月の庭
1,
「ひでぇ星だったぜ……。」前の席の角刈り頭が、そう呟く。
僕は窓の外の、はるか下の地面が遠のいていくのを、ただ眺めていた。
ひとが、死ぬことなしに、生まれた星を離れられるようになったのは、つい昨日の話のように思える。
星系内の他の惑星で、開拓の仕事をするという、冗談のような求人を公共職業安定所で紹介されてから、再利用可能な宇宙船ができあがり、それに乗船するまで、二年も経たない。とりあえず月で研修してから、隣の惑星に行くそうな。
「よぅ、おまえは何で志願したんだよ。」前の席の角刈りが、ヘッドレストと壁との間に顔半分を突っ込んで、ギロッと、目玉だけで睨んでくる。
「ひっ!」と、思わず声が出て、僕は体が椅子にメリ込むくらいその目玉から逃げて、「職安……」とだけ言った。腹にベルトが食い込んで痛い。
「職安!」角刈りは、すき間から顔半分を引っこ抜いて、モロ手をあげて大声を出した。船内が静まり返る。
ほぼ全員の目線が僕に刺さる。僕は椅子に埋もれてしまいたいほど体をちぢこませて、いつものようにギュッと目をつむる。「だからこの星の奴らは嫌なんだよ……。」壁に口づけするほど顔をそむけて、僕はそう呟いた。しかし、それも一瞬。
船内はザワメキを取り戻して、もう僕の存在を忘れている。前の席の角刈りは、隣の奴と、ちからコブの見せ合いを始めた。
「どこかの軍人さんかな?」僕は溜め息をして、椅子から浮かび出る。この感じ。この空気が、僕をここに居させる。言ってしまえば、雑多な連中の集まり。ここへ至った経歴も、年齢も国籍も、ここでは「ふーん」で済んでしまう。
急に船内の照明が落ちて、ザワメキが止む。みな、窓の外や、正面の映像を見つめている。窓の外、ずっと下のほうで、地表はもう鮮明さを失い、茶色と緑色と青色と白の塗り絵になっている。もう二度と、この景色を見ることはない。
シューっと、かすかだが、聞きなれた音をとらえて、僕はそのための姿勢に直る。間もなく眠くなり、深い吐息をして、記憶が途絶える。最初の夢は、子供のころ、町内の子供らと、ケイドロをした場面。
「おまえがトロいから、またドロじゃん。」耳元で、ガキ大将の大声がした。
「ごめん……」と、僕は泣く。縁石に座って、体をちぢこめる。ゲームは僕抜きで再開して、楽しそうな子供らの様子を、僕はただ見ていた。あそこに、僕の居場所はなかったなぁと、僕は思った。最初の夢はそこで終わり、次の夢が始まる。
誰か大人が、僕の植木鉢を、ポイと投げ捨てた。土しか入ってないようだから、その扱いも仕方がない。横倒しになって、雪崩出た土の中に、やっと根を出したカボチャの種があることを、僕は誰にも言わずにいた。あれを号泣というんだなと、僕は思った。あの時は、本当に悲しかったが。すでに車の中にいて、そこから出ることを許されなかった僕には、なす術もない。懐かしい家。幸せだった家。あの家に帰ることはなかったな。夢はそこで終わり、次の夢が始まる。
何の集まりだろう。大学のコンパかな。古びた部屋に、ギュウギュウに机が詰まって、みんなでガヤガヤ騒いでいる。
「ひとーーーつ!」と、間延びした大声が、僕のうしろで始まる。
「よぉー!」みんな喝采。グラスをかかげる奴、から揚げを箸で持ち上げる奴、ビローっと焼きそばを引きのばす奴もいる。
「剣道部所ぞーく!春季大会第さーーーん位!」間延びした大声は続く。
「おぉー!」みんな拍手。頭の上で手を叩く奴。机をドンドンする奴。
「伝とぉーーと栄こーーぅの!しば!うえ!たに!よん!きょう!ぞーく!」みんな大笑い。何言ってるのか分からんが、あれは楽しかったなぁ。あのあと焼きそばにあたって、みんな寝込んだんだっけ。
ズキッと、頭に激痛が走って、僕は目を覚ます。
「この頭痛だけは慣れん。」前の席の角刈りが、無い髪の毛を片手でかきむしる。「ふぁー」と、両手をうんと伸ばして、あくびをする。
角刈りはあれから、まったく、僕のことなど忘れたふうだ。ありがたいと、僕は思った。体が、ゆっくりと、後ろへ回りだす。間もなく、着陸するらしい。
ザザッと、船内のスピーカーから音が出る。「当機は着陸態勢に入る。諸君の自主性に期待する。」プツンと、それだけ言って、スピーカーは黙った。パイロットは乗っていない。代わりに、自動操縦のプログラムが走っている。
ゴォーッという逆噴射の音が始まり、宇宙船は、重厚なハッチを、規定通りの間隔と速度とで通過する。このハッチが閉まれば、もう空を見ることもない。
逆噴射の音が止まり、船内のあちこちで、ガチャリと、シートベルトを外す音がする。ハッチの内部に空気が満たされるまで、みな、船内にとどめられる。全員が居住区に入ると、この船は自動で飛び立ち、次の旅団を迎えに行く。
「誰もいねぇな。」前の席の角刈りが、窓の外を眺めて言う。「逃げ出したい奴は、いないらしいな。」角刈りは、ヘヘッと笑って席を立ち、後方のハッチへと歩き出す。荷物は先に、それぞれの部屋に届いているはず。
僕は座席の肘かけを、名残り惜しく撫でて立ち、後方のハッチから並ぶ列の最後についた。誰も、僕も、自分の後ろを見ない。
列の前方で、シャーッと、ハッチが開く。無味乾燥だが、新鮮な空気が流れ込んでくる。みんな深呼吸している。おそらく、新天地なんて、誰も思ってやしない。出社する感覚。それだけ。
カンカンと、軽い金属音のする廊下を歩いて、言葉もなく、自分の番号の部屋へと散っていく。個人のスケジュールは、その部屋の机の上に、すでに用意されてある。あの角刈りと出会うことも、もう無いだろう。
扉は僕を認識して、音もなく開いた。これからここで、僕は暮らす。コンクリート打ち放しの、寒い部屋だろうと思っていたが。ホテルのダブルベッドの部屋のようだ。
なんと、窓がある。思わず歩み寄って見れば、どうやら中庭が見渡せるようだ。窓は開かないが、眼下に広がる果樹。川まで流れている。小鳥もいるのか。
窓枠に、スピーカーが埋まっているのに気がついて、僕はスイッチを押した。ボリュームを上げると、かすかに水の流れる音が聞こえる。時折、小鳥の鳴き声も聞こえる。わずかにエコーがかかっているから、中庭も天井で覆われているのだろう。
しばし景色に見とれていると、ピピッと、机でアラームが鳴った。スケジュールはもう、始まっているようだ。机の天板を兼ねたディスプレイに、「入浴」、「昼食」、「採血」の文字が浮かぶ。それぞれの文字の隣には、完了のボタンがある。完了以外のボタンは無い。どこへ行けとも言わないから、始めは座学なのだろう。
湯船に体を沈めるのは、久しぶり。ずっと、シャワーだけだった。それも、シャワー室のある場所がとれればの話。朝早く起きて、遅くまで現場で働く毎日。食いつなぐだけの毎日だった。
思わず長湯してしまって、気まずい思いで完了のボタンをタップする。トイレの手前の、洗面所の明かりが自動でついて、ピピッと、そこのアラームが鳴る。洗面所の脇の台に、せりあがってきた昼飯を見て、僕は驚いた。ビニールに包まれた、そっけない保存食一式だろうと思っていたが。ホテルの朝食並みだな。パンにバターにジャムに目玉焼き。サラダとドレッシング、グラスにつがれたジュース、牛乳、コーヒーまである。
「ここで作っているのか!」僕はうなった。合成食品ではなく、まぎれもない、栽培された野菜、加工された肉。これは、どういうメカニズムなのかと、僕は食べながら空想していた。原理は、宇宙船に乗る前に、ひと通り教わりはした。それが実際、機能しているとはな。
トレイを持って、机で食べようと思ったが。台に固定されている。ここで食えということらしい。机からビジネスチェアを引いてきて、座る。まあなんて、久しぶりの晩餐だろう。コショウと塩が欲しいところだが、この際、贅沢は言うまい。
ウキウキで完了のボタンをタップすると、ふたたび、洗面所のほうで、ピピッと、アラームが鳴った。さっき、昼食が乗っていた台に、採血用の小さな器具が乗っている。指の先に当てると、自動で針が出て、少量の血を採取する。宇宙船に乗る前に、何度かやった。チクリとはするが、血はすぐに止まる。これも、台に固定されていて、指のほうをあてる方式らしい。
机に戻って、完了のボタンをタップしたが、続く指示は出ない。今日のスケジュールは、これだけということのようだ。
とりあえず、ベッドにもぐりこむ。なかなか心地よいが、カビ臭く汚れたベッドに慣れた身では、戸惑いのほうが先に出てしまう。
僕の荷物は、何もない。衣類一式は支給される。あそこから持ってこようなどと思うものは、何もなかった。枕の上には、いくつかスイッチがある。カーテンの開け閉め、照明のオンオフ、空調まである。このスイッチは?。押すと、天井がなくなった。どうやら、ベッドの上の天井は、一面のディスプレイらしい。中庭の照明に連動した、空の風景が映し出される。窓枠のスピーカーの音が、実感を添えてくれる。
旅の疲れだけでは説明できなさそうな疲れで、僕はすぐに、ウトウトしだした。「病院みたいだな。」不明瞭な意識のなかで、僕はそう呟く。記憶にある、唯一、安らぎを感じた場所。現場の事故で救急搬送されて、気づけば、体中に管が差し込まれていた。一週間くらい、意識不明だったそうだが。病院にいたときは、涙が出るくらい、初めての、安らかな気持ちだった。あれがなければ、この求人に応じることもなかったな。
目を覚ますと、夜になっていた。中庭の照明で、二十四時間を演出する仕組みのようだ。アナログの時計を持ってくればよかったなと、今更に思う。デジタルばかりのこの部屋に、アナログの時計でもあれば、ぬくもりを感じるだろう。
机のディスプレイは、天板を兼ねているので、立てることができない。ベッドからは位置的に、画面を見ることはできない。なかなか上手くできているなと思う。ひょっとして、天井のディスプレイに表示されるのかと思ったが、そんなことはなくて。あくまでも天井か、または、空の景色を映すだけだ。ピピッとアラームが鳴る以外は、スケジュールの存在を意識させないつもりらしいな。
「しかし、あまりにも……」僕は呟く。あまりにも、良すぎるのではないか。これまでの経験が、何かあるぞと僕に警告してくる。どんな研修が、始まるのだろう?。いつまでやるのだろう?。あの肉は、何の肉だろう?。
ピピッと、机でアラームが鳴る。「夜に?」僕はベッドを抜け出して、机の前に立つ。「睡眠導入剤」の文字の横に、「要」、「不要」のボタンがある。不要のボタンがあるなと、僕は思った。「要」のボタンを押してから、あの頭痛を思い出して凹んだ。続いて、ベッドに入るよう指示が出る。シューという、聞きなれた音が聞こえて、僕は眠りに落ちた。
夢の中で、僕はどこかの岬の突端にいた。足元から吹き上げてくる、潮の香り。霧が立ち込めるなか、赤と白とに塗られた、ひとつの灯台が、彼方へ一筋の光を投げている。どこだったか。いくつか思い当たる場所はあるが、判然としない。けれども、そこへ行った目的は、同じだった。とどろく波の音におじけて、夜明けまで、そこに座っていただけ。この求人に応じたのも、同じ理由だなと、僕は思った。
ズキッという頭痛が走って、僕は飛び起きた。ピピピピと、目覚まし時計のようなアラームが、机のほうで鳴り続けている。それが頭に響いて、両手で顔をこすりながら、ベッドを出る。
「起床」の文字が、机のディスプレイに出ている。僕は片手で顔を覆って、指の間からディスプレイを見下ろし、起床完了のボタンをタップする。続いて、「身支度」、「端末持出」の指示。しかし、時間の指定は無い。常識の範囲内で、ということだろうか。
朝シャンの趣味もないので、昨日の上着を着て靴下をはき、汚れたままの靴をはいて、身支度完了のボタンを押す。カシャッと、机の引き出しが少し出る。引き出して見れば、スマホがひとつ。手に取ると、「場内見学」の文字が現れた。しかしこれにも、時間の指定は無い。
「どういうこと?」僕は不安になる。初日だからだろうか。いや、初日ならなおさら、今にも部屋の扉が開いて、「17号出ろ!」とでも、言われるのではないか。
僕は身構えたが、しかし、誰も来ないな。窓枠から流れる、川のせせらぎ。太陽はとっくに、始業時間を過ぎ越して昇っている。ボヤボヤしていていい時間ではないが……。
部屋の中を見回してみるが、本棚のようなものは、見当たらない。ルール・ブックとか、ないのか?。机に戻って、天板を兼ねたディスプレイを、あちこちと触ってみる。キーボードはおろか、カーソルすらも出ない。ただ相変わらず、「場内見学」の文字だけが、表示されているだけ。
このまま篭城してみるのも、いいかもしれないと、僕は思った。思いはしたが、しかし、この建物への興味のほうが勝ってしまうのは、悲しいサガだなと、つくづく自分でも思う。
「そうだ。端末……。」胸ポケットから、スマホ型の端末を取って、画面をあちこち触れてみる。サイドにあるはずの、ボタンや穴はない。裏面はのっぺらぼうだ。画面には、机と同じに、「場内見学」の文字があるばかりで、ほかには何も出ない。ほかに持参するものもないし。
「中庭、行けるのかな?」地図くらい見たいなという気持ちで、僕は手にした端末に、なに言うともなしに言ってみた。「シカトかよ。」期待はしていないが、実際、何も出ないと凹む。端末は胸ポケットに仕舞ってしまい、歩きたいほうへ歩くことにする。
部屋の扉は、何の抵抗もなく開いて。そして、誰もいない。靴音も話し声もない。床と壁面との境には、こなたから彼方に至るまで、薄青い間接照明が植わっている。サイバーな雰囲気。いかにも最新という感じ。
カン、カン、という軽い金属の足音をさせながら、僕はとりあえず、昨日きた方向と、同じほうへ歩いてみる。ハッチから散り散りになった僕らは、誰も誰かのあとを追うことなく、ひとりっきりで散っていった。僕も僕の部屋まで、僕だけが歩いてきたし。だから同じほうへ歩いていけば、ずっとひとりでいられるだろう。
カン、カン、という軽い金属の足音を聞きながら、僕は思った。窓から見た中庭は、相当な規模だ。宇宙船に乗っていた人数と、この中庭の大きさ。たぶん、この道は、ハッチと中庭とを、つないでいるだけだろう。
見れば、行く手の先で、薄青い照明が途切れている。振り返れば、道は緩やかに弧を描いていて、まだそんなに離れてはいないはずなのだが、しかし僕の部屋の扉は見えない。通勤してる感じ。バスの窓から、遠ざかる自分の部屋の窓を、悲しく見ていた。そんな記憶。
薄青い照明が途切れたところからは、道の幅はそのままで、天井だけ斜め上にあがっていて、その先には、やはり、ハッチがあった。僕の背後で、スッという、かすかな音がして。振り向くと、来た道は、扉で閉ざされていた。
そして今度は、斜めになった天井から、真昼のような明るさが、その強度をゆるりと増しつつ、この空間を満たしていく。
静かなブウンという、ファンの回る音がして、嗅ぎ慣れた土のにおいがする。都会の、枯れた土のにおいじゃなく、田舎のドカタで嗅ぐにおいだ。光に目も慣れた頃合い、わずかにゴロゴロという音をさせて、道の幅のままではあれ、ハッチが大きく、上へと引き上げられた。途端に僕を覆う湿気。
「何か、ハエ?」僕の耳元を、何かが飛び去った。小鳥のさえずりが聞こえる。見上げれば、はるか上には、やはり、天井らしきものがある。うまく塗装はされているが、無数のダクトや換気口を見てとれる。
僕の背後で、ゴロゴロとハッチが閉まる。と、ハッチの両側に、細いすき間が開いて、そこからかなりの勢いで、内側の空気を排気しだす。ブウンと、さっきのハエの羽音が、僕の耳元をかすめていった。
ピピッと、胸ポケットのスマホが鳴る。取り出して見れば、画面に「斉藤さん」の文字。行方に目を向ければ、確かに誰かが、こちらへ手を振っている。
「斉藤、さん?」僕はスマホの画面を相手に見せる。小柄な斉藤さんは、首にかけた手ぬぐいで顔を拭きながら、ウンウンと、僕にうなずいてみせる。
「ここへ来るまで、大変だったでしょう。」にこやかに話す斉藤さん。ここへ来るまでという部分に、実感がこもっている。
「ええ、まあ。」ひとよりも、まだ見足りない景色のほうへ、僕は視界を持っていかれる。斉藤さんは、そんな僕の様子を見て、微笑んでいる。
「あなたよりも、四つ前の便で、私はここへ来ました。」と斉藤さん。僕は、えっ?という顔をして、斉藤さんの顔を見る。
「四つ前……。一年と少し前ですか。」現場主任とか、教官とかだと、僕は思っていた。
「私も、そんな顔をしてたんでしょう。」斉藤さんは、道端にしゃがんで、草取りの続きをする。「ここには、指導教官のようなひとは、いません。研修を終えたひとたちは、みんな、隣の惑星へ行ってしまうから。」それきり、ベルトに下げた、根切り用の、先が二股になった棒をとって、斉藤さんは、黙々として、作業を続ける。
気が引けたが、僕はどうしても、聞きたいことがあった。「ルール・ブックとか、ないんですか。」
「ないです。」と斉藤さん。即答だった。「私も、来た時分に探しました。ここには、ルール・ブックはおろか、法律も、警察もありません。ただ、不適格な者は、送還されるみたいです。私と来たひとたちは、一週間経たないうちに、半数になってました。」
ピピッと、スマホが鳴る。手に持ったままなのを忘れていて、僕は空の胸ポケットを見、周囲を見回してから、ようやく、手元のスマホに気がついた。慌てて画面を見ようとしたところ、ちょうど、ズボンのポケットからスマホを出した斉藤さんの姿が目に映った。
「用意ができたみたいです。行きましょう。」タオルで顔を拭きながら、斉藤さんはもう、スタスタと道を歩き出す。僕は言葉もなく、スマホを胸のポケットに仕舞った。それをポケットの上から触ってみて、改めて存在を確認してから、だいぶ先へ行ってしまった斉藤さんの背中を、僕は追いかけた。
「あとからゆっくり見られますから。」微笑む斉藤さんに諭されて、僕は歩きを早めて、斉藤さんに追いつく。行く手に、丸い天井のかかった、幅の広い螺旋階段があり、地下へと降りられる仕組み。掘削した当時の穴の形状そのままなのだろう。
「最初の何段か、滑りますから。気をつけて。」斉藤さんに倣い、僕も手すりをしっかりと握る。思わず胸ポケットに片手をやって、安心する。
ぐるりと一周して、中庭からの光が薄れた辺りから、廊下の薄青い照明が始まる。二周目に踊り場があって、同様に高いハッチが開き、僕らは中へ入った。螺旋階段は、その先もずっと続いている。
ハッチが閉まると、その脇の細いすき間が開いて、僕らは、猛烈な旋風に巻かれた。僕は思わず身構えたが、しかし斉藤さんは慣れたもの。薄い髪の毛から上着からズボンから、旋風のなかでバサバサとはためかす。上着などは前を開けてしまって、旗みたいにあおられている。しかしいまだ、旋風は止まない。
斉藤さんは気づいて、僕のほうへと歩み寄り、耳元で教えてくれた。「ホコリや虫が飛んでしまわないと、この風は止まらないんです!あなたも私のようにやってください!あっ!上着、脱がないで!飛んでいってしまいますから!」
ようやくにして旋風が止み、二人とも、寝起きの髪のような格好になって、半ば放心状態でいると、今度は足元へ、早瀬のように水が流れだした。僕の靴など、見る間に、水浸しになるくらいの量。僕ひとりでバシャバシャ慌てている。斉藤さんは慣れたもの。両の長靴を互いにすりあわせて、ついた泥をうまく洗い流している。水は間もなく止んだ。バシャバシャやった甲斐があったんだろう。
「この先で長靴もらえますから。靴下ももらえます。」にこやかではあるものの、笑いはしない斉藤さん。たぶん、自分も同じ目にあったんだろう。
廊下への扉を入ってすぐ、ピピッと僕のスマホが鳴る。「二番」とだけ、画面に出ている。斉藤さんが指をさす。その先を見れば、壁に方形の線が入っていて、その枠のひとつに「二番」の文字が出ている。
斉藤さんが、向かいの壁の「一番」をタップすると、そこがパカンと上へ開いて、斉藤さんはその中へ、汚れた軍手と道具一式とを預ける。
僕も倣って「二番」をタップする。パカンと開いたその中には、横に置かれた長靴と、靴下と、手ぬぐいとが入っていた。濡れた靴と靴下と、拭いた手ぬぐいとをそこへ戻して、新品の長靴をはく。長靴ではあれ、新品の靴なんて、久しぶり。
見れば斉藤さんが、スマホを出すように、身振りで教えてくれている。自分のスマホを出して見れば、四角いバーコードが表示されている。「その日のスケジュールは、スマホが教えてくれますから。」と斉藤さん。
短い廊下の突き当たりにある、扉の脇の壁面に、黒い線で四角く囲われた部分がある。斉藤さんがそこへ、スマホの画面をかざすと、スッと扉が開いた。「電波でやればいいのに。ここはみんな、バーコードを読ませて出入りします。あなたも読ませて。でないと、すごい勢いで扉が閉まるから。クセつけとかないと、病院送りです。」
怖いな、と思いながらも、なるほどこれが、ここのルール・ブックだなと僕は思った。音もなく開閉するこの扉。ということは、十分に余力のある動力に、つながれているということだろう。病院送りで済むのかしら。
先を進む斉藤さんに、半ば冗談のつもりで、僕は問うた。「ここに墓地はあるんですか。」
「ないです。」これも即答。「ここへ来た日が誕生日で、ここを去る日が命日みたいなものですよ。」独り言のように、斉藤さんは言う。なるほど、わかりみが深い。
さっきから、実に美味そうなにおいがしている。ピピッと、スマホが鳴る。僕はまた「二番」。通路の壁面に、さっきよりもずっと大きな、ドアのサイズの黒い囲いがいくつかあり、その一番手前に「二番」の表示が出ている。
斉藤さんが「一番」の表示をタップすると、パカンとドアのように開いて、台に置かれた紫色の手袋が見える。
「中で着替えます。上着とズボンを脱いで、白い作業着と、紫色の手袋と、マスクと、頭にかむる網をつけてください。つけたら扉が開くので、消毒液に、手袋をしたまま浸してから、風のなかを歩いて、先へ進んでください。スマホは、服のポケットに入れてください。」と斉藤さん。
僕は「二番」の表示をタップして、言われたように着替えて、また風にあおられ、先へと進む。斉藤さんはもう待っていて、僕をにこやかに迎えてくれる。
「ここでは、居住者全員の、朝昼晩、三食をまかないます。さっき私がやっていた、中庭の手入れもそうですが、この作業も、全員が持ち回りでやります。し尿の処理から、家畜の世話、回収した衣類やリネンなどの洗濯、発電所の管理、道具の製造から修理、リサイクル、廃棄まで、すべてやらねばなりません。居住区で虫やカビが発生すると、それだけで面倒な仕事が沢山増えますから、中庭のものを、部屋へ持ち込まないでくださいね。これらの作業がない時間は、いつでも、中庭に出られますから。」斉藤さんの話を聞きながら、僕は昨日食べた肉が、ちゃんと飼育された牛の肉だと確かめた。
ぐるりと調理場を歩いて、着替えを済ませ、螺旋階段に向かう通路で、僕は斉藤さんに聞いた。「電力の源は、何ですか。」
「それは、最後に案内しますよ。宇宙服を着なければならないので。」斉藤さんは、事も無げに言う。
「宇宙服?。すると、原子力か何かですか?。」と僕。
「いえ。宇宙線です。月の表面へは出られませんが、監視室から全体を見渡せます。もちろんその役目も、輪番でやります。修理は、規模にもよりますが、住人総出でやることも、あったみたいです。」斉藤さんは、螺旋階段へ出るハッチの前で、僕に、宇宙服の着かたを、そのコツを、ゼスチャーを交えて教えてくれた。
螺旋階段は、頑丈な作りらしく、通路のような、軽い音はしない。それがかえって寂しくもあり。斉藤さんと一緒に降りていることが、心強い。下の階のハッチでは、先の失敗もなくて。新品の長靴に、僕はついぞ、現場では考えたこともない、ありがたみを覚えた。
「この階は、し尿などの処理をするところです。部屋ごとに陰圧になってますから、においはここまで来ないです。」斉藤さんのスマホが、ピピッと鳴る。
画面を見る斉藤さんの顔が、見てとれるほど暗くなる。「ごめんなさい。今日のスケジュールは延期です。事故がありました。あなたは指示あるまで、部屋へ戻っていてください。あなたの部屋へ続くハッチは、スマホが教えてくれます。矢印が出るので、従ってください。私はこのまま、一番下まで行きます。」
ハッチを出て、斉藤さんと別れる。なるほど、スマホの画面に、矢印が出ている。薄青い照明のなか、ぐるぐると螺旋階段をのぼって、中庭に出る。真上からの強い光が、僕におよその時間を教える。
「そういえば、朝飯、食いっぱぐれたなぁ。」部屋に戻れば、何か食えるだろう。そう思うと、歩みも速まる。スマホの矢印に従い、旋風と洪水とを難なくこなして、カンカンと鳴る通路へと入る。僕の部屋の扉が見える。
「おい。」と、ドスのきいた声。ビクッとして、声のほうを振り返る間もなく、僕の肩に、誰かの手がかかる。力づくで振り返らされて、見ればあの、前の席の角刈りじゃないか。
「逃げるぞ。一緒に来い。」言うなり、角刈りは「しっ!」というふうに、自分の口の前に指を立て、通路の前後を、鋭く睨む。自分でも驚いたが、僕はその角刈りの手を、払いのけていた。
「なんだお前!助けにきてやったんだぞ!」角刈りは、今度は両手で僕の両肩をわしづかみ、ガクガクと僕をゆさぶる。「どうしちまったんだ!もうおかしくなったのか?。」座席と壁との間から、ギロリと睨んだその目と同じ目で、角刈りは僕の目を見る。しかし僕は、僕の両手で外側から角刈りの両手をつかみにかかり、持ち上げるようにして、それらを払った。
角刈りは、怒りにうち震えながらも、もはや何も言わず、どこで手に入れたのか、コルク抜きのような金具を通路の床材に突き入れて、その一枚を引き剥がす。そのままストンと、中へ飛び降りた。ほとんど同時に、僕は強力な眠気を感じて、意識を失った。
2,
喫茶「夜明け」の、小さなテーブルを挟んで、ビジネス・ウェアをさりげなく着こなした男女が、声を落として談笑している。短いお昼休み。
「何年になるかしら。」目じりのシワは増えても、えくぼの可愛らしさは、なお、変わらない。企画課を経て、この十年来、人事課で人材リサーチをやっている。肩まで伸ばしたつややかな黒髪は、今もう、後ろで簡単にくくられて、年齢相応の落ち着いた雰囲気に、軽快感を添えている。
「八年?十年?」男性は茶化すように言う。手にした白いコーヒー・カップを引っ込め、残る手を女性にむけて、ちょっと前のめりになる感じ。センターで分けた、白髪の混じった短めの髪が揺れる。その白と、白いコーヒー・カップとが、茶色のスーツに映える。
「会長さんがお亡くなりになってから……」女性は顔を恥かしげにティー・カップへ向け、両手でその温もりを包む。「もう八年かしら。」色とりどりの控えめな花柄に縁取られたティー・カップが、深い青のドレスに映える。
「そんなになるかぁ……」男性は椅子の背にもたれて微笑む。「親父の遺言みたいなものだから。」ひと口コーヒーをすすり、カップを置く。老いて節の目立ち始めた両手を、腹の前へ組んで、フゥと軽く溜め息をする。
「でも、ひどい言われようね。」女性は微笑み返し、カップを持って軽く揺らす。立ちのぼる紅茶の香りを楽しみ、ひと口飲む。お肌のケアは欠かしていないが、男性同様、節の目立ち始めた華奢な両手のなかへ、カップを戻す。男性の胸の辺りに、かすかな光のまたたきを感じて、女性は顔をあげる。「社長、お電話ですわ。」
え?、という顔をして、椅子の背から起き上がり、男性は胸ポケットを探る。探り当てたとみえて、かすかなバイブレーションの音が、女性の耳に届く。手のひらに十分収まるサイズのスマホを、もう片方の手に持ち替えて、男性は画面の明滅の眩しさに切れ長の目を細めつつ、通話ボタンを押し上げる。
「どした?うん。今、佐々木さんとお茶してるとこ。あー、例の件ね。はい。十分くらいで戻るから。よろしく。」通話ボタンを軽やかにタップして、男性は慣れた仕草で、スマホを胸ポケットへ返す。「あんまり関心持たんで欲しいなぁ。」やれやれという具合で、男性は椅子の背にうなだれ、ダラリと両手をたらす。口をとがらせて、女性の手の中のカップを見遣る。
「送還のことで?」女性はやや体を曲げて、顔を少し斜めに、男性の顔を確かめるような仕草で、ん?というふうに目を見張って見せる。
男性は口をとがらせて、渋い顔だ。「新聞が取材に来てるって。約束の時間くらい守れよなぁ。せっかく佐々木さんとお茶しに来たのに。」背を起こして、まだ中身が十分に残っているカップを取り、顔の前で揺らす。コーヒーの香りを楽しんで、飲まずに、そのままカップを戻す。「ねぇ、佐々木さん、急で済まないけど、一緒に取材受けてくれない?。世間の評判とか、うちも把握してますって、ちょっと披露しておきたいから。」
「でも、あんまりいい評判ではないですけど。」女性はティー・カップを持ち、ひと口飲む。飲むときに無意識に目をつむってしまう。
その様子を微笑ましく見守りながら、男性は頭の中で、言うべき内容を整理し始める。「佐々木さんの所へは、どんな噂が聞こえているの?」
「路頭に迷うよりまだひどい。面白いことは何もない。刑務所よりひどい。監禁。強制労働。社長の独裁。趣味の悪い道楽。」手帳を見ながらのほうがいいと、女性は脇の小さな黒いバッグへ手をやるが、しかし男性の、もう十分という仕草を見てやめる。「いい噂は、ありませんね。」
「それはむしろ歓迎さ。」男性は、あらためてカップを取り、ひと口飲む。カップを戻し、両手を両のひざへかける。女性に微笑んで見せ、椅子の背に戻る。「そういう噂が広まれば、かえって集まるひとたちがいる。カネは無いが、むしろこの世を謳歌しているそういうひとたちが嫌うほど、やって来るひとがいる。そこは、取材には言わないけど。」男性は、テーブルの上にちょっと見えるくらいの位置で、片手の人差し指を立てて、チッチッと振って見せる。
「世間様は、悪いほうに取りますわ。」ティー・カップに顔を向けてしまい、女性は紅茶の水面に映る、船倉のように梁の多い天井の影を見遣る。「ゴシップで有名な新聞社ですもの。八年前のように、一流の新聞からの取材ではありませんわ。」そして男性の顔を見て、「なぜお受けになりましたの?」と言い、何か出すぎたことを言ってしまったというような、後悔の表情を浮かべて、女性はまた、紅茶の水面に目を戻す。
男性は、顔を女性のほうへ近づけて、さらに声を落として言った。「これはまだ秘密だけど。役員会の満場の一致で、計画の終了を決めたからさ。」
「ええ?」女性は、面白そうに微笑みを浮かべて自分を見ている男性の、まるで事も無げな姿に、困惑してしまう。
そんな女性の姿を前にして、男性は、事の経緯を説明しておかねばと思った。「すべては、この喫茶店から始まったんだ。」椅子の背にもたれ、カップを口へと運ぶ。コーヒーの香りを楽しみ、今度はしっかりと飲む。「佐々木さんがまだ企画やってたころ、親父と親父の知り合いと、ここへ初めて来てね。僕はまだあの時分、レトロな趣味はなかったけど。世の中がどんどん変わり始めるなかで、目覚めたさ。」男性は女性に紅茶をすすめる。「その時、親父が声をひそめて、変なことを言い出した。この世でカネを残すのはよくない。俺もそろそろお迎えだから、パッと使ってしまいたいって。そりゃあ、親父が稼いだカネなんだから、異存はないさ。けど額が額だから。何に使うのって聞いたら、秘密基地を作るって言うんだ。ガキかよって笑った。それが、ただの秘密基地じゃなかったのは、世間も佐々木さんも知ってる。」
楽しげに微笑む男性の顔に、女性は真顔で頷く。「宇宙基地ですものね。」そして男性の話を促すように少し微笑んで見せ、もう冷めかけた紅茶を、ひと口飲む。
その女性の仕草に、さすが、人材リサーチの室長だけあるわと、男性は改めて思った。その微笑みに甘えて、話を続けるとしよう。「僕らはここで、週に一度か二度、その話をすることにした。親父は言うのさ。社会人としては、確かに成功したようだが、生物としては落第だって。その時の残念そうな顔、昨日のように覚えている。」両手を小さく振り、おでこに触りなどして、手振りを交えつつ、男性は思い出話を続ける。「もう、どこへ行っても遅いが、希望はあるってね。親父と一緒に来てた知り合いが、宇宙進出を目論むベンチャーの社長でさ。スポンサーと事業主ってわけ。その次にはもう、お前には今の会社と、これだけ残すからって、弁護士も連れてきて、ここで生前贈与のハンコ押したさ。お前は成り行きを見ててくれればいい。直接には関わるなって言われた。ただ、予算が尽きたら、事業を閉めてくれ。その手続きは頼むって。金持ちの秘密の道楽に、つきあわされたってわけ。」
困ったなというふうに、男性はおでこに手をやって、自分でも苦笑いしながら、ひと呼吸置くべく、冷めたコーヒーを飲む。「登記上は、うちのハッチャケた、奇想天外な事業の扱いで、世間様の興味関心をひきつつ、正味八年やったわけ。その予算が尽きつつあったから、いい機会だと思ってさ。月の腹の中に、生きものだった頃の僕らの生活を再現するなんて、僕には意味不明だったけど。親父の道楽だから仕方ないくらいに思ったけど。今は親父と同じ思いだわ。僕ももう、あそこへは行けないが。希望はある、と思いたい。結局、十二回かな、男女別に、可能性のありそうなひとたちを、」
ブブーと、男性の胸ポケットがふるえる。ペカペカ光る画面を、眩しそうに見ながら、通話ボタンを押し上げる。「はい、今から向かいます。待たせといて。よろしく。」小さなスマホを、スルリと胸のポケットに滑り込ませて、それがちゃんとあることを確かめるように、背広の胸をポンポンと触って安心する。「さあ、行きますか。佐々木さんに話して欲しいところは、僕がふるから。さっきの噂のとこね。」
「ありがとうございました。」と、店主に送り出されて、二人は喫茶「夜明け」を、あとにする。ガラス戸の自動ドアを出れば、そこは踊り場。地下二階にある地下鉄駅から、地上へと続く階段の、地下一階の踊り場。下からのぼってくるひとの波は、二人を飲み込んで、地上にあふれだす。タクシーをひろって、走ること数分。かつて名うての新聞社だった建物が、内藤商事のオフィス。輪転機のあった広い空間が、空調を効かせた倉庫に、もってこいだった。
「お待たせして申しわけない。」ふて腐れて椅子に雪崩れている記者の姿を認めて、内藤社長は自分から声をかける。
「いえ……」と、小柄ながら、なかなかのおなか回りな記者は、めんどくさそうに立ち上がり、背広の脇の膨れたポケットに手を突っ込んで、擦れた名刺入れを取り出す。「夕刊真実の鈴木といいます。今日の版に間に合わせたいので、さっそく伺いますが、」
「今日?それはまた急だな。いや、光栄です。」内藤は鈴木記者に先の椅子をすすめ、自分は佐々木室長を連れて、向かいの席に座る。
「光栄?」と、鈴木記者は無表情に呟いて、メモ帳を広げたテーブルすれすれの位置から、内藤の顔をマジマジとのぞきこむ。短髪の丸顔に、黒眼鏡が光る。眼鏡の奥に宿る眼光は、本物のようだ。
「ええ。」と、その眼光を避けるように、ちょっと背をそらしつつ、内藤は応じる。テーブルの上に両手を軽く組んで、記者に真向かう。大きく息を吸う。「この事業はもう、世間から飽きられていますから。わざわざ取材に来てくださる新聞社さんは、ありがたいです。」
内藤の自然な微笑みを見取って、鈴木記者はしばしメモ帳を見下ろす。しかし、何かが足りないらしく、テーブルの上や下をキョロキョロと見てから、今気がついたというふうに、自分の黒カバンに手を入れ、短くなった鉛筆を拾い出す。黒眼鏡の相当に近くまで鉛筆を持ってきて、芯が出ていることを確かめてから、ノートに「栄光。世俗から忘られつつある事業に、今も親しみを忘れ得ぬ内藤社長。」としたためた。相手に見られても、一向、構わないらしい。
「それでは伺いますが」と鈴木記者。「月へひとを送るというこの事業は、亡くなった会長さんの御遺志だそうですが。会長さんがこの事業を始められたのは、どういういきさつですか。」相変わらず、テーブルすれすれの位置から、内藤の顔をのぞきこむ鈴木記者。
「その前に、佐々木室長を紹介します。」と内藤。隣で佐々木室長が礼をする。鈴木記者は答礼をするだけはして、もう内藤のほうへ意識を向けてしまう。佐々木室長は微笑んで、鈴木記者のその姿勢を受け入れた。渋い顔の内藤。
内藤のご機嫌を察してか、鈴木記者は再び佐々木室長のほうへ顔を向けて、「すみません佐々木さん。次回、お話を伺う機会もあるでしょう。なにぶん、今日の版に間に合わせたいので。勘弁願います。」と言って微笑んだ。
この男、微笑むことができるのかと、内藤は思った。まあいい。今は質問に答えよう。「父は生前、儲けることに忙しくて、夢を持てなかったと、嘆いておりました。それで何か、ハッチャケたことをしてやろうと、思ったようです。」
ところが鈴木記者、先ほどとは打って変わって、今度はスラスラと、メモ帳に記号のようなものを引き出す。ははぁ、速記かと、内藤は思った。なるほどこれならば、相手に見られても構うまい。
「事業規模は、金額にして、どのくらいですか。」と、鈴木記者。椅子にしゃんと座り直し、もう、ノートから目を離さない。
「およそ、五八〇億ほどです。」と、内藤。これを聞いて、ほぉ!という雰囲気を漂わせる鈴木記者。顔が見えないから、察するほかない。
「当時は、世間に夢を与えた事業でしたね。反響は大きかった。」と、鈴木記者。
まあ、今のところ好意的だなと、内藤は思った。「そうです。みなさんに夢を持ってもらえて、父もあの世で喜んでいると思います。」
内藤の言葉を聞いて、鈴木記者の鉛筆が止まる。「すると、会長さんの夢は、叶ったということですね。」念を押すように、しかしやはり、ノートからは目を離さずに、鈴木記者は言う。
「そう思います。父も満足でしょう。」内藤は、鈴木記者の頭の、大きなつむじを相手にして言った。
「会長さんも、ということは、社長さんも満足されているということですね。」と、鈴木記者は念を押す。おしまいの「ね」は、問いかけというよりも、そのように理解したという通告だなと、内藤は感じた。
ヤバイな。質問に押されそうだ。内藤は少し不安になる。ゴシップ新聞とはいえ、いや、ゴシップ新聞であればこそ、気軽に取材を受けるべきでなかったかな。
「ううむ」と、鈴木記者が突然に唸る。鉛筆は止まったままだ。今、たぶん、すごい勢いで、鈴木記者の頭の中に、何かが駆け巡ったのだろう。
内藤の横で、黙って見ていた佐々木室長も、鈴木記者に何があったのかと、テーブルに身を乗り出している。
「社長さん」と、突然、ぶっきらぼうに鈴木記者が言う。
「はい?」少々驚かされて、内藤の言葉の語尾が上がる。
語尾があがったのを、鈴木記者は、内藤の不服の意志のあらわれだと、とらえたのかもしれない。フッと、ノートから顔をあげて、鈴木記者は、内藤の顔を、今度はテーブルすれすれからではなく、姿勢を正した真っ直ぐなままに、のぞきこむ。
「社長さん、今日の版は、諦めました。」と、鈴木記者は、ぼそっと言った。
「え?、どうして?」内藤は、横の佐々木室長と、不思議そうに顔を見合わせる。
ためらいがちに、もしかしたら、少し恥らうようにも見える様子で、鈴木記者は、身振りも、手振りも交えずに言う。「ご存じのように、うちは、ゴシップで売っている新聞です。でもその前は、そうなる前までは、無名の平凡なタブロイド新聞でした。大手とは住み分けて、地元のちょっとした喜怒哀楽を、取材してました。私的な話で恐縮ですが、私はそれが好きで、入社したんです。」微笑む鈴木記者。寂しい微笑みだと、佐々木室長は感じた。内藤も黙って、鈴木記者の言葉を待つ。
「これは、久々に、そのころの新聞として書ける記事です。ぜひ、書かせていただきたい。」そう言うや、メモ帳に鉛筆を挟み込み、黒カバンをひったくって、あっけにとられている二人を前に、スックと、鈴木記者は立った。「戻って、デスクとかけあいます。近々、改めてお話をうかがいたい。お電話します。では。」
「分かりました。電話お待ちしてます。」内藤は、テーブルの上に両手を組みつつ、鈴木記者の背中に、そう言葉をかけた。
「張り切ってますわね。」佐々木室長が、胸の前に、両手を握って微笑む。
うん、と、内藤はうなずく。あのひとも、月へ行くべきだったと、内藤は思った。
仕事を終えて、内藤はひとり、喫茶「夜明け」に向かう。ここで一杯コーヒーを飲んで、仕事とプライベートとを切り替えてから、家路に就くのが常だ。
「あれ?、内藤ちゃん。」ガラスの自動ドアをくぐるや、聞き覚えのある声が、内藤を見舞う。見れば、奥の四人がけの席に、ひとりで陣取って、誰か手招きをしている。シワシワの白いコートを着た、やや大柄な体の、短髪面長のふくよかな顔の男。名前も覚えやすい。
「よぉ。福ちゃん。元気してた?」軽く片手をあげて、内藤は手招きに応える。「あ、コーヒー。ブラックで。」
好物のハンバーグ定食にありついて、福ちゃんはご機嫌な様子。「午後に空港へ着いたんだ。ここの雰囲気が懐かしくてさ。時間ギリギリで、食えるか分かんなかったけど。」
「ハンバーグなんて、海外のほうが普通に食べられるだろ。洋食なんだから。」コーヒーが来る。カップを手に取り、内藤はコーヒーの香りにひたる。
「んー、いい香りだな。」福ちゃんが鼻を鳴らす。「すいません、食後のコーヒー、今もらえます?」
「ハンバーグ美味そうだな。僕ももらおうかな。」福ちゃんの食べかけを覗き込んで、内藤は喉を鳴らす。
「残念。オーダーストップです。ちょっとつまむか?」福ちゃんは、内藤のコーヒーに添えられたスプーンで、ハンバーグを切り出しにかかる。「ほら。」
「悪いね、折角の好物を。あー、美味い。明日の昼飯だな。」内藤はスプーンをねぶって、カップの脇へ戻す。
「そうさ。何か楽しみがあったほうがいいよ。会社のほふは?」テーブルに覆いかぶさるようにして、サラダを頬張る福ちゃん。シャリシャリといい音がする。
「本業は相変わらず。」椅子の背にもたれて、内藤はそっけなく言う。
「本業?本業以外にあるのか?」と言ってから、「ああ、月な。」と、思い出す福ちゃん。カップを取り、コーヒーの香りを吸う。ひと口飲んで、満足そうな顔をする。
「福ちゃんほんと、美味しそうに食べるよね。」内藤の顔から、微笑みが薄れる。「あれ、終了するわ。」
「終了?月をか?」手にしたフォークで、福ちゃんは内藤を指差す。「まあ、いろいろ噂は聞いてるけどな。」
「噂じゃない。費用が予定の額に達したんだ。ここまで続くとは、僕も思ってなかった。」手を腹の前に組んで、内藤はひとつ、深呼吸をする。「けっこう、成し遂げた感があるわ。」
「月かぁ。まあ俺は、地上を飛び回ってるだけで十分だ。美味いものも食えるしな。」ハンバーグの最後のかけらを食べてしまって、福ちゃんはご満悦。「んー。故郷の味が一番だ。」皿を脇へあずけて、コーヒーを、自分の前へ引いてくる。
「あと、月へ行ったひとたちの帰還と、基地の処分と。けっこうギリギリの額しか残ってない。」手にカップを持ち、椅子の背にもたれたまま、内藤は目を閉じる。改めて思い返せば、けっこう長い八年だった。
「へぇ。壊しちまうんだ。」言いながら、福ちゃんは皿の隅に見つけた野菜のかけらを、フォークで追っている。
「ああ。建物を維持するお金は無いし、次の開発の邪魔になるかもしれないし、生物汚染の可能性もあるから、当初の契約でそうなんだ。特集番組でもアニメーションでやってたから、覚えてるひとも、いるかもしれない。焼却して、最後は爆薬でドカン。地盤を落下させて、完全に埋める。建設当初に、装置は組み込んであるから、その費用はかからない。」内藤は、手まねでドカンとやって見せて、微笑む。「五八〇億の、一夜の夢もおしまい。」
「ひとがいるうちに、ドカンなんてことは無いのか?」野菜のかけらをやっつけて、福ちゃんはコーヒーで祝杯をあげる。
「ない。一部、現地で組み立てる構造になってる。」内藤は、福ちゃんの前に両手を出して、ゆっくりと組んでみせる。「壁にあいた一塊の穴に、一塊になったソケットを差し込むだけさ。数は多いが、簡単にできるから、最後に離れるひとたちで組みつけて、こっちから信号を送って発火、起爆させる。それで完全に終わり。」
「SFみたいだな。暗号とか送信してさ。」福ちゃんのほがらかな笑いを、半年振りに見る内藤。
「僕ね、あの特集番組に、ちょっとだけ出てたんだ。」福ちゃんのほうへ顔を寄せて、内藤は声をひそめて、はずかしげに言う。「暗号、僕が決めたから。」
「へぇ。そんな場面、あったか?」福ちゃんも、内藤のほうへ顔を寄せる。
「思い出の場所。そうでもなきゃ、八年も覚えてる自信ないよ。」椅子の背に戻って、内藤は微笑む。コーヒーを飲み干して、満足げにカップを戻す。「久しぶりに、福ちゃんに会えてよかった。いい気分転換になった。しばらくは、こっちにいるのかい?」
「そうしたいんだがなぁ。」福ちゃんもコーヒーを飲み終えて、ホッと、椅子の背に身をあずける。「週末にはもう、機上のひとさ。ま、今時、忙しいのは、ありがたいことだ。稼げる時に、稼ぐに限るわ。」
会計を済ませ、地下一階の踊り場へ出る。「じゃあ。」と、お互い片手をあげて、福ちゃんは階段をおり、内藤は階段をあがる。陽はとうに暮れて、空一面を雲が覆い、風が出ている。この時間では、流しのタクシーはつかまるまい。階段の途中で、内藤は振り返る。父との思い出の場所、喫茶「夜明け」の、小ぢんまりとしたレトロな店構えに、内藤は思わず知らず、懐かしさを覚えた。
地下二階の踊り場に、この時間でも客足の途絶えない、立ち食いそば屋がある。角刈り頭の、外套とジーパンの上からでも体格のよさが知れるオッサンが、二人分のスペースを占領して、天玉うどんを豪快にすすっている。その後ろでは、女子たちと観光客らが、声をひそめてキャアキャア言いながら、立ち食いそば屋とムキムキのオッサンという、稀に見る光景を写真におさめている。誰か、外国のドラマ俳優と、勘違いしているらしい。
シワだらけの白いコートを着た、短髪面長の冴えないオッサンが、階段をおりてくる。角刈り頭を、ものめずらしそうに眺めながら、コートのポケットから釣り銭を出して、天玉うどんを注文する。角刈り頭が気をきかせて、一歩脇へ退き、スペースを作ってやると、後ろでは女子たちのブーイング。
汁を一気に飲み干し、優しくトンと、どんぶりを置く角刈り頭の横で、短髪面長のオッサンが、「夜明け」と囁く。
しかし、角刈り頭には何も聞こえなかった様子で、ただ「ごっそさん」と言い残して、角刈り頭は地下鉄へと向かうひとびとの流れに混じり、改札の中へと消えた。
3,
「こんな星はやく宇宙から消えろっつってんだよ!」
目を開くと、机や窓の輪郭が、うっすらと見える。まだ夜明け前。起きるには早い。参ったな。叫んじゃったんだろうか……。掛け布団を抱き込み、胎児のようにちぢこまって、僕はあの、カンカンと鳴る、軽い造りの廊下のことを思う。まだ時々、発作のように、あそこでの夢を見る。
暑い。ものうげに、仰向けになる。フゥとひとつ、溜め息が出る。天井はもう、元の天井にしてある。中庭に雨が降れば、連動して、天井にも雨が降る。天井が落ちた家で、ビニール・シートにくるまって見上げたのと同じ空。それを見てから、天井は天井のままにしてある。
そろそろと、布団から片手を出して、汗で湿った前髪をぬぐう。でも、思ってみれば、誰かの叫びを聞いたことはない。はや存在を忘れかけた、窓枠と一体型のスピーカーから聞こえる中庭の音のほかには、自分が出す生活の音以外、聞こえてこないな。なら大丈夫かと、気分は軽くなる。外れた枕を手繰り寄せて、首の下へ詰め込む。スッと息が深まる。
目覚めはよかった。ピピッと机が鳴る前に、起床完了のボタンをタップする。続けて日課が数行、表示されるが。しかしもう、見ずとも分かっている。昨日干した靴下を、浴室へと取りに行く。シーツ類と一緒に、衣類を全部、回収に出すひともいるけれど、僕は下着と靴下だけ、洗面所で洗っている。回収されたシーツ類が、どのように洗われ、仕分けされるのかは、当番で実際にやっているので、よく分かっている。下着や靴下を回収に出したとしても、衛生的に問題ないし、誰かの手間になることもない。あとは個人の好み。ここでは時間があるから。時間があるというだけで、部屋も綺麗になる。
机の引き出しから端末を出し、昨晩支給されて、扉の前の壁のフックにかけておいた、今日の分の作業着一式を着込む。レイン・コートのような、防水性の作業着。帽子を前後ろにかむり、フードをかむる。あの日支給された長靴をはく。今日は軍手ではなく、厚手のゴム手。あの日、ずぶ濡れになった靴は、ちゃんと乾かされて戻ってきて、今は、なかなか履く機会のないままに、扉の脇へ置かれてある。
キュッキュッと靴底を鳴らしながら、青白い光の回廊を歩き、緩やかに照度を上げる空間に立つ。ゲートの脇の細い換気口が開き、ゴロゴロとゲートが引き上げられる。端末の画面に出る矢印は、もう見なくていい。見学は頓挫してしまったが、あの日、斉藤さんに連れられて降りた螺旋階段を、まさにその地下二階まで降りていく。台風と洪水とを難なく過ぎて、廊下で酸素マスクを受け取り、汚水処理のプラントに入る。誰かポンと、僕の肩を叩く。
「今日も早いね」と、斉藤さん。マスクの中で、いつもの笑顔が少し汗ばんでいる。「前田さん今起きたところだから、来たら始めましょう。」
僕はうなずいて、細長い処理槽の奥で、段取りを始めている角さんの脇へつき、水のホースの接続を手伝う。
「あ、おはよー。」と、マスクの中の、いつもの眠たげな顔で角さんは言う。斉藤さんの次の船で来た、ひょろりと背の高いひと。挨拶した日に、首の傷を見せてもらった。
「おはようございます」と僕。「もう一機、使いますよね。」
「うん。じゃあ、任せたね。」と、角さんは、僕が横手に水ホースをつなげた、まるで酸素ボンベのような機械を、よいしょという具合に両手で抱え上げて、処理槽のさらに奥へと入っていく。機械の頭についている、太くて短い排水ホースが、前回の残りの水分を垂らしながら、ズルズルと、角さんのあとをついていく。
僕は残りの一機に水ホースをつなぎ終え、角さんのように抱え上げようとするが。しかし、ことのほか重いこと。おまけに排水ホースのせいで、あちらへ、こちらへと振り回されそうになる。
「コツがいるんだよ」と、僕の後ろで斉藤さんが言う。「後ろ、持ったげるから。」
角さんは、機械を床に置いて、慣れた手つきで、排水ホースを処理槽の下のすき間へ引き回し、脇の乾燥機の下側につないでいる。見よう見まねで、僕もやってはみるものの。処理槽の下のすき間はけっこうシビアで、思うように通ってくれない。そうこうするうちに、太い腕がヌッと、僕の前にあらわれた。排水ホースをつかむ。
「機械、も少し前に出してくれたら、俺つなぐから。」と、前田さん。宇宙船の中で、角刈り頭と、力こぶの見せ合いしていたひと。僕は排水ホースを手放して、機械を押しにかかろうとするけど、前田さんの力だけで、機械がグイグイと前へ出て行く。
「つなげたぁ?じゃあ、フタ、開けよっか。」眠そうな角さん。でもアクビは出ない。「これやらないとぉ、みーんな、生きていけなくなっちゃうから。」そう言って、ハハハと、力なく笑う。
斉藤さんと僕とで、片手ずつ、処理槽のフタの取っ手をつかむ。「ィヨッ!」と、気合を入れて持ち上げる。重っ!。持ち上がるそばから、黒い泥があふれ出す。空調がうなりをあげる。
「あー、カラカラ言ってる。」斉藤さんは、天井の吸い込み口のそれぞれに、耳を向けてみる。「次の班のひとたちに、お願いしなけりゃ。」
角さんはそつなく、前田さんは力技で機械を抱え上げて、泥のなかへ、その先を差し入れるが、しかしなかなか、ウレタンのような黒い泥の中へは、入っていかない。
「水ぅ。」と、角さんが、マスクの中から表情のない顔で、僕を見やる。この顔には、最初はドキリとさせられたものだ。
フタが倒れないのを確かめて、僕はさっき、機械に水ホースを組み付けたところまでとって返し、かがんで、壁から出ているコックに手を伸ばす。ブォォォという、プロペラの回る音が聞こえだす。
「ぶはっ!」という、前田さんの声。振り返れば、前田さんの側から、黒い水しぶきが上がっている。角さんが、前田さんの機械を、グイと引き寄せる。水しぶきは止んだが。しかし、二人とも、泥をかむって散々な姿。斉藤さんは、元よりフタの陰に隠れていて、無事の様子。
「もっと出せ!」前田さんの、マスクのせいでくぐもった、太い声が響く。出し過ぎると、かえって泥があふれてしまうから、単純に全開というわけにもいかない。斉藤さんが僕のほうを向いて、両手で大きく丸を作る。
乾燥機の底からは、ゴボゴボと泥があふれ、コンベアで、一段目の電熱器の下へと運ばれていく。生乾きになった泥は、ローラーで押されて薄い板状になり、二段目の電熱器で焼かれて、養分に富んだ、無菌の土になる。粉砕されたあと、コンベアで中庭におろされ、居住者の食卓にあがる菜園の、新たな土壌として利用される。
「もういいでしょう。水、止めてください。」斉藤さんが、僕に手を振る。泥が引いて、澄んだ水が流れ始めたころあい。角さんと前田さんは、泥の散った床へ機械を寝かせて、水ホースを外しにかかる。
「水ぅ。ちょっとね。」と、角さん。前田さんと、お互い、かむった泥を洗い流す。それからホースを床へ向けて、「いいぞ」と、前田さんは僕に言う。ここからは水全開。処理槽や天井に跳ねた泥を、丁寧に洗う。
角さんは、機械を洗ってから、床の泥を流しにかかる。常に空気が吸われるために、どれだけ濡らしたところで、じきに乾いてしまう。綺麗にしておかないと、虫や動物に侵食されかねず、次に自分らがやるとなれば、気が滅入ることにもなる。それは誰だって同じだろう。
斉藤さんと僕は、機械を引いてきて、コックの向こうの、二つあいた横穴に、それぞれ押し込む。頭までは入らないので、そこへ排水ホースを巻きつける。
「おーい」と、前田さんの声。コックを閉めて、斉藤さんと僕は、水ホースを引っ張りながら、手前のフックへと、巻き収めていく。
「ちょっと出して、私らも洗いましょう。」斉藤さんが、僕にホースの口を向ける。上はフードから、下は長靴の底まで、互いに水をかけあう。まあとにかく、みんなビショ濡れだ。年をとったら、こんな作業はできないだろうなと、僕は思った。
プラントの出口で、酸素マスクと防水服、厚手の手袋をあずけ、長靴は、消毒槽の中でジャブジャブやって。満足げな面持ちで、四人はプラントを出る。青白く縁取られた螺旋階段をのぼりだす。上からの光が眩しい。
「ごくろうさんです。午後は牛をやりますから。」と、斉藤さん。頭上の枝に、小鳥のさえずりが聞こえる。
「あの汚水は、あの先は、どうなるんです?」と、僕は斉藤さんに聞く。
「この中庭の土からの蒸発と、木々の蒸散とで、いわば濾過されて、あの上の換気扇とパイプで」斉藤さんは天井を指差す。「回収されて、生活用水になります。その一部がフィルターを経て、飲用水になる。」
「吸い出した臭いは、どうなります?」と僕。この際だから、聞きたいことは聞いてしまえ。
「場内の排気はすべて、ダクトの中を流れて、一度、月の表面に出るんです。」斉藤さんは、片手の指を上へ向かわせ、その手にもう片方の手の指を、上から降り注ぐ感じで当てて見せる。「そこでは、宇宙線から二次的に出る粒子を適当に減速して、脱臭の効果を持たせてあります。そして」
斉藤さんは、自分らの行く手にそびえる、中庭の周囲の壁と天井とを支えている太い柱の一本の、その一番上のほうを指差して見せる。「あそこら辺から横へ噴き出したのが、中庭を大きく、ゆっくりと巡るうちに、虫や木々や細菌、建材、ホコリなどで成分を調整されて、この地べたで、私らも呼吸する空気になります。」
「だからぁ、変なもの、使っちゃダメだよ。」角さんが、相変わらずの眠そうな顔で、僕らに微笑む。自分の部屋へと、やんわり、歩き出す。
「さあ、飯だ飯だ。」前田さんも、ズンズンと先へ歩いていく。
「私らも、ご飯にしましょう。食べてから、あの泥を見る気には、なれないなぁ。」斉藤さんは、背中越しに、手を振って見せる。みなさん、なんだか楽しそうな。前田さんは飯があるとしても、斉藤さんや角さんは?。僕も、だな。
「ニャア」と、脇の木陰で、猫氏の鳴き声がする。今日もオヤツにありついて、ご満悦の様子。ここにいる動物は、僕の見た限り、オスだけだ。午後から世話に入る牛も、オスしかいない。牛とは言うものの、子牛ばかりだし。
猫氏の隣に座って、僕は木にもたれる。はるか以前の記憶に、こんな景色があったかもしれない。猫氏は、頭をかいてやると、気持ちよさそうに顎を出して、目を細める。この中庭に何匹かはいて、それぞれが誰か彼かからオヤツをもらうので、少々太り気味。イヌやカラス、騒々しい輩は、ここにはいない。
ドヤドヤと談笑しつつ、他の班のひとたちも戻ってくる。僕がここにいることを、誰もとがめない。一人が立ち止まって、僕に声をかける。
「泥の掃除、大変だったでしょう。」港さんは、斉藤さんと同期。小柄ながら、作業服の似合うひと。あそこでは、無理をして、電気工事の下請けをしたのが、最後の仕事だそうな。
「みんなズブ濡れになりました。」と僕。港さんは、うんうんとうなずいて、片手を振って、自室へと戻っていく。科学の進歩。見た目では分からないが。しかし、感電して墜落して、左足を失ったことは、みんな知っている。僕は……。
そうだ。午後も力仕事。飯、食っとかなきゃ。猫氏とお別れして、僕は自分の部屋へと続く、高いゲートの前に立った。
部屋へ戻ると、麦の焦げた、いい香りがする。思い出したように、唾が湧いてくる。机の上に帽子を放りだし、ビジネス・チェアを押して、洗面台の横へ。いい感じに焼けた分厚いトーストが、四角く斜め半分に切られて、編みかごの布の中に、鎮座している。
「さすが」と、思わず声が出る。今日のうちに何もなければ、僕らは明日、これを作る。黄身のトロリとした茹で卵の脇には、ジャムと、バター風味のマーガリン。ジャーマン・ポテトも、いい塩加減。ここでは希少品のコショウも、惜しげなく入っている。牛肉なのを除けば、本場もビックリだろう。
半分くらい、一気に食べてしまったが。しかし、昼の時間は、十分にある。デザートのリンゴを一切れ。紅茶を飲み、気分を落ち着かせる。子供の頃、あそこでは、よく噛んで食べろと言われたなと。ここではおのずと、よく噛むようになる。よく噛むというか、味わうようになる。
机に戻って、完了のボタンをタップする。昼から散水の告知が出ている。うまく水が回ったようだ。午後の仕事は、それからだな。ビジネス・チェアの背にもたれて、あれも自動化すればいいのにと、僕は思う。思ってから、考えてみれば。忘れかけていた。ここは研修所なのだから。
ピピッと、机が鳴る。ここに来て以来、見たことのない長文の告知が、画面に表示されている。
「班長会より居住区のみなさまに。汚水処理プラントの、昨今の故障頻発の状況にかんがみ、本社へ修理改修を打診しておるところです。その返答が来ましたので、みなさまにお知らせいたします。まだ期日は決まっておりませんが、準備が整い次第、緊急の要件として、新たな装置持参で、作業班が派遣されます。おそらくは、次回の物資輸送に伴って、来場するものと思われます。その際、みなさまの日課には、一日から数日の間、汚水貯留の作業が追加されます。方法などについては、追ってお知らせいたします。以上。」
「故障かよ……」思わず声が出る。いやしかし、どんな故障にも、対処していかねばならないのだろう。サーッと、ホワイト・ノイズのようなかすかな音が、窓から聞こえてくる。散水が始まったようだ。僕はビジネス・チェアを立ち、窓辺へ寄る。雨というよりは、霧に近い。見上げれば、けぶった天井の所々から、水が噴きだしている。いずれ、あれも修理しなけりゃならなくなるのか。僕はいつしか、窓枠に添えた手を、握り締めていた。
牛舎と畑とは、地下へ降りる螺旋階段を過ぎて、中庭のもっと真ん中辺りに設営されている。僕は散水が終わってすぐ、中庭に出た。道端の、つややかに光る芝生を眺めながら、螺旋階段を過ぎて、稀に、どこかで水浴びしている小鳥の羽音を聞きなどしつつ、牛舎へと歩く。後ろから、ドシドシと迫ってくる、長靴の音。振り返らずとも、前田さんとは知れる。
「告知見た?」前田さんは、横へ並ぶなり、少し背をかがめて、僕の横顔を覗き込む。「俺、帰ろうと思うんだ。」
「帰る、って?」どこへ?、と聞きそうになって、僕は言葉を呑む。もうすっかり、ここの住人だな。
苦笑いを浮かべる僕の顔を、別の意味で見取って、前田さんは黙ってしまう。
二人並んで歩いている姿は、きっと、僕が子供のころ好きだった、獣人さんの漫画みたいだろう。何となく筋書きを思い出して、僕は微笑む。
「なんだよ。渋い顔したり笑ったり。」隣で前田さんがいぶかる。「まあいいや。ちかぢか来るっていう修理の船に、便乗させてもらうつもりだ。部品をおろしたら、そのくらい余裕はあるだろ。」
僕は、うんうんと、うなずいて見せる。実際、希望すれば無条件で戻れるんだし。希望しなくても、戻されるくらいなんだから。
「ここへ来る前、前田さんは、どんな仕事をしてたんですか。」と僕。宇宙船で乗り合わせた時から、聞いてみたかったこと。
「トレーラー運転してた。運び屋さ。半日かけて荷物を積み込んで、半日かけておろす。ティッシュの箱は辛かった。」ズボンのポケットに手を突っ込んで、前田さんは、中庭のはるかな天井を見遣る。クンクンと鼻を鳴らして、渋い顔になる。
「ンゴォォォ」という、子牛の鳴き声が聞こえてくる。作業、もう始まっているんだろう。
僕らは軍手をして、戸口に立てかけられたフォークを手に取る。とりあえずは、斉藤さんと角さんとで集めた古いワラを、一輪車に積んで、脇の堆肥場へと運ぶ。土をかけて、臭いをおさえる。
ちらりと、斉藤さんたちのほうを見れば、角さんが、僕らを手招きしている。
「これから牛舎へ戻すんですが」と、斉藤さん。角さんは、何かを取りに、牛舎の中へ入っていく。
背後の柵に立てかけてある、黒く塗ったベニヤ板を、斉藤さんはコンコンと、僕らにノックしてみせる。「どれか一頭、二人で、この板で追って、向こうの小屋へ閉じ込めてください。子牛とはいえ、力が強いです。甘く見ないように。」
見渡せば、十頭もいない。次の物資補給船が来るまで、もてばいいくらいの数字。運悪く、一番遠く、小屋の近くに、一頭、草をはんでいる子牛がいる。
角さんが、牛舎の中から戻ってくる。背中にポータブル電源を背負い、手には、磨かれた分厚い電極が先っぽについている、棒状の器具と、アース線のクランプとを持っている。太い一本の電線が、棒をつたって、角さんの肩越しに、背中の電源へ接続されている。
「肉の在庫が不足気味です。」と、斉藤さん。「さばくのは、別の班ですが。私らは、絶命させるところまでです。」
ここへ来て、初めて、嫌な仕事だなと、僕は思った。角さんは、そんなそぶりも見せないが……。
「僕もねぇ、悩んだ。」角さんは、例の表情のない顔で、電極を、僕らの前へ突き出す。「だいじょーぶ。スイッチ、入れてないから。」電極には、研がれて薄くなってはいるが、確かに、焦げた跡がある。
「僕の答えは、言わないョ。」角さんは、いろんな意味で当惑する僕らに、ニッコリと笑って見せ、小屋のほうへ歩いていく。
前田さんが、無言で板を取り、小屋の近くにいる子牛のほうへ、スタスタと近づいていく。僕も板を持って、そのあとを追う。僕らの狙いが定まると、斉藤さんは僕らに近い側から、子牛を牛舎に追っていく。
閉じ込められても、子牛は暴れる様子もなく。おそらくは怯えてしまっているのか、でなければ、何か新しい遊びでも始まるように思っているのか。角さんが、アース線のクランプを、小屋の床に敷かれた金属板につなぐ。
「スイッチ、入れてぇ。」背負ったポータブル電源を、角さんは、たまたま近くに突っ立っていた僕に向けてくる。「右の上の、丸ぁるいツマミ。右にひねって。」
カンッと、スイッチが入る。四角い赤いランプが灯る。ヒューと、電流回路の動作音が聞こえる。角さんは頭をかしげて、その音を確かめてから、小屋を覗き込み、子牛のおでこの位置を確認する。棒を差し入れる。ピーと、ポータブル電源が鳴った。
「そのままでいいです。」いつの間にか、斉藤さんが、僕らの後ろで見ている。「別の班のひとたちが、回収してくれます。スイッチ、切ってあげて。」
「自動で、切れるんだけどー。」角さんは、僕のほうへ、背中を向ける。四角い赤いランプは消えて、ヒューという音もない。スイッチを左へひねると、ただ、カチッという、小さな音だけがした。
「子牛なのは、輸送費の問題ですか。」と、前田さん。「大きいと、扱いも難しそうだ。」
「そうです。」と、斉藤さん。角さんは、道具を置きに、牛舎へと戻る。
「そうですが、それだけではないです。」斉藤さんは、腕を組んで、ちょっと、首をかしげる。話したものかどうか。話して何かになるのか、思案している様子。やおら、斉藤さんは言葉を継いだ。「その生物の文化や秩序を受け継ぐことができるのは、大人だけです。子供に、何の価値があるのでしょうね。」
「子供がいなければ、その生物は絶えてしまいますよ。」と、前田さん。僕は何も言えないまま、二人の問答を聞いている。
「その通りです。だから、沢山生まれてくるんです。時間をかけて、大人を残していくために。」と、斉藤さん。僕らに寂しく微笑んで、牛舎へと歩きだす。
前田さんは、渋い顔をして、何か決意したとでもいうように、うんと、無言でうなずく。僕のことは忘れたふうで、スタスタと、牛舎へ歩いていく。
僕はそこに突っ立ったまま、胸の鼓動を感じていた。僕は気がついた。いや、改めて、確認したと言うべきかもしれない。僕がここへ来た理由。ここが好きな理由。もう何があっても、あそこへ戻ることは、けっしてない。戻っちゃダメなんだ。僕には今、そのことがハッキリと分かった。
4,
雲天の平日火曜日。二十三時を過ぎる頃だろうか。大きく左にカーブした、街灯のない田舎の坂道を、遠方から、二台のマイクロバスがのぼってくる。最初はわずかにエンジンの音が聞こえ、音は次第に大きくなり、路面を照らすヘッドライトの明かりが見えたかと思うと、突然のように目の前にバスが姿をあらわし、大きく右へハンドルを切って、かつてのベンチャー企業、今は大企業の一部門となったユニバス社の敷地内へと乗り入れていく。
真っ暗な倉庫内。グオン、グオンと、電動シャッターが開きだす。マイクロバスのエンジン音はまだ遠く、シャッターがあがるにつれてそれは大きくなり、開ききる辺りで、その二台のマイクロバスが走り込んでくる。バスは並列に停車して、電動シャッターが閉まるのも待たずに、おのおの十名ずつの男女が、時折、ゴム長の作業靴の音をキュッ、キュッとさせつつ、バスから次々に下車していく。
電動シャッターが閉まりきり、パチンというスイッチの音とともに、まばらに灯りだす蛍光灯の冷たい明かりが、倉庫の内部をほの暗く照明する。手前に置かれた四つの大きな銀色の箱の並びにならって、シャッター側に向かい、男女それぞれが五名ずつの隊列を作り、団長らの登場を待つ。キィッ、バタンと、金属製のドアの開閉する音がして、手前から角刈り頭の団長と、スラリとした短髪の女性副団長とが、威厳というよりも事務的な姿勢で、コツコツと軍靴の音をさせながら、隊列の前へとやってくる。
見渡す限り、団員は、男女ともに薄緑色の作業服を着て、同色の帽子をかむり、ズボンの縫い目に中指をあて、ビシッと姿勢を正している。
「マニュアルは理解したか」と、角刈り頭の団長。手を後ろへ組んで、胸を張る。言えば分かる奴らを前にしては、声を荒げる必要もない。
「はい!」と、団員は一斉に返事をする。
「シッ。」団長は白い手袋をした人差し指を、口に当てて見せる。「声がでかい。」
まばらな笑い声が、団員の中で起こる。副団長も、顔を伏せてちょっと笑っている。
「指令書は厳格だが、我々はリラックスして行こう。」団長は片手をあげて、笑いを制する。「作業もたいして難しくない。ただ本当に、今回ばかりは、この地上ではなく、あの月の腹の中で、一度きりのチャンスしかない。ここならば、ヘリでかけつけることもできるが。あそこで応援を呼ぶことはできない。男女の居住スペースは、五キロと離れていないが、どういうわけか、居住者は、互いの存在を知らされていない。たとえ五キロの距離であっても、女が男湯へ、男が女湯へかけつけるわけには、いかないのだ。事を荒立てて成し遂げるのであれば、わざわざ我々が出向く必要はない。」角刈り頭は、振り返って、副団長に話題を譲る。副団長は一歩前へ出る。
「我々はこれから、あくまでも修理屋として、月に乗り込む。」副団長の厳しい口調が、場を締める。「我々が活動中、居住者は部屋に退避させるが、万一、居住者と出会った場合は、挨拶以上の話はするな。ただし、地球への送還を希望する者がいれば、すみやかに、宇宙船へ行くよう指示せよ。荷物はカバンひとつまで。プラグの入手方法、挿入箇所への経路と挿入方法は、マニュアルに従え。完了次第、速やかに離脱する。以上。」一歩下がって、副団長は顔を伏せる。あとを角刈り頭が引き受ける。
「諸君も知っての通り、夕刊真実が伝えたように、ちかぢか、あそこは運用を終わって、主催者の手で、破壊されることになっている。それは表向きではないのかと、世界中が心配している。あれは、我々人類にとって、非常に危険な実験なのだ。といって、事を表沙汰にすれば、とにかく反対したい輩が、きっと出てくる。そうならんように、我々が出向く。今、この世に平安をもたらすことができるのは、我々しかいない。我々がやらなければ、ほかにやれる者などいない。もし、我々のうちの誰かが、あそこに残されたとしても、我々はかえりみない。計画を遂行するまでだ。計画の完了は、最終的に、この建物内の司令室にある、起爆装置の作動によって確認される。地盤を破壊して、構造物をすべて、月の内側へ落とす仕組みだ。観測可能な変化が、月の表面に及ぶことはない。それは、ちかぢか、月への進出を計画している、我が国の首脳部が望む結果でもある。お前らは、俺だけじゃない、全世界百億の人類から、期待されているんだ。それを忘れるな。」
「出発!」副団長の号令に従い、団員は回れ右をする。男女各十名のなかから、おのおの四名ずつが、手前の銀色の箱を二つあて取りに来る。残りの団員が男女それぞれ、別々に左右のドアを出るのにならい、箱のロープ製の取っ手を持った二人一組の団員も、男女おのおの、別々のドアから出て行く。最後に副団長が、キビキビとした身のこなしで、女性陣のあとへと続く。
「吉報を待っている。」角刈り頭が、副団長の背中に敬礼する。副団長は立ち止まり、回れ右をして、答礼を返した。
夕食を済ませた僕は、机の完了ボタンをタップして、表示される明日の日課に、軽く目を走らせる。ピピッと、机が鳴って、これもまた、あの時と同じくらいの、長文の告知が表示される。
「班長会より居住者のみなさまに。かねてお知らせした、汚水処理プラントの機器交換修理が、今晩、行われます。その件で、来場の作業班から、居住者のみなさんに、当夜、守っていただきたい事柄などをお伝えするよう、指示がありましたので、告知いたします。有毒ガスが発生する可能性があるため、居住者は今晩、部屋から出ぬように。殊に中庭への出入りは、ゲートの電源を切りますので、機械的に不可となります。各部屋からの排水については、今晩、極力、排出を控えてほしいとのこと。ただ、新しい機械を取り付けるまで、古い機械にバイパスを作るので、部屋に溜める必要まではないとのことです。最後に、帰還を希望されるかたは、作業班の到着次第、すみやかにハッチへ来るように。手荷物はカバンひとつまでとのことです。以上。」
「ちょうどいいや」と、僕。前田さんとは、もう、会えないのだろう。斉藤さんは、同期の半数が帰還したと言っていた。僕も、前田さん以外、同じ船で来たひとを知らない。まあ、角刈り頭は……。
歯をみがいて、ベッドに身を投げる。自分は、そんなにも、少数派なのかと。それとも、斉藤さんや角さんの時で、出尽くしたということなのか。絶滅という言葉が、僕の頭をよぎる。それもまあ、いいかな。
「ひでぇ星だ……」どこかで聞いたセリフを、僕も呟く。本当に、ひどい星だと思う。横になり、掛け布団を抱き込む。モヤモヤとした気分で、とりとめもないことを思ううち、いつしか眠っていた。
ハッチに着陸した船の中から、防水服を着て、酸素マスクをかむった六人が、一列に連なって、静かにタラップを降りてくる。続く四人の団員が、二つの銀色の大きな箱を携えて、そのあとに続く。
ハッチから伸びる広い通路を、各部屋へと続く脇の廊下へは入らずに、そのまま進んで行く。誰一人、話す者もない。突き当たりの階段を、全員が下へ降り、汚水処理区画よりもさらに下へと降りて、最深部の扉の前に出る。各自、端末を取り出して、扉の前の脇の壁の、四角く囲われた部分へ、おのおの、端末をかざして中へと進む。
天井からの、間のあいたスポット照明の下で、隊列はサイレント・フィルムのひとコマずつのようでもある。時折、中庭の側の壁の中から、ピシッ、ピシッという、何かが押し砕かれるような音が聞こえる。この最深部のフロアは、引力によって生じる、月の内部のわずかな歪みを利用して、発電の研究をしていた場所。歪みを電気に変える結晶が突然に砕けて、飛んできた破片で研究者が死亡したため、現在は放置されている。
廊下は直角に曲がって、さらに先へと伸びている。隊列はしずしずと、道なりに歩いていく。やがて突き当たりとなり、先頭を務める団員が、目の高さにある囲われた部分に端末をかざすと、その突き当たりの壁が内側へと沈み込み、横へ隠れて、各部屋へと続く廊下のような、青白く縁取られた、短い廊下があらわれる。
左右の壁、ちょうど両手が触れる辺りに、すべて違う形で縁取られ、ナンバリングされた部分が並んでいる。先頭の者が、そこを手でなぞりつつ、廊下の奥へと歩くと、その縁取られた部分が壁から剥離し、その部分の裏に固定された、六本の細くて長い、筒状の端子の一部分をのぞかせる。
続く団員らが、それらを壁から、慎重に両手で抜き取り、持参した銀色の大きな箱の中の、それぞれのプラグの形に工作せられた穴の中へ、上から差し込んで収納する。全部で十個のプラグ・セットが、すべて回収せられた。
団員らは隊列を整えて、今度は階段をのぼりにかかる。この階段で、最上階まで、行かねばならない。そこは中庭の天井裏であり、中庭の壁と天井とを支える十本の太い柱が、唯一、コンクリート打ちはなしの、生の表面を晒す場所でもある。
到着した一行は、めいめい、箱の中から指定された番号のプラグを取り出し、その同じ番号がふられている、太い柱のひとつひとつへと向かう。隊列のさきがけをつとめる団員は、しんがりをつとめる団員とともに、おのおの五番と六番のプラグをたずさえ、はるか彼方の柱を目指して、黙々と歩き出す。銀色の箱はその場に放棄せられ、プラグの挿入を終えた団員らは、三々五々、階段を降り、宇宙船へと帰還する。計画上、一番最後に挿入されるこれらのプラグについて、警告するような仕組みは、元よりない。
さきがけをつとめる団員は、今、ようやくにして、五番の柱に到着し、青白く柔らかな照明のなかにそびえたつ、その威厳ある物体の前にひざまずけば、ちょうど肩の高さに、プラグと同じ形状の穴が工作されてある。持参したエア・スプレーのスイッチを入れ、降り積もったチリや、穴の中の接点を吹き清める。おもむろに、持参したプラグを両手でかかげて、まずは番号と上下の間違いとがないことを確認してから、慎重にその穴へと差し入れる。
最後にスッと吸い込まれるように入った感覚があり、プラグに書かれた数字の背景が、ほの青く光る。さきがけをつとめる団員は、そのほの青い光に、うむ、とうなずいて立ち上がり、六番の柱へ向けて歩きだす。
途中、六番のプラグを担当した、しんがりをつとめる団員とすれ違い、軽く片手をあげて、プラグの挿入完了を伝え合う。半周分、五箇所のプラグのほの青い光を確かめて、さきがけをつとめる団員は、階段へと戻る。ややあって、しんがりをつとめる団員が到着し、二人で、足のつくようなものが残されていないか、周囲をくまなく確認する。互いにうなずき、チラリと辺りを見渡してから、二人は階段を降りていった。
深夜、ユニバス社の、月のミッション専用の司令室に、背広を着た角刈り頭が、ひとり座っている。見下ろす端末の画面が明滅して、副団長からの、両船ともに離脱完了の通知が、音もなく届く。背広の胸ポケットに端末をしまい、角刈り頭は、グイと、背広の襟を引き締める。ユニバス者の襟章が、モニターの光に鈍く輝く。
上着のポケットに手を入れると、かねてから準備しておいた、二個の小さな鍵が、指先に触れる。その存在を確かめて、椅子から立ち、角刈り頭は、最前列の責任者の席へと、ゆっくりと降りていく。
指令席のコンソールの、その一角だけ、更新のたびに切り取られて、はめ込まれてきた、古めかしい、傷だらけの、五インチほどの液晶タッチパネルがある。左右の鍵穴にこの鍵を差し、回してやれば、電源が入る。ドラマのように、同時に回す必要はない。月のほうで、プラグが完全に差し込まれていれば、パスワードを要求する画面と、ソフト・キーボードとが表示されるはず。
角刈り頭は、上着のポケットから、小さな鍵を取り出し、ひとつずつ、鍵穴にさす。ギュッと拳を握り締めて、力を解き、ひとつ、またひとつ、鍵を回す。確かに、画面には“PASSWORD?”の文字と、自分の指には小さい、アルファベットのみが順番に升目に並んだソフト・キーボードとが、表示されている。
こんなもんだろうと、角刈り頭は苦笑する。内の胸ポケットに手を入れ、タッチペンを取り出す。ソフト・キーボードの上をさまよいながら“DAWN”と入力し、一番下の、横に細長く表示されたエンター・キーを押す。内の胸ポケットに、タッチペンを戻して、角刈り頭は結果を待つ。ややあって、画面が暗転し、数行の文章が表示されたが。しかし、文字が小さくて、角刈り頭は、両手をコンソールに置き、それを支えにして、画面にグッと頭を近づける。
“THE SELF-DESTRUCT CIRCUIT
WAS SAFELY LOCKED DOWN.
NOW, ERASING SOFTWARE."
その下の表示が、五分の一、五分の二と、秒単位で分子の数字を上げてくる。角刈り頭は、両手の拳で、ガンガンと、コンソールを叩きつけるが、しかしそれも虚しく“COMPLETE”の表示。司令室のモニターが、その古風な液晶タッチパネルのみを残して、一斉に暗転する。角刈り頭の、赤く握り締められた両手の拳のなかで、画面が暗転し、新たな表示があらわれる。
“YOU CAN TYPE THIS LETTER
INTO YOUR OWN CONSOLE
"DONE" THAT IS OUR SELF-
DESTRUCT PASSWORD.
WHO KNOWS IT WAS
SUCCESSFUL OR NOT?”
握り締められた拳が、次第に開いていく。
仕事明け、喫茶「夜明け」で、内藤はひとり、ホット・コーヒーを楽しんでいる。佐々木さんは初孫の誕生日。福ちゃんはトルコ辺りで、何か買い付けをしているらしい。今日のコーヒーは格別に美味いと、内藤の顔が言っている。
「ありがとうございます」と、店主に見送られ、内藤は地下一階の踊り場から、階段をのぼり、地上へと出る。ビルの高さすれすれに、ポッと、明るい月が出ている。ズボンのポケットに手を突っ込んで、内藤は道行くひとびとの流れに呑まれ、タクシー乗り場まで歩く。ビル街を抜けると、タクシーの窓からも、月が見えだす。
「済んだよ親父。」内藤は呟く。もしも人が、この先も続いていくのだとすれば、彼彼女らは、いずれは、お互いの存在に気がつくだろう。月を見上げて、内藤は微笑む。あの人たちは、何と呼ばれるんだろうな。宇宙人?、月の人?。
馴染みの、近所の商店の看板が見えてくる。今日の道は、割とスムーズだったなと、内藤は来た道を振り返る。座席に身をゆだね、両手を腹の前に組んで、目をつむる。たのむぞ、と、内藤は心の中で呟いた。
(おわり)




