女は右手を差し伸べた。握手を要請したのだと思い、貴夜はその手を握る。白く細い、そして冷たい感触の小さな手は、驚くほど柔らかかった。貴夜は妙にどぎまぎとしてしまう。
「なにをしているのかしら? 違うわよ。騎士の如くその手にキスをして、わたしに対する契約の証を返しなさい」
すると少女は命令口調でそう命じてきた。いままでと違う、まるで女王が発するような威厳たっぷりな口調だった。
貴夜は慌てて手を離し、少女の言葉に従った。白いたおやかな指をそろえて突き出されたその手を恭しく取り、軽くその甲に口づけする。
「これであなたとわたしに契約が生まれたわ。わたしはあなたを導き護り、あなたはわたしに従う。わかったわね」
少女は手を引くと、にんまりとした笑みを浮かべた。