最後の封印
金属同士がぶつかり合う、澄んだ甲高い音がリーゼロッテの耳朶を打った。
閉じていた目蓋をそろそろと開けると、目の前にその背中があった。
(そんな──あり得ないわ……?)
それは俄かには信じられない光景だった。
リーゼロッテを庇うようにして背中を向けているのは、離れた場所で震えていたはずの貴夜だった。その右手には古めかしい装飾の短剣が握られ、緋色の聖戦士であるヴィトーリオの長剣、魔聖剣『ヴィアラウディ』の刃を受け止めている。
(──え? うそ──でしょう?)
リーゼロッテがその光景を理解するには、わずかに時間が必要だった。
貴夜は十メートルほど離れた場所に居た。しかも、ヴィトーリオの殺意に満ちたプレッシャーにより、身体を震わせて固まっていたはずである。
その彼我の距離を、剣が振り落とされる一瞬の内に移動できる訳がない。もしそんなことができたとすれば、それは瞬間移動と言える能力に等しいのだ。
──しかもあの短剣はなんなのだ?
真なる銀や賢者の黄金と言った特殊な金属でなければ、その刃の前には確実に断たれるであろう筈の魔聖剣を、その優美とも言える古めかしい短剣は受け止めている。
ヴィトーリオと貴夜の膂力の差については、不完全ながらも封印を解かれた、貴夜の身体能力が向上していると考えれば腑に落ちるのだが、その短剣だけは別だった。
貴夜の手にした短剣から魔力が溢れ出ている……。しかも尋常ではないほどの力が、ヴィトーリオの魔聖剣とぶつかり合うことにより、辺りに飛び散っている。と言うことは、あの短剣も魔術法具であるのは間違いない。
しかし……。
(それにしてもなんて魔力なの? あんなものが近くにあれば、わたしが気づかない訳ないのに……)
そう──それが不可解だった。
貴夜があの短剣を身に着けていたのなら、リーゼロッテに感知されない訳がない。だが実際にいま、短剣は貴夜の右手に握られている。
(どうしてなの……?)
リーゼロッテはその答えに行き当たり、思わず息を飲んだ。
あの短剣こそが、リーゼロッテの解呪が及ばなかった、貴夜に施された最後の封印そのものであることを……。
ガラスが砕けるような音と共に、ヴィトーリオは一気に跳び退った。その表情は訝しさと怒りに歪んでいる。
「なぜ邪魔をするのだ少年! いまその『闇の主』を滅ぼさねば、君もその仲間へと、『闇の眷族』へと引きずり込まれるのだぞ! 君もおぞましい異端の獣になりたいのか?」
苛立ったようにヴィトーリオが叫ぶ。
貴夜は荒い息を吐き、短剣を構えたままヴィトーリオを睨みつけ、
「リーゼロッテはそんなものじゃない!」と叫び返すと、ゆっくりと後退しながらリーゼロッテの傍らに膝を着く。
「大丈夫かい? ──ああ、酷いケガだ……」
貴夜はリーゼロッテの傷を一瞥すると、まるで自分が苦痛を感じているように、顔を歪めて声を震わせた。
「大丈夫──と言いたいところだけれど、あの魔剣で斬られたからには、この傷も再生できないわね。魔法でも」
なるべく平静を装った口調でリーゼロッテは答えた。
貴夜に心配をかけたくない。
でも、口調は落ち着いていても、なぜか甘えたような言葉を返してしまう。明瞭な言葉で、自分の身体には問題はないと、そんなやせ我慢の答えができなかった。
「──こんな状態ではあなたを守りきれないわ」
だけどこれははっきりと言えた。
「約束を違えるようで悪いけど、このままではあなたまであの『異端処理官』に殺されてしまうの。だから──」
「だからなんだよ? まさかぼくに、さっさと逃げろなんて言わないだろうね?」
貴夜は憮然とした表情を浮かべている。
「──あたりまえでしょ! あなたがここに居ても、あの男に殺されてしまうだけなんだから! だからあなただけでも──」
「いやだね」
そう呟く貴夜の声は、決意に満ちていた。
「もしここでぼくが逃げ帰って、そしてリーゼロッテが帰って来なければ、ぼくは姉さんに殺されるよ。それに──
君はぼくの師匠なんだろう? だったらぼくと一緒に生き残らなきゃだめだ」
すこしだけおどけたように続ける貴夜の声は、毅然とし過ぎているように感じた。
ヒロイズムに酔っているのだろうか?
リーゼロッテに不安が過ぎるが、けっしてそうではなかった。
貴夜はいつの間にかリーゼロッテを大事な存在と認識していた。そしてその存在を護ることが、貴夜にとっての『糧』なのだ。
愛情と信頼を受ける。そしてそれを返すことにより、貴夜は『主』としての生存の『糧』としている。それはつまり──。
(わたしと一緒だ……)
そう認識した瞬間、リーゼロッテは全身が温かいものに包まれた気がした。そして数百年前に失われてしまった希望を貴夜に重ねた。
この呪われた生を、共に生きてくれるかも知れない存在。
焦がれるほど望んでいても、ずっと諦めていたもの……。
見下ろすリーゼロッテの表情は、わずかの間にくるくると変わっていった。
苛立ち──恐れ──不安──哀しみ──そして喜び。
貴夜は濡れたような瞳で自分を見つめる、月のように蒼白い頬の少女が、ゆっくりとそこをピンク色に染め上げるのを見て、貴夜は動悸が早くなるのを感じた。
「──その言葉を信じていいの?」
リーゼロッテは濡れた唇を震わせ、縋るように呟いた。
貴夜はそんなリーゼロッテの表情を見て、愛おしさが胸中に広がるのを感じた。
「あ、あたりまえだろ! なに言ってるんだよ?」
そう答えると、リーゼロッテは顔を綻ばせ、大輪の華のように鮮やかな微笑みを浮かべた。そして細い両腕を貴夜の首に回して身体を引き寄せた。
「本当ね? わたしのことを──」
「──いい加減に茶番は止すんだ!」
ヴィトーリオの苛立たしげな声が響いた。
「騙されてはいけない、少年よ! 君はまだ人間ではないか! 闇に侵される前に、その闇の女神から離れるのだ! 主の、神の御許に戻るのだ!」
ヴィトーリオのその声と表情に、貴夜はヒステリーじみたものを感じた。
「あなたは──なぜそこまでリーゼロッテを憎むんですか?」
貴夜はリーゼロッテを抱えたまま、憤然とするヴィトーリオに問う。
「なぜだと? なんと愚かな問いであろうか?」
どことなく狂気を滲ませた瞳で、ヴィトーリオは貴夜を睥睨する。
「如何に美しい外見を取り繕うとも、その娘は──いや、すでに千年以上もの生を続けてきた者が少女と言えるかわからぬが、君が抱いているのは紛れもなく『闇の主』の一人なのだ。どれほどしおらしい姿を見せようと、その本性は人を喰らい、生き血や魂を啜る悪鬼に等しいのだぞ! 人間の敵、主から背いた者! 悪魔とおなじ存在なのだ!
──見るがいい、その忌まわしい色違いの瞳を! おぞましい邪眼を! それこそがその娘の属する世界を顕わしているのだ。
混沌の深淵、無明の闇。そして地の底に蠢くもので溢れる煉獄と、極寒の冷気と燃え盛る業火。それこそがその娘、『七主』の一人であるリーゼロッテと呼ばれている者の、本来属する世界なのだよ!」
その言葉を聞いて、リーゼロッテの身体がびくりと震えた。血の気を失った蒼白い顔を、よりいっそう蒼褪めて、哀しげな色を瞳に浮かべ、視線をわずかに背けた。
この弱々しい少女が、酷い傷を負って痛みに呻く少女が、ヴィトーリオの言うようなおぞましい存在だとは、貴夜には想像もつかないことだった。出会ってから一度も、リーゼロッテに忌まわしさやおぞましさは感じられなかった。
それに──。
リーゼロッテは貴夜にとって命の恩人であり、すべてを教え、導いてくれる師匠なのだ。
「それでも──リーゼロッテの瞳は美しいよ」
貴夜はリーゼロッテの細い身体を抱き締めると、毅然とした表情でヴィトーリオを見返した。その言葉に偽りはない。
そう、リーゼロッテの瞳は美しい。ヴィトーリオの教会が彼女を忌まわしいものだと決めつけようが、貴夜は素直にそれを綺麗なものと思っていた。それにいままで、邪悪なものなど彼女から一切感じ取れない。
ヴィトーリオの言葉はある意味、間違いではないのだろう。『闇の主』と言う存在は、彼と彼の神にとって最大の敵なのだろうから……。
だが貴夜にとって、リーゼロッテは敵でも悪魔でもない。
傷つき、貴夜の為にその魂と生命を捨てようとさえした少女。
『闇の主』と呼ばれ、ヴィトーリオとその教会に忌み嫌われようが、いまこの腕に抱いている少女は、貴夜にとっては守るべき存在だ。
それに──。
貴夜はリーゼロッテを本当に美しい、そして愛おしいと思っていたのだ……。
「すでに闇に魅入られてしまったか……。哀れな少年よ……」
ヴィトーリオはどこか痛ましげに貴夜を見つめた。しかし、一転して酷薄な笑みを唇に浮かべ、その瞳に愉悦の色を浮かべると、
「だがしょせん、その身に闇を抱えた人間。仕方がないであろうな……」
と、傲慢に言い放った。
「それならば──この先の禍根を断っておくべきだろう」
ヴィトーリオは魔聖剣を両手で構え、ゆっくりとした足取りで二人に近づき始めた。
リーゼロッテが身じろぎし、両腕を貴夜から解き立ち上がろうとする。
「動いちゃだめだよ!」
貴夜が慌ててそう言うと、リーゼロッテはなにかを決意した眼差しで、貴夜を見つめる。
「いまのわたしでは、彼に打ち勝てる力がないの。だからあなたを逃がす為には、わたしもすべての力を、秘匿されたその力のすべてを絞り出すしかないわ」
「なに言ってんだよ! まだこんなに血が流れているじゃないか!」
リーゼロッテの脇腹からは、いまだにどくどくと血が流れ出ている。その傷口は一向に再生される兆しがない。
「だからもう、わたしに中には必要な魔力が残っていないのよ。だから──あなたの力をわたしに分けてちょうだい」
「分けてって? ──君にぼくの血をあげればいいのかい?」
「ばか言わないで! わたしは吸血鬼じゃないって言ったでしょう!」
怒ったように、そして拗ねたように言うとリーゼロッテは睨みつけてきた。
「それじゃあ、どうすればいいんだい?」
貴夜がそう訊くと、リーゼロッテはいきなり顔を近づけて来た。そしてどこか慌てたような仕草で、頬を赤く染めながら、
「き、緊急事態だから、し、仕方ないのよ。わたしがそんな女だと誤解しないでよ!」
と、早口にそう言うと、貴夜の唇に自分の唇を押しつけた。
貴夜と自分を繫ぐラインが通った。そしてそのラインから、凄まじい量のパワーが流れ込んで来るのをリーゼロッテは陶然と感じていた。
全身にその圧倒的な量のパワーが染み渡ると、激痛に軋んでいた肉体は完全に回復していた。自分の再生力では止血さえ不可能だった、魔聖剣の傷口さえも、一瞬の内に再生、治癒したのだ。
──想像以上だった。
貴夜の秘めた霊力──魔力は、『七主』の中でも比肩する者がいないであろうほど、凄まじい総量を誇っているのだ。
リーゼロッテは驚くと共に、現状を打破する為、自分の浅ましい姿を貴夜に見せずに済むことを感謝した。
リーゼロッテの魔力は、ほとんどエンプティの状態からフルチャージ状態まで回復した。それでいてもなお、貴夜の中にある魔力の総量は、半分ほども減っていないようだった。
(なんと言う計り知れない子なのかしら……? この子はただの『主』ではないと言うことなの? まるであの方のような……)
リーゼロッテは心の中で驚愕を押し殺すと、貴夜とのラインを閉じて唇を離す。そして驚いたまま固まったような表情の貴夜に微笑みを向け、ゆっくりと己の脚で立ち上がった。
「さぁ、これでわたしの魔力も肉体も回復したわ。それでもあなたはわたしを処理するつもりかしら? 緋色の聖戦士殿」
まだ心配そうに覗き込んでいる貴夜の右手を、その両手で抱き締めたまま、リーゼロッテは近づこうとしていたヴィトーリオに問い掛けた。
「──その少年を先に葬るべきだったか。まさかそれほどの魔力量を有するとは……。
それにしてもさすがは『闇の主』と言うべきだな。己が仲間の魂さえも、自らの魔力に変換する為に吸収するとは……」
ヴィトーリオは足を止め、皮肉めいた笑みを浮かべた。
「ちょっと、人聞きの悪いことを言わないでよ。わたしはタカヤの魂を吸収した訳じゃないですからね! 貴夜に眠っている純粋な魔力を分けて貰っただけよ」
リーゼロッテは憤慨して言い返した。
「そんなバカな話が信じられるか! 純粋な魔力量で『闇の主』の魔力を満たすほどの者など存在しない! そんな存在があるのなら、それこそ魔神か邪神のレベルではないか! 教会はこの地にそれほどのクラスの偽神を認めていない!」
引き攣った頬が、ヴィトーリオの精神状態が極めて高揚していることを示している。いや、すでに狂気に犯されているかのようにも見えていた。
「あなたの気持ちもわからないではないけれど、わたしは嘘を言っていないわ」
「黙れ! 貴様の力が回復しようと、私は私に架せられた義務を、主に与えられたその尊い務めを果たさなければならない!」
ヴィトーリオは魔聖剣『ヴィアラウディ』を掲げ、緑色の瞳に信仰する神への敬虔な祈りを、狂気と紙一重のその感情を湛え、リーゼロッテに向かって跳躍した。
貴夜が急に自らの胸にリーゼロッテを抱き、ヴィトーリオに背を向けた。それが自分を庇う為の行動だとわかっていたが、リーゼロッテは思わず舌打ちしてしまう。
リーゼロッテを庇う為に貴夜が犠牲になるなど、まったく意味のない行為なのだ。そんなこと、リーゼロッテは望んでいないし、それに現状のリーゼロッテに、第三者の守りなど必要はない。もっともそれも、貴夜から得た魔力の御陰であるのだから、貴夜に文句を言う筋合いではないのだが……。
どちらにしろ貴夜の行動により、リーゼロッテの魔術詠唱は一瞬だけ遅れた。そのわずかな遅れが致命的なものとならないようにと祈りながら、リーゼロッテは魔力を急いで発動させた。