黒の人喰い鬼
光の渦がヴィトーリオの眼前に出現した。それが防御の為の魔術か、それとも攻撃の為に造り上げられたものかは判断がつかなかったが、ヴィトーリオは構わずにそれに斬りつける。防御魔法にしろ攻撃魔法にしろ、ヴィトーリオが授かった二つの魔術法具にはなんの効力も発揮しないからだ。
愛剣の重い刃が光の渦に斬り込まれた。どのような魔法であろうとも、この魔聖剣を妨げるものではないのだ。だが次の瞬間、その光は音も無く爆発し、ヴィトーリオの視界を黄金の光だけに染め上げた。
焼きついた視力が回復する頃には、すでに二人がそこから消えていることに気づいていた。なんと言っても一切の攻撃が加えられなかったのは、リーゼロッテが脱出の為だけにあの魔術を使ったからなのだ。
(逃げられたか……。チャンスはそうそう訪れないと言うのに……)
まだ目の奥が痛み、しかもこの闇の中、視力は通常より劣る。それでもヴィトーリオはリーゼロッテ達の姿を求めようと、屋上の端まで移動した。
しばらくの間、ヴィトーリオは二人の姿を探した。探索の為の魔術も使用したが、彼らを追跡するのは不可能であった。魔力のラインも断ち切られていたのだ。
(仕方がない。今夜のところは諦めよう。なに、いざとなればあの『オーガ』を利用して、『黄昏に抗う者』の魔力を減らせばいいのだ)
ヴィトーリオはまだ抜き身のままだった剣を鞘に収め、不敵な笑みを浮かべた。
主が自分を見守ってくださるのだ。『七主』と言えども、この祝福されし剣と帷子がある限り、神の恩寵が我が身から離れることはない。
コートの裾を翻し、音高くブーツの踵を鳴らしながら階段へ向かう。後数刻もすれば闇の世界は終わり、燦然と輝く太陽の支配する時刻に移る。そうしたらもう一度、あの『闇の主』に立ち向かうのだ。彼らの居場所はすでに知れているのだから……。
おおいなる神の栄光と聖戦士としての栄誉を夢見ているヴィトーリオは、いまやそれを想像することに心を満たしていた。
──だからだろう。
ヴィトーリオは闇の中に潜む、本来の敵に気づくのが遅れてしまったのだ。
激しい衝撃が背中に命中した。全身をバラバラにするような激痛が走り、ヴィトーリオは一瞬ではあるが気を失った。意識を取り戻したのは、コンクリートの床に身体を叩きつけられた時の、新たな痛みの所為である。
肺の中の空気がすべて吐き出され、酸素を求める為にヴィトーリオは激しく喘いだ。助骨にダメージを負ったのか、息をする毎に激痛が走る。
だが、聖なる防具を身につけていたからこの程度で済んだのを、ヴィトーリオは充分に理解していた。それほどまでに強力な魔力の一撃だったのだ。
(攻撃を受けたのか? だが誰に?)
激痛を堪えながら顔を上げ、グリーンの瞳を攻撃が飛んできた方角に向ける。そしてその姿を認めると同時に、唇を噛み締め、全身の痛みを無視して強引に立ち上がった。
襲撃者は姿を隠すこともせず、泰然とそこに立っていた。
ヴィトーリオよりもさらに高い目線、そして逞しい牡牛のように張り出した肩とぶ厚い胸板。それは全身を覆う黒いマント越しでもわかる、異様なほど鍛えられた肉体だった。
尊大そうな大きな鼻の上には、煌々とした赤い光を放つ両目があった。その瞳に軽侮とわずかな怒りを顕わしている気がした。
「ふん。しょせん『異端処理官』程度に『主』は倒せはしないようだな」
その言葉は明らかに侮蔑の意味を持っていたが、口調は平板で、穏やかとさえ言えるものだった。それにわずかだが自嘲の響きも加わっている。
「いまの攻撃とて、そのチェインメイルがなければ、たったの一撃で即死だったであろうに。まぁ、それでも自力で立ち上がったのは褒めてくれよう。『エントゥーリ』のような抗魔法に特化した鎧であれば、純粋な魔力の打撃に対してはそう防御力を発揮できはしないはずだからな。あばら骨は何本砕けているのだ?」
「貴様は──? よくも私の前に顔を出せたものだな! この裏切り者め!」
ヴィトーリオは咳き込みながらもそう叫んだ。肺から込み上げてきた鮮血が、唇から次々と吐き出されていく。
ヴィトーリオは目の前に立つ、幽鬼のような面差しの赤毛の男を知っていた。
それはかつての同期。異端者を狩る為に己を異端とする『異端処理官』の一人。
そしてこの極東の国にヴィトーリオが派遣された理由であり、倒すべく『闇の眷族』たる『黒衣の聖戦士』。
「ジャン・ルイ・オートブレーブ──『黒の人喰い鬼』め! なぜ今頃になって私の前に顕われたのだ? 私が貴様を見逃していた理由もわからないか?」
ヴィトーリオは苛立ちを押さえ切れずに吐き捨てた。
「見逃していた? 貴様如き無能者が、わざと我を見逃していたとのたまうのか? 愚かで傲慢な男よ。考え違いも程ほどにするがいい」
ジャン・ルイ──『黒の人喰い鬼』と呼ばれたかつての同僚は、詰まらなそうにヴィトーリオを見下ろした。
「そろそろ再生が働いているのではないか? 貴様の傷が治るまではここで待っていよう。だが、逃亡は許さぬぞ。我は貴様に用があるのだ」
『黒の人喰い鬼』は平板な声で呟くと、腰に佩いている巨大な剣を抜いた。それはヴィトーリオの『ヴィアラウディ』と同様、教会から預けられた魔術法具の一つ、『影なる刃ドゥランヘルム』と呼ばれている大剣であった。もちろん、絶対破邪の聖別された剣で、『闇の眷族』に対して効果を顕わす剣であった。
「ここで決着を着けようと言う訳か? そのような行動に意味が在るのか? 私が『黄昏に抗いし者』を屠るまでに、さっさとこの地から離れてしまえば良いものを……」
「その『黄昏に抗いし者』が隠匿しようとしている者が必要なのだ。必要とあらばあの『主』も我が屠らねばならぬ」
「なんだと! それはどう言う意味だ!」
そう叫んだヴィトーリオであるが、理由など訊かなくてもわかっているはずだった。
ジャン・ルイ・オートブレーブ。十三人の聖戦士の一人にして『黒衣の聖戦士』の位階にあった彼は、今や『黒の人喰い鬼』と呼ばれている『血族』なのだ。そして彼が神を裏切ってまで手に入れようとしているモノ。それは──。
彼らの敵であったはずの『真王』の座。古代の神々と呼ばれし存在への道。
つまりジャンが求めるのは、強大なる闇の血と肉、そして魂そのもの。それを自らの内に取り込み、創られし邪なる神の座に上ろうと言う野望。
「──時間稼ぎなどせずとも、貴様の再生が完全となるまで待とうと言ったではないか?」
ジャンは──『黒の人喰い鬼』は淡々とそう答えた。
心の内を見透かされたようで、ヴィトーリオは思わず唇を噛み締める。
「心配するな。貴様の身を案じているとか、万全の準備を施した貴様と戦いたいとかではない。ただ我が血と肉を、そして魂を満たす為には、弱ったままの貴様を取り込んでも意味がない。それだけのことだ」
温かさも冷淡さも窺えないその声は、ただ虚ろにヴィトーリオの耳に響いた。だがジャンの表情は、傲慢な笑みと苦渋に満ちた目を同時に浮かべていた。
(ああ、神よ! あなたの子羊にして忠実なる僕を、ただあなただけを信奉し、悪を打ち倒してきたこの私を、この謂れなき恐怖からお救い下さい!)
ヴィトーリオはこの国に来て初めて、自らの主である唯一の神に祈った。それは聖戦士として生まれ変わったあの日より、いままで感じたことのない恐怖の為だった。
「ああ、ヴィトーリオ。そう怯えることはない。貴様のすべては我が身に移り変わる。天上の神にも等しい力の一部になるのだ。それは死を超える新たな存在だろう。
──さて、貴様の肉体も修復が終わったようだな。それでは我が血肉になる為、その力のすべてを出し切って我と戦え」
苦悩に満ちた声で、『黒の人喰い鬼』はそう宣告した。