闇の嘲笑
それは信じ難い光景だった。
屋上に出た愛莉は、目の前に立ち塞がる二つの背中を押すようにして、その光景をはっきりと確認する為に前に出た。
酷く冷酷な笑みを浮かべ、楽しそうに腕を振り上げ、そして叩きつけるのは貴夜だった。
そしてその身体の下で、弱々しい叫び声を上げているのは、この街では知らぬ者のいない不良である中根だった。
いままでとは立場を変えたその場景は、どこか滑稽であり、そして恐ろしいものだった。
(貴夜が──人を傷つけている? そんな──そんなことがあるわけない……)
目の前の光景が信じられなかった。愛莉は貴夜が人と争うことなどないと信じていた。しかしいま、現実の世界は容赦なくそれを突きつけている。
しかもこれは争いなどではない。一方的な暴力だ。
血の愉悦に浸り、暴力と言う快感に酔っている貴夜の顔は、あまりにも普段の彼とは異なっている。
少女のように整った顔は喜悦に妖しく歪み、薄い唇は端を大きく吊り上げていた。瞳には純粋な愉悦の色を湛えながらも、どこか醒めたような感じがした。
──見知らぬ怪物。
いまの貴夜の姿はそうとしか思えない。
愛莉は胸が痛むのを感じ、思わず床に膝を突いた。両手で痛む胸を押さえ、それでも視線を貴夜に向けたまま……。
その愛莉の背中越しに、沙樹がなにかを叫んだ。その瞬間、貴夜の手が止まった。
「あんた──なにをしているのよ! なぜあんたが……」
悲痛な沙樹の声に、貴夜はゆっくりと視線をこちらに向けた。その目は膜がかかったように、ぼんやりと沙樹を見つめている。
「──ああ、沙樹か……。なにか用なのかい?」
虚ろな笑みを浮かべ、貴夜は呟くようにそう答えると、ゆっくりと立ち上がった。そして啜り泣き、呻き声を上げて横たわる、顔面を朱に染めた中根を一顧だにもしないで、ゆっくりと愛莉の方に近づいて来た。
「どうしたって言うの? ねぇ、貴夜! なんとか言ってよ!」
沙樹は泣き出しそうな声で叫んでいる。なぜかいつもより、女の子らしい口調になっていた。
「別に──どうもしていないよ」
貴夜の声は皮肉めいた嘲笑の響きを含んでいた。
「沙樹だって言ったじゃないか。反抗だけじゃなく、抵抗して見せないとだめだって。だからぼくは、コイツにそれを味あわせてやったんだ。殴られる痛みや、誇りを傷つけられる痛みをね」
その顔には虚ろな笑みを湛えたまま、貴夜はようやく身を起こして咳き込んでいる中根を指差した。
「もう心配しなくていいよ」
いきなり貴夜が腰を折り、愛莉の顔を覗き込むようにして囁いた。その声は優しく、甘い囁きであったが、まるで嘲りを含んだ猫撫で声のように感じた。
「こいつには指一本触れさせない。ぼくが東條を守ってあげるからね」
喉の奥でククと笑う貴夜の笑みは、愛莉が密かに慕っていた、あの穏やかで優しいものではなかった。
これは貴夜じゃない!
沙樹は目の前で愛莉に囁きかける少年を見て、激しい嫌悪と恐怖を覚えた。
「なにがあったの!」
貴夜ではなく、その背後で恐怖に目を見開き、呆然として突っ立っている男達に叫んだ。
中根の取り巻きグループの男達は、それになにも答える様子はなかった。だがようやく身を起こし、口元を血だらけにして呻いていた中根が、聞き取り辛く篭もった声でそれに答えた。
「そ、そいつが、い、いきなり俺を、殴りつけたんだ!」
「はん! あんたなんかの言うことが信用できると思ってんの!」
沙樹がそう吐き捨てると、中根は怯えたように目線を逸らせた。
しょせん、悪ぶっていてもコイツは小物だ。口先だけは大きなことを言うが、それは自分の一族と言う背景を元に、その威を借りているに過ぎないのだ。
「ほ、本当だって! 俺らもそれを見てたんだ!」
中根の取り巻きの一人が、いまさらながらに中根の言葉を取り繕う。
「ふ~ん? 貴夜がいきなり殴ったって?
ふざけんじゃないよ! いままであんたらがやって来たことを、あたしらが知らないと思っているのかい! もし貴夜が殴ったとしても、あんた達がなにかをしたからだろ! いきなりって言うのは違うだろっ!」
眼光鋭く沙樹が睨みつけると、男はおどおどとし、自分の爪先に視線を落とす。
「その通りよ、シスター」
いきなり落ち着き払った女の声が響いた。その声は銀鈴を鳴らすかのように美しく澄んだ、そして金属的な冷たさを孕んだ声であった。
「──あんた……。なにを知っているの?」
沙樹は声のした方に目を向けると、その声の主を睨みつけた。その目は、中根達を睨んだ時のように怒りと蔑みを含んだものではなく、純粋なる敵に対する怖れと警戒を含んだ、冴えたような硬質な輝きを顕わしていた。
「その男はタカヤを本気で怒らせてしまったの。ほんとに下品で下劣な言葉でね」
リーゼロッテは軽やかな足取りで近づいて来た。その自分とおなじ人間とは、到底思えない美しい貌に微笑みを湛えながら……。
初見の時点で、沙樹の本能はリーゼロッテを敵として認めていた。すくなくとも、貴夜を巡る争いの、最大の敵になりそうだと感じていた。
「ねぇ、あなた?」
金髪の小柄な美少女は、沙樹の敵意に満ちた視線を柳と風に受け流し、
「トウジョウと言うのはあなた?」と、愛莉に向かって美しい笑顔を作った。
愛莉はリーゼロッテに声を掛けられ、びくりとして大きな目を見開いた。そして唇を震わせながら小さく頷いた。
「愛莉になんの用なのよ!」
沙樹は愛莉を庇うように、いまは床に座り込んでしまっているその身体に覆い被さり、リーゼロッテを睨み上げながら叫んだ。
「──用がある訳ではないわ。ただ、タカヤの変貌の原因がこの子なの。あの男が──」
リーゼロッテはどこか乾いたような冷たい目で、沙樹と愛莉を見下ろしている。
「──この子を陵辱するとタカヤを脅したのよ」
沙樹はそう言って唇を歪めたリーゼロッテを凝視した後、口元を押さえて怯えた表情を見せる中根に視線を移した。
愛莉の肩を強く抱き締めると、沙樹はゆっくりと立ち上がり、「それは本当なの?」と訊ねた。誰にと言うわけではない。それに答えを待つ気もなかった。事実は事実として、沙樹にははっきりと認識できたのだ。
怯えるような中根の態度が、それを明らかに物語っている。
沙樹は自分でも知らぬ内に、中根に向けて足を運んでいたらしい。
いきなり横合いから伸びた手が、沙樹の右腕を確りと掴み、それ以上先に進ませなかった。沙樹は鋭い視線でその手の主を睨みつける。
「もう、いいだろ? もう貴夜がアイツを痛い目にあわせたんだ。これ以上は必要ない」
顕人のその声は妙に平板で静かなものだった。沙樹は言い返そうとしたが、顕人の双眸に宿る、凄まじいまでの怒りとそれを押さえる自制心を思い知り、唇を噛んで横を向いた。
「本当にタカヤは怒っていたのよ」
沙樹や顕人の怒りを知っているのか、金髪の美少女は嬉しそうに笑った。
「もっとも、わたしが危害を加えられようとした時にはそうでもなくて、この子を陵辱するって脅した時に、あれほどの怒りを見せられたのは、おなじ女としてはちょっと面白くはないけどね。
──まぁいいわ今回は許してあげるから」
リーゼロッテは艶かしい笑みを浮かべたまま、貴夜の右手を掴み取り、そして沙樹達に背を向けて歩き出した。右手を掴まれた貴夜は、どこか陶然とした表情で、リーゼロッテに引き摺られるようにしてその後を追う。
貴夜のその顔に、いまだあの厭らしい笑顔が残っているのを見て、沙樹は慌てて叫んだ。
あれは貴夜の笑みじゃない。貴夜はまだ戻っていないのだ。
「ちょっと待ってよ! 貴夜をどこに連れてこうって言うのよ!」
その声を聞き、リーゼロッテは足を止めて振り返ると、
「タカヤはあなた達が望んだ行動を取っただけでしょ? なぜあなたはそれを面白くなく感じるの? それに、なぜわたしに怒っているの?」
と、愛らしくも小面憎い表情で微笑んだ。
「だって貴夜がこんなになったのはあんたの所為なんじゃ──そんなのどうでもいい! あたしが訊いてんのは、貴夜をどこに連れて行くのかってことよ!」
沙樹は歯軋りしながら、鷹揚に微笑むリーゼロッテを再度睨みつけた。
「あら? こんな騒ぎの中で、いつまでもここに居るのは得策ではないんじゃないの? あなた達も早く移動した方がいいわよ」
そんなリーゼロッテの言葉に、沙樹はやはり腹が立ってしまったが、背後から愛莉が抱きつき、「あの子の言う通りよ!」と叫んだ為、仕方なく罵りの言葉を飲み込んで、愛莉を引き摺るように貴夜達の後を追った。
前を駆ける、リーゼロッテと貴夜の背中を睨みながら階段を駆け下りる。二人はまるで、悪戯に成功しておどけているような笑顔を貼りつかせ、子供のような嬌声を上げていた。
なんでなの?なぜあんな女と、いままでに見せたことのない笑顔で笑うの?
沙樹の心はちぢに乱れていた。
嫉妬などと言う感情を超えた、究極の哀しさと疎外感が沙樹を襲っていた。
嫉妬心がないわけではない。しかしその対象は、たったいま肩を並べて走る、親友である愛莉に向けられていた。
貴夜は自身の信念を曲げ、遂に暴力と言う力を発揮した。しかしそれは、彼自身の身を守る為ではない。
その理由が、もっとも親しい、そして沙樹自身も無二の存在だと考えている少女、愛らしく儚げな親友である少女にあるのが、沙樹の心に澱のようなものを沈ませていく。
──悔しいのではない。
──怒りなどもない。
──ただ寂しいのだ。
こんなことに自分の女を感じた沙樹は、それに驚くと共に羞恥を覚えた。
そしてもう一度、こんな状況の変化を生みだした、信じられないほど可憐で美しい金髪の少女に、理不尽な感情を持つことが抑えられなかった