変容する日常
四時限目の終了を告げるチャイムが鳴り終えると、すぐに生徒達はがやがやと騒がしく、慌しくなった。
教室を出て行く者、中の良いグループで固まるために机を移動し始める者、昼休みの教室は活気に満ちている。
「どうする? もちろん貴夜は今日もお弁当なんでしょ? 今日は天気もいいし屋上にでも行く?」
あたりまえのように沙樹が声を掛けてきたが、貴夜は自分のスポーツバッグを漁った後、「忘れたみたいだ」と、呟いた。
昨夜はほとんど眠れなかった所為で、いつもより寝坊してしまった。だから慌しく家を出る際、弁当を鞄に入れるのを忘れてしまったのだろう。
(ああ、また初ネェに怒られるなぁ……)
弁当がなくても購買に行けばパンぐらいある。とは言え、やはり姉の手作り弁当が味わえないのは残念だった。
「え~? なによ、初音さんのお弁当、今日はないって言うの?」
沙樹は露骨にがっかりしたような声と表情で、不満を貴夜にぶつけた。
初音はいつも、貴夜の友人達の分をまかなえるほどの料理を、ぎっちり詰め込んだランチボックスを用意していたのだ。一年前にその味を褒められ、気を良くした初音は毎日朝早く起き、貴夜のランチを腕によりを掛けて作り上げる。
だから沙樹達もそれを、毎日心待ちにしているのだ。
「仕方ないだろ。誰だってうっかりすることはあるんだよ」
顕人は不満げな沙樹に対して諭すようにそう言った。
「そうよ。今日はわたし達が桐生君にご馳走しないと」
愛莉が取り成すように沙樹に微笑んだ。
「仕方ないなぁ。あ~あ、今日は初音さんの料理を食べられないのかぁ。すっごく残念だわ。学校に来る最大の楽しみなのになぁ」
天を仰いで大袈裟に嘆息した沙樹は、ふと窓の外に目を向けると、その目を疑うように眉を顰めてじっとなにかを凝視した。
「なにしてんだ?」
顕人がそんな沙樹に様子に、訝しげに声を掛けた。
「この学校に留学生が来るなんて──聞いてないわよね?」
「はぁ? 留学生だぁ?」
呆れたような声で顕人がそう言うと、沙樹がむっとした声で、
「だっていま、金髪の女の子が校舎に入ったのを見たんだもの」と、言い返す。
(金髪の女の子……?)
貴夜はなんとなく厭な予感がした。そしてそれは、得てして良く当たるのだった。
「──と、とにかく早く屋上に行こうよ」
貴夜はそう言って教室を出ようとした。
「おい、待てよ。なにをそんなに急いでるんだ?」
「いいから早く行こうよ!」
そう言い捨てて廊下に出た瞬間、貴夜は異様な光景を目撃することになった。
廊下にいた生徒達は、全員が揃って立止まり、一方をじっと凝視していた。
沈黙が舞い降り、廊下の中央にいた人間は慌てて壁際に後退する。
生徒の海が分かれ、その中央を軽やかに進んできた美しい金髪の少女を確認して、貴夜は思わず呻いてしまう。
白いシンプルなワンピースに、鮮やかな金糸の豊かな髪。そこに飾られた水色のリボン。映画のワンシーンを切り取ったかのようなその姿は、日常とは切り離された鮮やかな場景であった。
「タカヤ!」
貴夜の姿を認識した金髪の少女──リーゼロッテは、嬉しそうに貴夜の名を呼ぶ
と、弾むような足取りで近づいて来た。その美しい顔に魅力的な笑顔を浮かべる。
「はい、忘れ物よ。どうやら時間には間に合ったみたいね」
と、大きなバッグを前に突き出した。
「なにしに来たんだよ? ──なんだい、それは?」
「あら、随分なもの言いね。せっかくこのわたしが忘れ物を届けに来て上げたのに」
受け取ったバッグは妙に重かった。
「忘れ物って──弁当のことじゃないのかい?」
「そうよ。それ以外のなんだと思うのよ」
「いや、それにしては大きいし、妙に重いんだけど……」
「わたしの分も入っているのよ。さぁ、早く行きましょう」
リーゼロッテはそう言うと貴夜の右手を掴み、屋上に向かう階段へと歩き出した。
「ちょ、ちょっと、どこに向かっているんだよ?」
貴夜は引き摺られながら、小柄な美少女へと囁く。いまさらではあるが、貴夜とリーゼロッテの二人は、周囲の人間に思い切り注目を浴びていたので、大きな声で問い掛けることができなかったのだ。
「あなたは屋上に向かおうとしていたのではなくて?」
「そ、そうだけど……? でもなんで君がそれを知っているんだ? それに屋上に向かうルートをどうして知っているんだよ」
「そんなのあたりまえじゃない」
リーゼロッテは悪戯っぽく微笑む。
「わたしが誰だかいい加減に理解しなさいよ」
いつもとは違い、どこか重苦しい食事だった。
沙樹や愛莉はもちろん、顕人でさえほとんど会話らしい会話もなく、黙々と料理を口に運ぶだけだった。
ただ訝しげな視線をリーゼロッテと貴夜の二人に向けながら……。
リーゼロッテについて根掘り葉掘り訊ねられることを覚悟していたが、なぜか誰もそれに触れようとはしなかった。ただ胡乱に、そして不安そうな目で、貴夜とリーゼロッテを交互に眺めているだけだった。
貴夜もリーゼロッテについては簡単に説明できないことから、特別に彼女のことを話はしなかった。ただ、姉の初音の関係で、しばらく貴夜の家に居候するとだけ伝えた。
リーゼロッテも特に会話には頓着しないようで、黙々と料理を頬張り続けている。小さく頷き、そして幸せそうな顔をして、姉の作った弁当を平らげていた。
自己紹介さえどうでもいいようで、沙樹や愛莉に対してはほとんど歯牙にかけぬと言った感じであった。
リーゼロッテのそれは、まさに唯我独尊を絵で描いたような態度であった。
なぜか顕人にだけは、リーゼロッテもなんらかの関心を示した。だがそれは友好的なものとは言えず、どこか警戒しているようなものであったが……。
そんな顕人はみんなからすこし離れて、サンドイッチを片手にリーゼロッテを見つめていた。なにかを見極めるように、そして警戒するような冷徹な目で……。
落ち着かない状況で喉が詰まるような食事を終えると、沙樹と愛莉は「先に教室に戻るね」と呟き、そそくさと立ち上がった。
「ああ、わかった──ごめんね」
そんな二人に、申し訳なさそうな声で貴夜は応える。
「あんたが誤ることなんてなにもないよ」
沙樹が肩を竦めて、なかば吐き捨てるようにそう言うと、そのまま背を向けて歩き出した。
愛莉は困った顔で引き攣った笑みを浮かべながら、小さく頭を下げると、沙樹の後を慌てて追って行った。
「なぁに、あの娘。なにを怒っているのかしら?」
リーゼロッテは、ポットのお茶を紙コップに注ぎながら呟いた。それでも特に関心を示してはいない。
「それじゃ、俺も行くわ」
顕人がそう言って手を振った。硬質な笑みを浮かべたまま、屋上の入り口に向かい、歩き出す。貴夜はその背中になにも声を掛けることができなかった。
そして陽光の差している屋上からは、貴夜とリーゼロッテの他には誰もいなくなった。
「あらあら。誰もいなくなってしまったわ」
「君がなにかしたんだろ?」
にっこりと笑ったリーゼロッテ瞳の奥に、どことなく人を落ち着かなくさせる淡い輝きが宿っているのに気づき、貴夜は不信そうな声で訊ねた。
「まぁ、ね。ちょっとだけ魔法を使ったのよ」
その魔法がどう言うものか聞きたくはない。だが……。
「なんでみんなを追い払うようなことをしたのさ?」
その理由だけは聞いておかなければならないと貴夜は思った。
「そうね。あなたが監視されていたからと言う理由じゃだめかしら?」
「監視? 誰がぼくを監視なんてする必要があるのさ?」
「さぁね。でも、あなたの親しい人間が危険に巻き込まれても嫌でしょ? なんて言っても、あなたは『オーガ』に狙われているのだから」
リーゼロッテの言葉に、忘れていた現実を思い出した貴夜は、陰鬱な顔で「ああ、そうか……」と呟きを漏らした。
「それじゃあ、わざとぼくの周りから人を遠ざけたんだね?」
貴夜がそう訊くと、リーゼロッテは曖昧な表情で「そ、そうよ」と答える。
なんとなくその態度に引っ掛かるものを覚えたが、貴夜は取りあえずそれで納得することにした。
「それにしても──便利な魔法なんだね。どうやってそんなことができるんだ?」
本当に便利な魔法だと思っていた。もしそんな魔法が自分にも使えるのなら、ぜひ教えを乞いたいとも思う。
そうすれば、煩わしい人間から逃れられるだろうから……。
「あら、興味があるの?」
リーゼロッテはなにか企んでいるような顔で笑う。そして貴夜の顔を覗き込むようにして、その綺麗な自分の顔を近づけて来た。
冬の海のように深い青の瞳と、夕暮れを間近にした空のような紫色の瞳。そのあまりの深さに、妖しい輝きに、貴夜は思わず魅入ってしまった。
まるで宝石や、夜空の星のように輝くその瞳は、貴夜が目にした中でもっとも美しく、そして魅力的な瞳であった。
そんな瞳で見つめられれば、誰もが彼女の虜になってしまうだろう。
「──やっぱりあなたにはあまり効果がないのね」
リーゼロッテは唇を突き出し、すこし膨れたような顔をした。
「はぁ? なんだい、効果ってのは?」
「あなたが訊いた魔法のことよ。もっとも魔法ではないんだけどね。でも、さすがは『主』の力を宿しているだけあるわね」
リーゼロッテどこか残念そうに、それでいて喜びの笑みを見せた。
「どう言う意味さ? ぼくに魔法を掛けたって言うのかい?」
「そうよ。そんなのわかっているでしょ。もう、本当にあなたは鈍いわね」
「鈍いってなんだよ。そんなのぼくにわかるわけないだろう? だいたい、『主』だとか言われても、ぼくにはそんな自覚なんてないんだ」
リーゼロッテの人をバカにしたような態度に、貴夜はすこしムッとした。
「だって本当に鈍いじゃない。わたしが最大限の『魅了』を、『魔眼』の力を思い切り使ったのに、タカヤはわたしに見惚れないし、ぜんぜん優しくないもの」
リーゼロッテは膨れてぷいと横を向いた。
「──『魔眼』? それに『魅了』だって?」
胡乱な目で見つめる貴夜に、
「そうよ。わたし達『闇の種族』の能力に、『魔眼』の力はつき物なのよ。いくらあなたが同胞とは言え、わたしの『魅了』にちっとも気づかないんですもの。わたしのプライドはズタズタよ!」
と、拗ねたような怒りをリーゼロッテはぶつけてきた。
貴夜はそんなリーゼロッテの顔をまじまじと見つめ、「なんでそんなことを……」と呆然と呟いた。
「だって、あなたが知りたいって言ったんじゃないの!」
そう答えるリーゼロッテは、小憎らしくも愛らしい少女だった。すくなくとも貴夜には、『闇の主』などと言う剣呑な存在には思えなかった。
だがそんな気持ちこそが、貴夜から現実に存在する暗黒の危機を、認識させる機会を失わせていたのだった。
「まったく……。いったい何者なのよ、あの女は!」
苛立ちも顕わにした沙樹は、周囲の人間の目を気にすることなく荒らしく罵った。激しく首を振ったので、ポニーテールの赤い髪が愛莉の頬に当たった。
「落ち着いてよ沙樹ちゃん。桐生君にだって事情があるのでしょう?」
愛莉は宥めるようにして沙樹の肩に手を掛ける。だがその唇は、色が白くなるほどに噛み締められていた。
(あの子はなんなの? どうしてわたし達の間に割り込んで来たの?)
愛莉自身がそう叫びたかった。
もしあの娘があれほどまでに可憐で、美しい少女でなければ、ここまで沙樹も苛立つこともなく、そして愛莉も苦しさを覚えはしなかっただろう。
「あいつの顔を見た? まるで、あたしらなんかそこに居ないと言うように、完全に無視していたじゃないか。わざとらしく貴夜にべったりして、しかもあたしのことを睨んでいたわ!」
憤懣やるかたないと言った態度で、沙樹は罵り続けている。
愛莉にも沙樹の気持ちは理解できていた。
でも、愛莉にとっては沙樹さえも贅沢なことを言っているのだと思う。
──沙樹だっていつも貴夜と仲良く過ごしているではないか。
──他の誰より──神代顕人を除き──貴夜の傍に居場所があるではないか。
──わたしよりも多く……。
「貴夜も貴夜よね! いくら美人の前だからって、あんなに鼻の下を伸ばしてさ!」
沙樹の怒声は反対に愛莉を醒めさせていく。
(わかっているくせに……。沙樹だって本当はわかっているくせに。貴夜君が美人だからって、簡単に心を許すような人じゃないってことを……)
そう言い返したかった。だが──。
沙樹は愛莉の親友だった。互いに貴夜に惹かれているオンナであったが、だからこそ二人の絆は深い。
もっとも、沙樹と愛莉の愛情の方向は、微妙に違っているのだが……。
愛莉は自分が選ばれた人間だと認識していた。
貴夜の傍に居ることを許された、限られたメンバーの一人であると。
貴夜は一見すると平等な人間だ。だがそれは、誰にも興味を示さず、親愛の情を持たないと言う意味でもあった。
だが、沙樹と顕人だけは別だった。そしていまは愛莉もその仲間入りをしている。
全校の生徒の中で、この三人だけが特別なのだ。
貴夜の人としての心は、あまりにも情が深いためか、あまり多くの人間を愛せない。愛莉は貴夜との親交が深くなった頃、そんな貴夜の愛情の形を知った。
気にしている人間とそうではない人間。
貴夜にはそう言う区別しかない。すくなくとも愛莉にはそうとしか思えなかった。
貴夜はまるで少女のように綺麗な男の子で、成績も良く、そして一般的に優しいと思われている。いや、紳士的で穏やかな振る舞いによりそう見えているだけなのだが、貴夜を良く知らなければ気づかないであろう。
実際には、貴夜は誰にも優しいタイプの人間ではない。
──だから愛莉は貴夜に好意を持っていた。
普通はそう考えられないだろう。だが愛莉は、誰にも優しい人間など信じられない。それに、なんの見返りもなく人に優しくする人間の存在を信じない。どこか捻くれた考えであるが、そう言った質の少女だった。
貴夜や顕人が異性に人気があると同じく、愛莉もまた男子生徒からアイドル視されている少女であった。つまり貴夜と似た境遇だったのだ。
誰にでも愛想をよく接し、けっして自分の感情を顕わにしない。でも心の中には闇のようなものが巣食っている。
そんな愛莉は、貴夜に同朋意識を持っていた。それが最初……。
でもいまは、そんな陰湿な仲間意識よりも、深く貴夜と関わっていたいと言う感情の方が大きくなっていた。
「──まさかあの女、貴夜に気があるんじゃないのかしら?」
愛莉が自分の思いに沈んでいると、沙樹がいきなりそう言い出した。
「別に──珍しいことじゃないわ」
ぞんざいにそう応える愛莉に、沙樹は思わず訝しげな視線を向ける。
「だ、だってそうじゃない? 貴夜君は女の子には好かれ易いでしょう?」
「──まぁ、そうだけどね……」
沙樹は苦々しく呟く。だがまだ納得はしていないようだった。
「でも、あんな綺麗な娘が本当にいるのね……」
愛莉がぼんやりと呟くと、沙樹はさらに眉を顰めて溜め息を吐いた。
「別に綺麗だからって言うのはどうでもいいんだけどね……。なんかあの目がどうにも嫌なんだ」
「──そうね。わたしもそれは感じたわ。人を小ばかにした──ううん、完全に見下したような目だったもの……」
愛莉は胸に込み上げる悪意を飲み下し、平板な声を装う。
「こうなったら、貴夜を取っちめてやらなきゃ気が済まないわ! あの女がなんなのか、はっきりして貰おうじゃないの」
沙樹はやや興奮気味にそう言うと、また屋上に向かおうと歩き出そうとした。愛莉もその後を追おうと踵を返す。
──その時だった。いままでどこかに姿を消していた顕人が、険しい表情で駆け寄ってきた。
「中根達が屋上に向かったらしい」
憮然とした声でそう呟くと、顕人は階段を駆け上がっていった。