変容する日常 2
まったく呆れたものだ。
苦い笑みを唇に、ヴィトーリオは目の前に映るその場景を見つめ続けていた。
もし他の同僚が見ていたのなら、あれが『闇の主』にして『七主』の一人、『黄昏に抗う者』リーゼロッテだとは俄かには信じられないだろう。
ヴィトーリオとて、現実に『主』をこの目で見るのは初めてのことだった。
『旧きもの(エルダー)』とは何度か対峙し、それに打ち勝ってきた。そしてこの地での任務に就いてからもすでに二体の『従者』を屠っている。
──だが『主』となると話は別だ。
『教会』からは『主』に対する敵対行動を慎むように言い渡されている。もちろん、彼ら『闇の主』が異端とされていないわけではない。むしろその逆だろう。なんと言っても、彼らは『闇の種族』に君臨する『君主』なのだから……。
ただ『主』と認定されている敵性生物があまりにも強大なため、単独での戦闘行為を禁止しているだけなのだ。
しかし……。
実際にはよほどの実害がない限り、『教会』が『主』との戦闘を許可することはないだろう。
事実、『教会』の歴史の中で、『主』との戦闘に至った事例はわずか三度だけだった。そして勝利に至ったのはただの一度だけ……。
その戦闘では、百人もの戦闘要員と二十名の魔術師が動員され、完璧な布陣と入念な計画の元に行なわれたものだった。
当初は被害を二割以下に抑えるべく、その計画は立てられた。しかし実行に移ったその後、計画の甘さが徐々に露呈したのだ。
次々に倒れる神の戦士達。血の汚泥に塗れた彼らの遺体は、見るも無残なものだったと伝えられる。
結局はその『主』を屠るのには成功した。しかし物的及び人的損害は甚大で、その損耗率は八十パーセントをわずかに超えるものになってしまったのだ。
そんな事例があって、まともに『主』と戦端を開くことは禁忌とされている。
触らぬ神に祟りなし──そんな諺がこの国にあるのだが、まさか『教会』がこのような指針を立てているとは、末端の戦士であるヴィトーリオにはまったく理解できない。
『闇の種族』と戦うのに、被害や損耗を計算する必要などないのだ。
異端を打ち払うと言う確固たる意思。死をも恐れぬ神の戦士としての覚悟があれば、たとえそれが強大な『闇の主』であろうと、栄光ある神の御名において戦えるのだ。そうでなければならないとヴィトーリオは考えている。
だからなのだろう。
ヴィトーリオは与えられた任務以外の、そして接触することさえ禁忌とされる相手を、いまだにしつこく監視していた。
本来の目標である『オーガ』を見つけ出してもいないと言うのに……。
二人の『闇の主』の生温い光景に、ヴィトーリオは監視の意味を失い、そろそろ任務の完了を急ごうと決心した。
あのように油断した状態ならば、いつでも『七主』の一柱を封じられるだろう。それはあまりにも容易いように感じていた。
魔術の『眼』を閉じようとした瞬間、ヴィトーリオはそれを思い止まった。
リーゼロッテとあの少年が、二人だけの世界を創っていたその場に、いきなりのように複数の男が現われたのだ。
しかも明らかに敵意と怒りの念を振り撒きながら……。
あの穏やかで温い、『闇の主』の姿とは到底思えないその状況が、新たな人間の登場によって変化するかも知れない。
そう考えたヴィトーリオは、神に仕える聖戦士でありながらも、その整った顔に卑俗的な笑みを浮かべた。
「こんな所まで女を連れ込んでんのかよ」
からかうような、それでいて怒りを底に含んだ声が投げかけられた。
貴夜は身を硬くして声のした方に視線を向ける。
声を聞いた瞬間、それが中根であるとはわかっていた。
一方的に貴夜を目の仇にする中根とその一味は、下卑た笑みを浮かべながら近づいてくる。
どこの学校にもこのような生徒はいるのだろうが、一応進学校であるこの学校でも、いわゆる不良と呼ばれる人種は存在する。特に中根は一際目立つ存在だった。
中根は如何にもチンピラと言った格好をしている。つんつんに逆立てた金髪に耳のピアス。刈り込んだ顎鬚と生来の三白眼。どう見ても人の良い人物のそれではない。
いままでにも色々と問題のある行動を起こしているのは、誰もが承知の事実である。
しかも悪いことに、中根は地元の有力者の家系に生まれた男で、教師さえも彼に表立って注意することができない。
どちらかと言えば、貴夜は男子生徒に好かれるタイプではない。それは貴夜にもわかっていた。しかし中根は貴夜の想像を超えた、異常なほど敵意を持って貴夜に絡んでくる人間だった。
たとえ避けようとしても、悪意を持って貴夜に近づいてくる。そんな厄災のような男である。
貴夜は立ち上がると、胡乱そうな眼で中根を見ているリーゼロッテの右手を掴み、「もう行こう」と囁いた。
「なんだよ、俺達が来た途端に逃げるのかよ?」
おどけたような声で、しかしその眼は粘着質な輝きを湛えながら、中根は笑う。
「まぁ、いいさ。とっとと行っちまえよ。でもその女は置いていけ」
下卑た笑いが巻き起こった。そしていきなり、中根の腕がリーゼロッテの肩に伸びる。
「なぁ、あんただってこんな臆病者なんかより、俺といた方がいいだろ?」
リーゼロッテの細い肩に、中根の無骨な指が食い込んでいた。だがリーゼロッテは苦痛に顔を歪めることもなく、怒りや嫌悪の表情を浮かべることもなく、ただ感情が喪失したような白い顔で、貴夜をじっと見つめている。
それは明らかに、貴夜に助けを求めるような類の視線ではない。
貴夜はリーゼロッテが『魔眼』を使い、中根達を追い払うだろうと思っていた。沙樹や顕人を立ち去らせたように……。
だがリーゼロッテは、ただ貴夜を見つめるだけで、その青と紫の瞳には力を放つ輝きは顕われない。
「おら! さっさと行けよ! それともまたボコボコにされたいのかぁ? 本当におまえはマゾみたいな奴だよなぁ」
中根の言葉に、周囲の取り巻き連中が大声で笑った。
リーゼロッテは硬い表情のまま中根を一瞥しただけで、肩に置かれたその手を振り払うことさえしない。
「な、なにしてるんだよ? なんで魔法を──魔眼を使わないんだ?」
貴夜はじれったくなり、リーゼロッテに向かって叫んだ。
「だめよ。わたしはそんなことじゃ気分が晴れないの。このわたしに汚い手を触れた人間に、恐怖と絶望を味合わせてやらなければね」
リーゼロッテの応えは妙に平板で、それが冷酷さを醸し出している。
貴夜は絶句してしまった。
「いいわよ。タカヤはさっさと逃げなさいよ。どうせわたしのために戦う気はないんでしょう? だったらさっさとあの子達の所へ逃げなさいよ」
リーゼロッテの醒めた声に、貴夜はさらに言葉を失った。
「いいのよ、早く行きなさいよ。わたしを誰だと思っているの? この男達には下賎な手で触られた贖いをして貰うのだから、気にしないで行っていいわよ。そしてこんな男のこと忘れてしまえばいいわ。あなたが煩うような人間ではないでしょ?」
リーゼロッテの瞳に、妖しい輝きが生まれている。それを見て、貴夜はひどく落ち着かない気分にさせられる。
「なにをわけのわからんこと言ってんだよ!」
自分を無視されたと思い、中根は顔をどす黒くして怒りの声を張り上げた。そして力任せにリーゼロッテを引き寄せる。
「どうするんだよ? いい加減に消えちまえよ」
「ぼ、ぼくがいなくなれば、リーゼロッテをどうする気だ?」
「あん? てめぇには関係ネェだろ? おまえの代わりにこの女で愉しませてもらうだけだ」
中根は歯を剥き出しにし、威嚇するようせせら笑った。
「まずはこいつを手始めに、おまえにつき合う奴はみんなメチャクチャにしてやるよ。どうもてめぇは、自分がどんなに痛めつけられても気にならないマゾ野郎のようだから、おまえが大事にしている奴らを代わりに痛めつけてやる。
神代はもちろん、飯塚だってな。俺をトコトンバカにした奴らは、みんな痛い目に遭わせてやるよ」
「顕人や沙樹を……? なぜだ? あの二人にはなにも関係ないだろ!」
貴夜の目に、暗い怒りが宿る。
「おまえが気に食わねぇからに決まってんだろ。まぁ、東條だけは別だ。あいつは俺の女だからな」
品性の欠片も見当らない、邪悪で淫らな笑みを湛え、中根は薄い唇を歪めた。
「東條……? どう言う意味だ?」
「あいつはいい女だからな。てめぇに誑かされているだけだろうから、俺が調教してやれば、素直に俺のものになるだろうさ」
胸がムカムカする。貴夜は不快感のあまり吐き気さえも覚えていた。
「下らない! 東條がおまえなんかに従うわけないだろ!」
そう叫ぶ貴夜を尻目に、中根はニヤニヤと笑うだけだった。
「まぁそう思っているがいいさ。今夜にでも、東條を俺のものにしてやるよ」
中根がふざけた口調でそう言うと、取り巻き連中にも下卑た笑みが広がって行く。
「品性の欠片もない男ね。暴力や下劣な力で人を従わせようとするなんて」
いままで沈黙を守っていたリーゼロッテが、中根を冷え切った目で見つめた。
「それは──どう言う意味なんだ?」
リーゼロッテの言葉の意味に、気づいていながらも貴夜は訊ねる。
「そんなのわかってるでしょ? この男のような輩は、自分の欲望を薄汚い暴力で満たそうとするわ。昔からそれは変わっていないの」
リーゼロッテは苛立ちを隠そうともせずに言い切った。その言葉の意味を考えると、貴夜は激しい怒りに駆られた。
「なんだと! 正気なのか?」
胸のムカツキが耐えられないほどになった貴夜は、中根に噛み付くように叫んだ。
だが中根は、そんな貴夜を平然とした顔で見つめ、
「はん? だからなんだよ? 口先だけの臆病者が、俺になにができるって言うんだ? 怒ったのか? 怒ったんならどうするって言うんだ?」
と、嘲笑った。周りの連中もまた、ばか笑いをして貴夜に汚い言葉を投げつける。
貴夜は怒りに震えていた。すでにリーゼロッテの動向など頭から消えていた。中根に捕まっている少女のことなど、怒りのあまり忘れてしまっていたのだ。
頭の中が怒りで一杯になっていた。
憎悪と憤怒の捌け口を求め、異常なほどの暴力衝動が湧き上がっていた。
──だがそれは、貴夜にはあり得ないことだった。
「心配するなよ。飽きたらおまえに返してやるからよ!」
最後に投げつけられたその言葉に、貴夜の理性は砕け散った。
抑え難い不快感を振り払うが如く、貴夜は跳躍した。口からは絶叫と言うより雄叫び、怒りの叫び言うよりは鬨の声を張り上げて、卑しい笑みを凍りつかせた中根に飛びかかった。頭の中の冷静な部分は、なにかが貴夜に働きかけてきたのを感じつつも……。
中根を押し倒すとその胸に馬乗りになり、貴夜は握り締めた拳を振り下ろした。
肉が拉げる感覚が拳に伝わる。
骨が砕ける音と、悲鳴のような絶叫、驚きの叫びが耳に入る。
愉しい……。なんて愉しいのだろう……。
なにかから開放された清々しい気分のまま、貴夜は拳を振り上げ、降ろし続けた。
中根の取り巻きが呆然とそれを見ている中、リーゼロッテだけは愉しそうな微笑みを浮かべていた。その微笑みは、見る者に戦慄をもたらすような愉悦に歪み、それでいて自嘲するような苦い笑みでもあった。