始まりの夜
1
下弦の月が美しい夜だった。だが霧生貴夜はそんな幻想的な美しさを持つ夜空にも、その目を向ける気分にはなかった。それどころか苛立ちと怒り、そして謂われのない劣等感に苛まれ、俯くように地面を見ながら彷徨うだけだった。
それに、どうせ月よりも派手で毒々しいネオンサインの光が、あちこちに光り輝いているこの道では、情緒豊かにそれを眺めることなどできやしないのだ。
貴夜は中肉中背の目立たぬ少年だった。だがどこか鋭利な印象の面立ちと切れ長の目、そしてすっきりと通った鼻筋とやや薄いが形の良い唇の、よく見れば非常に整った容貌の持ち主である。
だが陰鬱な表情で俯き、背中を丸めてとぼとぼと歩く今の貴夜の姿は、あまりにも陰気臭く近寄り辛い雰囲気を漂わせていた。それに全身が土埃に汚れ、無数のほころびと鉤裂きに飾られた制服姿は、誰もが係わり合いになるのを恐れる風体であった。
貴夜は不良集団による苛めを受けていた。いや、それは苛めと言うより暴力であり虐待と言えるものだった。顔や露出している素肌には傷跡や痣など見えないが、制服の下には無数の青痣が残っている。
ただ貴夜はそれに対し諾々と受け入れているわけではない。どちらかと言えば反抗的な態度を示す少年だった。だからこそ、その暴力がさらに酷くなってきているのは、貴夜にも重々承知の事であった。
貴夜はプライドが高すぎる少年だった。いや、それだけではない。常にトップレベルの成績を持ちながらも、彼には少々賢さが足りないのかも知れない。要領よく立ち回る術を知らないのだ。
もちろん、貴夜には虐待を避ける為の方策はいくらでも考えついただろう。彼らが望むような従順な態度を取り、卑屈な学校生活を送るのは問題外にしても、教師に虐待の事実を告げてもよいし、いざとなれば暴力事件として警察に駆け込めばよい。
だが貴夜はそんな考えに及ぶような少年ではなかった。それはなにかに負けてしまうような気がしているからだ。
結局はプライドだけが高すぎて、他人に頼ることもできないと言う性格だと言うだけなのだろう。
ただそんな貴夜には、虐待の首謀者達を死ぬほど憎悪し、復讐したいとか、殺してやりたいとか、そう言った暗い感情はなかった。それにあてつけのように自ら死を選ぶような考えもない。ただ暴力やそれに類するものが嫌いなだけなのだ。
別に強い信念があるわけでもない。ただ貴夜がそのような性質だと言うだけだ。
とは言え、このまま黙っていてもなんの解決にもならないのは承知の事実だった。
無抵抗でいれば、いつかは相手も厭きるだろうなどと言う、そんな考えはすでに意味のない、貴夜の独りよがりな甘い考えであると思い知らされたのだ。
それは今日の午後の出来事であった。
いつもの如く下らない理由で因縁をつけられた貴夜は、いままでにない暴力に曝されてしまったのだ。
彼らと同様の暴力で反抗することもなく、許しを請うこともしない貴夜は、つい三十分ほど前までサンドバックのように扱われていたのだ。
どう考えても一人でいる時を狙われたのだろう。
普段は親友の神代顕人と共に下校する貴夜であったが、今日は偶々顕人が早退していた。そして彼らはそれを知って計画的に貴夜を待ち伏せていたのだ。
彼ら──貴夜を目の仇にする虐待グループは、以前顕人に手痛い報復を受けていた。
格闘技経験があるらしい顕人は、並みの不良よりも遥かに強かった。自分は掠り傷一つ負わず、五、六人ほどのグループ全員を簡単にのしてしまったのだ。
親友の貴夜を守る為に行なった行為だったが、貴夜自身はそれを批難してしまった。
──暴力で暴力に対抗しては、所詮彼らと変わらないのではないかと。
もちろん、顕人の行為が嬉しくなかったわけではない。その理由も痛いほどわかっている。なんと言っても、顕人は貴夜に取って唯一と呼べる親友なのだから……。
だが自分の信念として、貴夜はもう二度とそう言うことはしないで欲しいと顕人に告げたのだ。実際はそれほど強い信念などないのだが……。
顕人は酷く不服そうだった。そして呆れたようにこう言った。
(この世界にはおまえが思うほど、まともな人間ばかりじゃないんだぜ。おまえが引いても、それ以上に踏み込んで来る奴は大勢いるんだ。やられてもやり返さない人間を、さらに追い込んでくる卑劣で下劣な奴がな)
顕人の言葉はある意味真実を突いていただろう。だが、貴夜はそれでも信じるつもりであった。人間の本性は善であると。
不承不承であったが、顕人は貴夜の言葉に従った。
しかし全身に燃えるような痛み覚えるいまとなっては、貴夜の考えがいかに甘いものだったか考えさせられる。
自分のことも守れない人間は、信念を声高に叫ぶこともできない。しょせん負け犬の遠吠えと変わらない、そう言った現実を……。
もっとも、本当に自分を情けなく思っているのは、ポケットに忍ばせている冷たい金属の感触の所為であった。
それは父が残した形見であった。
古いデザインの、まるで中世の騎士が持つような幅広の剣を模した短剣だった。だが実用には覚束ないほどの小さな、ミニチュアの模型のような……。
武器として持っているのではない。
ただの御守りだ。
──だが小さいとは言えその鋭い刃は、充分に人を傷つけることのできる凶器にも変わるのだ……。
貴夜の家までは後五分も歩けば辿り着くはずだ。もし身体を痛めつけられていなければ、駅の駐輪所に止めてあった自転車に跨り、今頃はすでに辿り着いていてもおかしくはなかったのだが……。
足を引き摺るように、重い身体を苦労して動かしているので、普通に歩くよりもさらに時間が掛かってもいる。
ここまで来ると、繁華街から大きく外れているので、人通りもほとんどなくなっていた。その代わり、酷く寂しい暗い道が続くことにもなる。
普段は別段、そのようなことに不安を覚える貴夜ではなかったが、ここ最近の物騒な事件の所為もあり、すこしばかり神経質になっていた。どうもこの街には連続殺人鬼が通り魔の如く徘徊しているらしいのだ。
奇妙で恐るべき事件が起き始めたのは二ヶ月ほど前のことである。
この街を含めた地域で、全身から血を抜かれ、手足をもぎ取られ、内臓がポッカリとなくなってしまった遺体が複数発見された。まるで猛獣に襲われたような無残な遺体の為か、それが人間の仕業だとは思えないと言われていた。とは言え、それほどの惨状を造り出すような猛獣の痕跡は、一切発見されていない。
あたり前だろうと貴夜は思う。
なんと言っても殺人現場は市街地なのだ。しかも、歓楽街や繁華街の路地裏と言う場所が主だった現場であり、けっして山奥の話ではないのだ。それで人を食い殺す獣が目撃されないわけはない。それに、そんな猛獣がどこからやって来ると言うのだろう。
犠牲者の数はすでに十二人にも上っている。だがいまだにその犯行を目撃した人間はなく、決定的な物証も見つかってはいないらしい。
巷ではこの不可解でおぞましい事件のことを、まるでホラー映画に出てくるような化け物の事件と捕らえる者もいる。
笑い話ではない。
まるで昔話にある『鬼』が徘徊しているかのような、扇情的な見出しをつける雑誌記事まで書かれているのだ。
もちろん、貴夜はそんな記事を鵜呑みにするタイプの人間ではない。
普段なら笑い飛ばしてしまうだろう。いや、正直ってそんな記事は一片も信じていない。『鬼』なんてものは信じようがないだろう。
だが──。
人が殺されているのは事実だ。どのように無残な殺され方であろうと、それが人間の業とは思えないようなものであろうと、夜の街中で何人もの人が死んでいるのは変えようのない現実なのだ。
普段の貴夜ならそこまで不安に駆られることはなかっただろう。だが全身に打ち身を負い、体の自由が利かないいま、そこはかとない不安を覚えても仕方がないのだろう。なにかあった時、頼れるのは己の身体能力だけなのだから……。
自宅まではあとわずかだった。この道の先を進み、二つ目の角を曲がる。するとそこに、いまは十数件しか居住している者のない小さな住宅地が存在する。
その角地にある大きな一軒家が貴夜の住居だった。
寂れた雑居ビルが立ち並ぶこの一角は、特に人通りがなかった。二本ほど通りを渡れば、メインストリートにぶつかるのだが、この辺りはすでに開発の波から外れてしまった地域だった。古ぼけたビルの間や細く暗い路地があちこちに存在しているので、余計に想像をかき立てられるシュチュエーションでもあった。
──だからだろうか。
貴夜の耳に、獣の如き低い唸り声が聞こえたのは。
思わず足を止め、頼りない外灯の薄ぼんやりとした灯かりを頼りに、辺りの闇の奥を窺った。だがそれ以上、特に妖しい物音も聞えず、不審な人影も見当らない。
(気のせいだよな?)
ホッとしたように息を吐くと、貴夜は肩に掛けたショルダーバッグの位置を直し、再び足を踏み出した。
その途端、逝く手を遮るようにして、黒く大きな影が目の前に現れた。
呆然として貴夜はそれを凝視した。闇の中に、紅い二つの輝きが浮かんでいる。
「──おかしい。確かにあの方の波動を感じたのだが……」
低い、そして擦れたような声で、紅い眼の持ち主は呟いた。日本語ではあるが、どこかイントネーションがおかしい。
闇の中からそれはゆっくりと身を顕わした。
全身を黒いマントのようなもので覆い、貴夜の目線よりかなり高い位置にあるその顔だけが露出している。身長は二メートルに近い大男だった。
街灯の弱々しい光に照らされた男は、短く刈った赤茶けた髪をして、そして尊大な鷲鼻と爛々と光る紅い眼を持っている。四角張った顎にも短い髭が生えていた。
日本人ではない。その詳しい人種まではわからないが、きっと欧米人であろう。
「な、なんですか?」
紅い眼に射竦められながらも、その異様な風体の男に向かい、貴夜は問いかけた。
「貴様──何者だ? 『闇の種族』とは思えないが、貴様からは同族の、しかも『闇の主』の持つ波動を感じる。──しかもあの方に極めて近い波動を」
男の声は陰々とした声で男は、貴夜の問いにさらに問い返す。
背筋にぞくぞくとしたものが走った。その風体と言い、意味のわからないその言葉といい、どう考えてもこの男は普通じゃない。
「何者って──『闇の主』? なんですかそれ? ぼくはただの──」
そう答えながら貴夜は、目立たぬようにゆっくりと後退りした。すこしずつ距離を置き、一目散に逃げ出そうと考えていた。
(どう見てもコイツはヤバイ! もしかしたらコイツが通り魔なのかも……?)
そんな貴夜の考えを知ってか知らずか、その大男は半眼になってなにか考え込んでいた。紅い眼で貴夜を見据えているように見えるのだが、特別にアクションを起こす気配を見せていない。
「──ふん。やはりまだ人間であることは間違いないようだな。覚醒する以前と言うことか。だが、『闇の主』の力を秘めている稀な存在だ」
男はそう言って幽かな笑みを浮かべた。その笑みは尊大で、真紅の瞳には無慈悲で邪悪な輝きを宿しているように見えた。
「少年よ。貴様は今宵の獲物に相応しい。我が血肉となり、魂を分けあう栄誉を貴様に与えよう」
男は大きく唇を歪めた。するとその歯が剥き出しになり、通常の人間にはあり得ないほど発達した犬歯が剥き出しになった。
貴夜は瞬時に判断し、肩に掛けたバッグを思い切り投げつけた。そして男に背を向けて一気に走り出す。
足が痛いとか疲れているとかは言っていられなかった。それほどにあの男からは恐怖を感じていた。身の危険を心の底から覚えたのだ。
通りから引っ込んだ路地に飛び込み、さらにその奥に向かって走る。ビルとビルの間にあるこの道を突っ切れば、大通りに出て行けるはずだ。そこなら人通りも多くなるから、あの男もそこまでは追いかけて来ないだろう。
──そう思っていた。だがすぐに、希望は絶望に変わってしまった。
道を一本間違えたことに気づいたのは、そこに壁のようにそそり立つ、コンクリートブロックとその上の金網を見たからだった。
行き止まりだった。袋小路だった。
背後になにかの気配を感じた。微かだがアスファルトの上を歩く音がする。
(アイツなのか? アイツが追って来たのか?)
貴夜は背中に冷たい汗が吹き出すのを感じた。振り向き、それを確認するのが恐ろしかったが、それでも貴夜は慌てて振り返った。
予想は外れた。振り返った先には、あの不気味な大男は見えなかった。
蒼白い幽かな月の光の下、そこには一人の少女が所在なげに立っていた。どこか落胆したような表情でこちらを見ている。
貴夜は声を失ってしまった。ただ呆然と少女を凝視している。
貴夜は衝撃によって棒立ちになっていたのだ。しかしそれも無理はなかった。
その少女は美しかった。まるで天才職人の手によるビスクドールのような、滑らかで白いその整った貌。白いドレスに身を包んだ、ほっそりとしたその身体。
見た目は貴夜と同年齢らしいが、その落ち着き払った仕草はどこかはるかに年上のものに思える。
月光に照らされたその長い髪は白金に輝いていた。まるで月の光そのものを編みこんだように……。
幽玄の美を体現したような少女。
人の姿をした人ならぬモノ。
貴夜にはどうしても目の前に居る少女が、この世のものとは思えなかった。
不思議な色合いのその瞳は、左右の色を違えている。それがさらにその少女をまるで妖精のような、もしくは天使かとも思えるように見せているのだ。
「あなた──何者なの? 血族の一人なのかしら?」
少女の声はその外見と同様に美しく、まるで心地良い音楽のような調べを奏でた。だがそれ以上に、貴夜はその言葉を聞いて愕然とした。
それは先ほどの大男が貴夜に問うたのと、まったくおなじ言葉だったからだ。
「ちょっと。なんとか言いなさいよ」
その声には似合わないような言葉であった。口調も苛立たしげだ。だがそのことにより、貴夜の精神状態は現実に対応できるように回復した。
「ぼ、ぼくは……。ちょ、ちょっとまってくれよ! いきなりなんだよ! ぼくが何者かだって? いったいそれがなんだと言うんだよ! 君もあの男のように、『闇の主』がどうとか言い出すのか?」
貴夜がなかばキレ気味に叫ぶと、次の瞬間、その金髪の少女の表情が強張った。
「いまなんて言ったの? 『闇の主』と、そう言ったわね? なぜあなたはその言葉を知っていると言うの? 誰がその言葉を教えたの?」
続けざまに少女は詰問してきた。そしていつの間にか、貴夜と目と鼻の先に近づいていた。
目の前にある少女の、陶磁器のように滑らかなその頬と青と紫の瞳を見つめると、貴夜の頭はぼうっとしてきた。『美し過ぎて恐ろしい』と言う言葉が、まさに当て嵌まる容貌である。
「ねぇ、なんで答えないのよ」
少女はさらに顔を近づける。甘い吐息が頬に触れるほどの距離だった。
心臓の鼓動が早く、そして強くなるのを感じた貴夜は、舌が痺れたようになにも答えることができなくなっていた。
「もう、いい加減になにか答えたらどうなのよ。まさかあなたが、世間を騒がせている『オーガ』ではないでしょうね?」
まるで宝石のサファイアとアメジストのような瞳は、魂が吸い込まれるような不思議な力を持っていた。
「だ、だからぼくはそんなこと知らないよ! 『闇の主』だの『オーガ』だの、なにを言っているのかさっぱりだ! 君こそ何者なんだよ!」
貴夜はその不思議な瞳から強引に顔を背け、その力を振り切った。
少女は一歩後退し、小首を傾げながら貴夜を凝視した。そして白くたおやかな指を顎に当てる愛らしい仕草で、
「──わたしの思い違いだったかしら?」と、呟いた。
その声には落胆と共に安堵の響きがあるように感じられた。
貴夜の全身から力が抜けていった。緊張に次ぐ緊張を強いられた精神が、いきなり弛緩してしまったのだ。
ガクガクする膝を両手で押さえ、大きく息を吸い込んだ。そしてまだこちらを見つめている金髪の少女を上目遣いで窺うと、少女は鮮やかな笑みを浮かべてこう言った。
「ごめんなさい。どうやら相手を間違えたみたい」
そして少女はゆっくりと後ろを向いた。
その視線の先には、あの不気味なマント姿の大男が立っていた。