赤い傘をさす女
頬にぽつりと雨粒が当たった。
見上げると空一面は黒い雨雲に覆われていた。
あれほど暑かった夏は、残暑と言う言葉を忘れ、あっさり秋にバトンタッチをしたのか、肌寒さすら感じた。
斎藤静馬は持っていた傘を開く。
バサリと音を立てながら黒い布地が広がった。
「うん?」
静馬は妙な違和感に思わず唸った。
視界のずっと先、ワンブロックほども離れた一点に視線が囚われる。
それは赤い傘を差した女の様に見えた。
傘をさす前にはいなかったように思える。
傘が開く一瞬、視界が遮られたその瞬間にこつ然と湧き出たように思えた。
それが妙に心に引っかかった。
勿論、そんな馬鹿なことがあるわけではなく、おそらくはどこか見えない横道から出てきたのが、偶然そう見えただけだろう。とは思った。
だから、静馬は次の瞬間にはその女を意識から消し去り歩き始めた。
それからも雨は止むことなく降り続けた。
そして、三日目。
朝、アパートのドアを開け、エントランスへ向かう。外はしとしと雨が降っていた。
静馬は憂鬱そうにため息をつくと手に持った傘を見る。
毎日同じように繰り返される日常。ふと思い出される記憶。軽い既視感。
バサリ
と、視界の片隅に赤いものが映った。
エントランスから直線で二つほど通りを超えて、すこし左手のコンビニ。
その横に真っ赤なものが佇んでいた。
傘だ。
傘を持った人が立っていた。
女だ。
そんな直感が頭をよぎる。
なんでそう思ったのか自分でも不思議だった。
錆びた記憶が蘇る。
三日前の赤い傘をさした女の記憶。
「……、まさかね」
赤い傘なんてのはいくらでもある。
静馬は首を振ると、歩き始めた。
満員電車は駅に着くとはち切れんばかりの乗客を吐き出す。
静馬は流れに身を任せ駅に降り立った。
ぞろぞろと歩く人の列に沿って無感動に歩く。右に曲がって階段を下りて、すぐ上って北口に出る。
この先、歩いて数分のところにオフィスがある。
雨は、止むことなく降り続いていた。
傘を開く。
「なんだ……?」
思わず声が出た。
赤い傘をさした女がいた。
距離はまだ大分離れている。左の角の交差点。
赤い傘をさした、白いワンピース。顔は傘で隠れて見えないが服装は女のものだった。
傘をさす前には確かにいなかった。
妙に目に突き刺さるあんな赤い傘を見落とすなんて考えられない。それが傘を開こうと視線を外したほんの刹那の間に湧いて出た。
まさに湧いて出てきた、という形容するしかなかった。
静馬は、初めてゾッとした。
なんなんだ、あれ。ストーカーか?
3日前、そして、今朝、そして今。
だんだんと近くなっている気がするのも気持ち悪かった。
静馬は少し女を凝視した。
女は佇んだまま、動こうとはいなかった。
問いただしてやろうかとも思ったが、逆に相手から反論される可能性もあった。
「あなたなんて知らない、変な言いがかりをつけるな」と言われてしまえば、それまでだ。
そうなれば逆にこっちがヤバい人扱いされることになる。
そんなリスクを負う必要があるのか?
そもそも、実害がない。
ただ、気持ちが悪いだけだ。
今は無視するしかない、と静馬は考えると女を無視して仕事へ向かった。
仕事をしながら静馬は時折赤い傘の女がいないかと、窓から外を眺めた。
幸いなことに赤い傘を見ることはなかった。その内、静馬は傘の事を忘れていた。
そして夕方。
仕事を終え、家へ帰る途中のことだ。信号を待っていると頬に冷たいものが当たった。
雨が再び降り出したのだ。
バサリ
バサリ
周囲で傘をさす人たちがちらほら見えた。
自分もさそうかと思った静馬はギョッとなった。
いつの間にか横断歩道の向かい側に赤い傘をさした女の姿があった。
赤い傘に顔の上半分は隠れて見えなかったが、膝下までの白いワンピースに黒いハイヒール。
左手はだらりと垂れ下がっていた。
髪は黒く長い。左手首のところまでの長さがあった。
顔の上半分は傘に隠れて見えなかったが、口や顎は見えた。
口元は笑っているように見えた。
信号が青に変わり、人々が動き出す。
静馬の横を何人もの人たちが追い越していく。
静馬は動かなかった。
女も動かない。
身をひるがえすと静馬は別の道を歩き始めた。
一駅歩いてでも、あんな女に近付くのはごめんだった。
歩きながら、横目で女を見た。
幸い、女は追いかけてくるようなことはなかった。
次の日は、久しぶりの晴れだった。
通勤途中、静馬の意識は無意識にも赤い物に気を取られた。
看板の赤い色。視界を遮る赤い車など。
視界に赤い物が入る度にどきりとさせられたが、みんな杞憂だった。
一週間ほど、秋晴れと共に、静馬の生活は穏やかな日が続いた。
そうなると現金なもので、意識はじょじょに赤い傘の女の存在を忘れて行った。
『南シナ海で発生した台風は現在、ゆっくりと北上を続けています。
それにより停滞している秋雨前線が再び活発になり、今日の朝から局地的に激しい雨が降る危険があります。
みなさん、常に最新の天気予報に注意を払い、命を守る行動を心がけてください。
続いて、今週の週間予報です。
全国的に晴れの地域はなく、今週、来週にかけて天気は愚図づく、または激しい雨に見舞われると予想されます……』
朝のニュースを切ると、静馬は玄関の傘立てから傘を取ると外へ出た。
バサリ。傘が開く。
「うっ?!」
一歩踏み出そうとした静馬の足が止まる。
コンビニからさらにもう二つほど道を隔てたところにポツンと赤い物が見えた。
遠くて、良くは見えない。
だが、例の女の不気味な記憶がいきなり蘇ってきた。
「いや、しかし、あれだけ遠いとよく分からない……
それに別にあのぐらいの位置なら問題はないだろう」
静馬は自分に言い聞かせるように呟くと、歩き出す。
女のことはあまり考えないように、そっちの方を見ないようにした。
次の日も雨だった。
静馬は、分厚い雲から際限なく落ちてくる雨を恨めしそうに見つめた後、慎重に周囲を確認する。
薄暗かったが、いつもの朝の風景だ。赤い傘は見当たらない。
内心、胸を撫でおろすと、静馬は傘を開く。
と、びくりと体が震えた。
コンビニの横に赤い傘をさす女が立っていた。
さっきはいなかったはずだ。それが、一瞬で湧いて現れた。
気味が悪かった。
しかも、昨日より近い。
「まさか……、雨が降る度に近付いてくるのか?」
静馬は、くるりと踵を返すと自分の部屋に戻った。
鍵をかけ、チェーンもしっかりとかけ。会社へ電話する。
「すみません、すこし事情がありまして、しばらく在宅勤務にさせてもらえませんか?」
当面、自宅で籠城するつもりだった。
電話を切ると静馬はそっと窓から外を見た。
コンビニにはまだ赤い傘がポツンと佇んでいた。カーテンを引き、身を隠した。
「大丈夫。単なる偶然だ」
静馬は、そう呟くともう二度と外を見る気にはなれなかった。
次の日は晴れだった。
見たくはなかったがどうしても我慢できずに静馬は窓から女を探した。
しかし、いくら探しても赤い傘は見当たらなかった。
ホッとする。
きっと気の所為だったのだと、自分に言い聞かせた。
午後から再び雨が降り出した。
外を見るのをずっと我慢していたけれど、つい我慢できずに窓から外を見た。
近くの定食屋で頼んだ昼食を片手にカーテン越しにそっと見る。
周囲を見るが赤いものはない。
2度、見回す。
いない。
安堵のため息をつく。
と、さっき頼んだ出前の人が帰っていく姿が見えた。
空を見て、ゆっくりと傘をさし、歩いて行く。
その去っていく人の背後から赤い傘をさして女が姿を現した。
すぐそこの道。手を伸ばせば届くかと思うほど近くに突然現れた。
衝撃に、静馬は手に持ったプラスチック製の丼を取り落とした。中身が床にこぼれる。
あり得ない!
静馬は反射的にカーテンの裏に身を隠し、思った。
人はいなかったのだ。
出前の人が傘をさす前までは、道ばたに誰もいなかった。それは確かだ。
それなのに傘をさして歩き出した、その一瞬に姿を現すなんてことができるのか?
幽霊?
あるいはそういう類のもの?
頭にそんな考えが浮かんだ。
いや、そんな馬鹿なこと、あるはずがない。そう考えると、もう一度、外をのぞく。
女はやはりそこにいた。
静馬は慌てて窓の鍵を確認する。
玄関に走り、やはり鍵を確認する。しっかりチェーンがかけられていることも。
それがどれだけ役に立つのかわからなかったが。
リビングに戻り、混乱する頭を整理する。
あの女……女と言っていいのかもよくわからないが、とりあえずあの女はなんなのかを考える。
雨が降ると現れる。
しかも、だんだん近くなっている。
……他には?
傘だ!
傘を開くと現れた。
静馬は必死に今までの記憶を手繰る。
自分が開くと現れるわけではないようだ。
さっきもそうだし、確か横断歩道の時も自分が傘を開く前に現れた気がする。
すると、近くで誰かが開くだけで現れるのか?
本当のところは分からない。
不可解で理不尽な話。
それを言ったら、あの女の存在自体が理不尽だ。
いや、そんなことはどうでもいい、と静馬は思考を切り替える。
問題なのは、これからどうすれば良いかだ。
お祓い?
雨の降る中、お寺だか神社へ行く?
その間にどれだけ傘をさす人に出会うことになる?
行くにしても今じゃない。
今、誰かが傘を開けば女はどれだけ近くに現れる?
後、何回余裕があるのだろう?
二回か、三回か……。
そう思いたい。
静馬はテレビをつけた。
チャンネルを変え、天気予報を探す。
今日、明日の天気が知りたい。
確か今週はずっと雨だと言っていた気がするが、どこか晴れの日があるんじゃないか?
その日に、お祓いをしてくれそうなところに行く。
とりあえず、そう考えた。
『各地で大雨が続いているようです……』
キャスターが真剣な表情で話していた。
チャンネルをそこで止める。
食い入るようにテレビの画面を見つめた。
『少し外の様子を見てみましょうか。
現場に、林キャスターが出ています。
林さん、林さん、そちらの様子はいかがですか?』
画面が切り換わり、傘をさした女が映し出された。
静馬は一瞬心臓が止まるかと思った。
しかし、女の傘は透明で、赤い傘の女ではなかった。
「ふう……」
静馬は大きく息を吐いた。
『先ほどまで少し小ぶりになりました。止むのかなと思いましたが、また、急に雨足が激しくなってまいりました。
足早にお店に飛び込む人や慌てて傘を開く人が見受けられます』
カメラが動き、駅前の慌ただしい風景が映し出された。
走っている人。
駅の出入り口で戸惑いながら空を見る人。
そして、傘を開く人たち……
「うん……」
画面の片隅に赤いものが映っていた。
駅の入り口の階段のところ。
傘をさした女がゆっくりと階段を下りてくる。
おかしな話だ。そこはまだ駅の中で傘をさして歩くには早すぎる。
女はすでに階段を下りきり、外の道に立っていた。
そしてどんどんとカメラに近づいてくる。
『こちらの方には川があります』
キャスターの声にカメラが大きく右にパンした。
カメラが川を映す。
『ごらんください。いつもなら橋げたの半分ぐらいのところにある水面が、今はもう橋の下すぐのところまで迫っています』
「うわ!」
思わず声がでた。
カメラが戻り、キャスターの姿をとらえなおした瞬間のことだ。
キャスターのすぐ真後ろに傘をさした女が立っていた。
女はそのままキャスターの体にめり込む。
『まだ、このあたりに避難警報はでていませんが、いつでも……』
傘を差した女がキャスターの体から浮き上がるように抜け出てくる。
しかし、キャスターはまったく気にしていないように喋り続けている。
カメラも全くぶれることがなかった。
キャスターには、そしてカメラマンにも女の姿が見えていないのか。
女はすでに画面いっぱいに映っていた。そして、さらにじりじりと近づいてくる。
「あっ!」
思い出したように静馬はリモコンに飛びつくとテレビの電源を切った。
画面が真っ暗になった。
間一髪。
リモコンを持ったまま、静馬は荒い息で呼吸する。
何の音もしない。ただ雨音が微かに聞こえてくるだけだった。
ゆっくりと静馬は部屋を見回す。
台所、寝室、トイレ、お風呂場。リビングから見る限りは自分一人。異変はなかった。
ふと、窓際の床にこぼれた丼物に気がついた。
さっき取り落としたまま、ずっと放置していたのを思い出した。
静馬は舌打ちをすると、雑巾をとって床の掃除を始めた。
ぴちゃん。
水音がした。
すぐ近く。
ぴちゃん。
また音がした。本当に近くだ。
ふと静馬は自分の足元の床が濡れていることに気がついた。
水滴が小さな筋になっていた。筋は自分の背後に続いていた。
心臓の鼓動が自然と早くなる。
ゆっくりと顔をあげる。
窓ガラスにうっすらと姿が映っている。自分と……もう一つ。全身は白く、そして赤い傘を持った……
ぴちょん。
水音がした。
大高勲はあくびをかみ殺しながら外へ出た。
そのまま階段を駆け下りる。
一階につくと、周囲の物々しさに歩みを止めた。
パトカーや救急車が止まっていた。赤いライトが音もなくくるくると回っていた。
警察官やら救急隊員やらが何人も立ち働いているのが見て取れた。
アパートの一室に出入りしているように見えた。
野次馬根性と通勤時間の板挟みになりながら、勲はゆっくりとその横を通り過ぎる。
と、顔見知りのおばちゃんを見つけた。
「なにかあったんですか?」
「さあ、よく分からないけど、さっきから警察の人とか救急車の人が出入りしてるの、」
「へぇ、事故? あそこって確か男の人の一人暮らしですよね」
「そうね、あなたと同じぐらいの若い男の人よ」
「殺されてたりして……」
勲は冗談で場を和ませようとしたがうまくいかず、引きつったような変な笑顔になった。
「さあ、良くわからないわ。病気か何かじゃないかしら」
「へぇー、そうですか……」
勲はそれだけいうと、足早で歩き始める。
と、頬にぽつりと雨粒が当たった。
見上げると黒い雨雲から雨粒がぽつぽつと落ちてくる。
勲はもっていた傘を開く。
「うん……?」
怪訝そうな声を漏らす。視界の片隅に何か赤い物が見えた。
ずっと先の方にポツンと小さなシミのような、それでいてなぜだか意識に突き刺さるような赤い色。
それは、赤い傘をさした……




