花影
─────あの瞬間、俺は変わらないでいてほしいと思った。
高二の春、クラス替えで隣になった君が、俺のふざけた自己紹介で笑った。その日から、毎日君を想った。
何を言えば笑うのか。何をあげれば喜ぶのか。何が好きなのか。
俺の隣で、楽しそうに笑ったり、落ち込んで俺に頼ってくる君が、愛おしかった。
だけど、同時に俺の中の臆病者が囁いてきた。「このまま君の隣に居たい」と。
• ───── ✾ ───── •
初々しかった俺たちが、少しずつこの場所に慣れた頃。
初めての後輩やクラス替えで浮かれていた時期でもある。
新しいクラスでの自己紹介。
俺は恥ずかしさを隠すために、敢えてふざけた。
別に目立ちたいとか、そういうわけではない。
クラス中が笑った時、俺の横でも小さく肩が揺れていた。その顔が可愛くて、一瞬にして心を奪われた。
彼女と仲良くなるのに、時間は掛からなかった。
お洒落が好きな彼女は、ファッション誌を読むのが趣味らしく、いつも艶やかなリップを付けていた。それがまた魅力的で、熟れたサクランボのような深い紅色がよく似合っている。
授業中、ふと視線を向けると、君はノートに何かを書きながら小さく笑った。
その動作ひとつで、俺の心はまた少し持って行かれた。
先生の声が遠くに聞こえる中、俺はただ君の隣にいる時間を愛おしく思っていた。
うたた寝をして、サラサラと流れ落ちる髪も。テニスコートを見ている横顔も。教科書をめくる指先にさえも、魅力を感じてしまう。
「一緒に帰ろう。」
初めて誘った時は、恥ずかしくて君の顔を見れなかった。
その帰り道は、特別なことなんて何もなかった。
ただ、他愛もない話をして、同じ道を並んで歩くだけ。
それでも、隣に君がいるというだけで、いつもの景色が少しだけ違って見えた。
夕焼けに染まる空も、伸びた影も、全部がやけに鮮やかで。
この時間が、ずっと続けばいいと、本気で思った。
もし、このまま彼女の手を取ったら、どうなるだろうか。
俺は、これ以上踏み込めば何かが壊れてしまうような気がして、自分の右手をそっとポケットにしまった。
そして、彼女の話に笑って返した。
その日から、毎日俺たちは一緒に帰った。
他愛もない話をして、同じ道を並んで歩くだけの時間。
それが、いつの間にか当たり前になっていた。
ある日、君の様子が少しだけ違って見えた。
俺の話で、笑ってはいるけれど、どこか無理をしているような。
俺は、彼女をいつも通る川辺のベンチに連れて行き、話を聞いた。
彼女には、好きな人がいるらしい。
同じテニス部の、ひとつ上の先輩。
いつもならスラスラとでるはずの言葉が、何故か喉でつっかえて出てこない。
もし、初めて帰ったあの時、俺が手を握っていたら先輩を好きになることは無かったかもしれない。
などと、余計なことばかり考えてしまう。
彼女は続けて話した。
先輩とふたりで出かけたいと。
俺は、ただ彼女を応援することしか出来なかった。彼女の隣にいれるだけでいいと、言い聞かせた。
その日から、決まって彼女は「そいつ」の話をした。
俺はそれを、余裕なフリして、いつも通りに返した。相槌を打っては、ただひたすら隣を歩く。
これでいい。そう思うようにした。
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それから数日後、この日はやけに彼女の口数が少なかった。いつもなら弾む「そいつ」の話も、今日はしなかった。
俺はこの日も、彼女を川辺のベンチに誘った。
彼女を座らせ、俺は近くの自動販売機でいちごミルクを買う。
珍しく静かに俯く彼女に差し出して、何も言わず、ただ隣に座った。
彼女の目から流れた一粒の涙にも、気付かないふりをして。
段々と橙色に染まる空を、二人で眺めた。
きっと、俺たちはそれぞれ違うことを考えていたのだろう。
ゆっくりと流れる時を、静かに過ごした。
鳥の声や、流れる川の音。虫の音、通り過ぎる電車や自転車。草の擦れる音と風。
そのすべてが、やけに鮮明で、鮮やかだった。
次の日、彼女はいつも通り、綺麗に切り揃えられた前髪と毛先を揺らしながら、俺に近付いてきた。
その姿は、昨日とは打って変わって、どこかすっきりして見えた。
その日は、帰り道の途中で、お肉屋さんのコロッケを買った。
いちごミルクのお礼だと、彼女は笑う。
それからも俺たちは、帰り道にあるいろんな店を開拓しながら、毎日並んで歩いた。
それでもやっぱり、その時間がずっと続くことはなかった。
いつも通りの帰りの会。先生が一枚の紙を配った。
「進路希望調査」と書かれた紙。
その一枚で、俺は一気に現実に引き戻された。
彼女は、この紙に何を書くのだろうか。
次第に、彼女と並んで歩く日が減っていく。進路相談や、部活の引退試合。
どんどん目の前に迫る「終わり」に、俺は押しつぶされそうだった。
怖い。
当たり前がなくなること。新しい日常が始まること。
そして、彼女が俺の隣にいなくなること。
だけど、時間は止まらなかった。
気付けば、季節は巡っていた。
進路活動も流れるように終わって、この制服に袖を通し、ここに来るのも明日で終わりだ。
空っぽの机と教室が、変わることへの恐怖を、静かに突きつけてくる。
窓の外には、満開に近い桜が咲いている。
暖かくなりはじめた外の空気も、どこか寂しさを帯びていた。
• ───── ✾ ───── •
次の日、卒業式。
思っていたより、俺は落ち着いていた。
体育館中がざわざわと騒ぐ中、俺は自然と、あの横顔を探してしまう。
胸ポケットに差してあるピンクの造花。
風に乗って舞う桜の花びら。
沢山の桃色の中に、ひとつ、深い紅色を見つけた。
彼女は、今、何を思っているのだろうか。
――やがて式は終わり、俺たちはそれぞれの道へ向かう。
友達と写真を撮る者もいれば、両親と抱き合う者もいる。
興味ないと言わんばかりに、そそくさと帰る者も。
俺は一通り、友達と語り合ったあと――
また、あの紅色に惹かれた。
変わらないものなんて、ない。
どんなに恐れても、時間は刻一刻と進んでいく。
それでも、俺は。
「……よし。行くか。」
ボロボロになったローファーで、一歩踏み出した。




