この手は何もつかめない
よくある話です。
その瞬間の男の表情を見たとき、僕は昔観た映画か何かの一場面を思い出した。
舞台は雪が吹きすさぶ厳寒の高山。
主人公は仲間たちと共に頂上を目指す。
吹雪で視界がきかなくなってきた中、仲間の男が疲労によるちょっとした不注意で足を踏み外す。
グラリと傾く体。主人公は慌てて手を伸ばすが、届かない。
"そこに在ると思っていたものが無かったとき"、もしかしたら人は皆、似たような顔をするのかもしれない。
僕はそんなことを想像した。
男は「あれ?」と言いたげな、今自分に何が起きているのか把握しきれていない表情で固まったまま、闇に黒く塗りつぶされた谷底へと落ちていく。そして……。
『次は~葛西~。葛西~』
間延びしたアナウンスの声で我に返った。
ここはホワイトアウト真っ只中の山中ではなく東京メトロ地下鉄東西線の車内で、
目指す先は頂上ではなくJR総武線に乗り換えができる西船橋駅。
男は谷底に消えた登山仲間ではなく立って本を読みながら吊革を掴もうとして掴み損ねた見知らぬサラリーマンであり、
僕は山男な主人公ではなくサラリーマン氏と向き合う形で座席に座って本を読む自称読書家だった。
ちょっと恥ずかしげな様子で周りをキョロキョロ見回してから改めて吊革を掴むサラリーマン氏。
大丈夫。
それはよくあること。
貴方は決して一人じゃない。
そんな電波をエアテレパシーで送りつつ、何も見なかった振りをして僕は手元にある文庫本のページをめくった。
(終)
……よ、よくある話だと、言って下さい!うう、あれは恥ずかしい。
ここまでお読みいただき、有難うございました!