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7. 可算域

 山道に入ったのは、日が昇りかけた頃だった。

 県境の町はまだ眠っていて、商店のシャッターはすべて閉まっている。飯坂の運転する車だけが、白み始めた空の下を進んでいた。


 夜と朝の境目のような時間帯だった。目は覚めているのに、頭の奥がまだ現実に追いついていない。

 だが、こういう時間にしか動けない、という感覚もあった。


 三日しかない。

 そう考えると、これ以上、日を無駄にする余裕はなかった。


 飯坂の運転する車は、県境の町を離れるとすぐに速度を落とした。

 舗装はされているが、幅は狭く、対向車が来ればどちらかが止まらなければならない。

 カーブの先は見えず、森が道に覆いかぶさるように迫っている。


「前に来たときも、こんな感じだったな」

 私が言うと、飯坂は前を見たまま頷いた。

「うん。変わってない」

 フロントガラスの向こうで、木々の影が流れていく。日差しはあるのに、妙に薄暗い。

 ラジオはつけていなかった。電波が入らないのもあるが、音があると集中できない気がした。


「で、まず何をする?」

 私が聞くと、飯坂は少し考える素振りを見せてから答えた。

「今日は、止めない」

 即答だった。

「今日は、位置を確かめる。どこに席が用意されるのか。誰が関わってるのか。どこまでが“村”で、どこからが“外”なのか」

 それは、取材としては正しい判断だった。だが、時間がないことを考えると、悠長にも思える。

「三日しかないんだぞ」

「だからこそ」

 飯坂はハンドルを切りながら言った。

「いきなり壊しにいくと、次の空席が生まれる。前と同じ」


 前――

 一年前、取材が凍結されたときのことだ。

 編集長が消え、計画が白紙になり、誰も続きをやらなかった。いや、正確には「やれなかった」。

「今回は、壊す前に“形”を知る」

「形?」

「空席が、どうやって作られてるのか」


 飯坂は、バックミラー越しに私を見た。


「席そのものじゃない。並べ方。数え方。呼び方」

 その言葉を聞いて、私は編集部の光景を思い出した。

 誰もいないのに、誰も疑問を持たなかった席。

 存在しない人間の名前を出した私のほうが、異常扱いされたこと。


「……配置か」

「そう」


 車は、ゆるやかな下りに入った。森が途切れ、視界が開ける。

 小さな盆地に、畑が点在している。

 五百田村だ。


「今日やることは三つ」

 飯坂は、指を一本ずつ立てる。

「一つ。村に入っても、“取材者”にならない。

 二つ。席を数える。公民館、神社、集会所、全部。

 三つ。私が、どこまで“見えているか”を確認する」


 最後の項目だけ、少し声が低かった。

「見えているか?」

「村の人に、私がどう映ってるか。まだ“人”として扱われてるのか、それとも――」


 言葉が、途中で切れた。

 私は、続きは聞かなかった。聞かなくても、わかる。

「俺は?」

「島野くんは」


 飯坂は少しだけ、間を置いた。

「覚えて、書く。今日見たことを、全部」

 それは役割分担であり、宣告でもあった。

 記録される者と、記録する者。

 座る可能性がある者と、座らない者。


 村の入口を示す古い標識が見えてきた。

 色あせた文字で、「この先 五百田村」と書かれている。


「ここから先は」

 飯坂が言う。

「もう、戻れないと思ってたほうがいい」


 私は、頷いた。


 村に入るというより、配置の中に踏み込む。

 そんな感覚があった。


 車は減速し、やがて静かに村の中へ入っていった。

 席は、もう用意されている。


 あとは、それを――

 どう扱うかだけだった。


・・・


 村に足を踏み入れた瞬間、空気の密度が変わった。

 山間の村特有の、湿り気を含んだ冷気。だが、それだけではない。

 音が、やけに整っている。遠くで鳴く 鳥の声も、畑に鍬を入れる音も、すべてが一定の間隔を保って、こちらに届く。


 不意に、大きな音が混じることがない。

 私は、無意識に歩調を落とした。


 足音が、砂利道に吸われる。跳ね返ってこない。

 振り向いても、背後は同じ風景のままだ。


 ――おかしい。


 そう思ったときには、すでに私は「数」を見始めていた。

 道沿いの家屋。

 瓦屋根の家が三軒、トタン屋根が一軒。

 その並びが、少し進むと繰り返される。

 畑の畝。

 まっすぐに引かれた線が、視界の端まで続いている。


雑然としたものがないわけではない。農具が立てかけられている場所もあるし、洗濯物が干された軒先もあ る。

 だが、どれも「そこにあるべき位置」に、ぴたりと収まっている。


 私は、公民館の前で立ち止まった。

 白い壁に、引き戸が二枚。

 掲示板が一つ。

 以前来たときと、まったく同じだ。位置も、距離感も。

 そのはずなのに、記憶と現実が、うまく重ならない。


 掲示板に貼られた紙に目をやる。


《慰霊講》


 それだけが、大きく書かれている。

 日時も、詳細もない。あるいは、あったのかもしれないが、視線がそこに止まらない。


 目線を移し、窓から中を覗く。

 壁際に寄せられた長机が、六台。

 私は、意識的に数えた。


 四。

 前と同じだ。


 椅子は――十三脚。


 数え終えた瞬間、胸の奥がざわついた。

 増えたまま、変わっていない。まるで、最初から決められていた数のようだった。


 視線を上げると、少し離れた畑の前で、飯坂が村人に声をかけているのが見えた。


「おはようございます」

 柔らかく、しかし通る声。

 年配の女性が、作業の手を止めて振り向いた。

「早いねえ。泊まりかい?」

「はい。昨日から」


 飯坂は、宿の名も、用件も言わない。聞かれたことだけに答える。

「もうすぐ、催事がありますよね」

 女性は、一瞬だけ、飯坂の後ろ――公民館の方向を見た。

「まあ……あるね」

「準備、大変じゃないですか」

「慣れてるから」


 その言い方に、感情が乗らない。肯定でも否定でもない、ただの事実確認。

 私は、その会話を聞きながら、再び椅子に目を戻した。

 余った一脚は、壁際でも、中央でもない。

 視界の隅に、自然に紛れる位置に置かれている。


 ――誰の席だ。


 そんな疑問は、言葉になる前に、霧散した。

 この村では、その問い自体が、成立しない。


 飯坂は、別の男性にも声をかけていた。

「神社のほうも、準備されてますか?」

「まあ、いつも通り」

「外から、人は?」


 男性は、はっきりと首を振った。

「来ないよ」

 その一言で、私の中の何かが、かちりと音を立てて噛み合った。


 来ない。

 増やさない。

 数を、変えない。


 神社へ向かう坂道は、以前よりも長く感じられた。

 石段の前で立ち止まり、私は一段ずつ、数えながら上った。


 二十七段。


 踊り場に立った瞬間、背後の村が、遠く感じられた。距離ではなく、位相が違う。

 境内には、すでに椅子が運び込まれていた。

 まだ並べられてはいないが、数だけは揃っている。


 飯坂が、遅れて階段を上ってきた。

「どう?」

「配置は変わってない」

「人は?」

「少ない。でも、足りてる」


 飯坂は、少し考えてから言った。

「私ね」

 声を落とす。

「さっきから、名前を呼ばれてない」

「呼ばれてない?」

「うん。話は続く。でも、『あなた』とか、『そっち』とか。指示語ばっかり」


 私は、彼女を見た。

「そんなの、当たり前じゃないのか。初対面なんだろう」

 そう言うと、飯坂は首を横に振った。

「違う。前は呼ばれてた」

 私は、視線を彼女に向けた。

「一年前。ここで取材したとき、何人かとは直接話してる。苗字も下の名前も、普通に」

 境内の端で、さきほど話していた年配の女性が、こちらを見ている。目は合う。確かに、こちらを“見て”いる。


 だが、その口は動かない。

「今はね」

 飯坂は、静かに言った。

「話は成立する。でも、『飯坂さん』が出てこない。『あなた』とか、『そっち』とか、そればっかり」

私は、もう一度、村人たちを見回した。


 視線はある。応答もある。

 けれど、名前だけが、抜け落ちている。


「……記憶から削られてる、って感じか」

「うん。席が余る理由、少し分かった気がする」

 飯坂は、境内に運び込まれた椅子に目を向けた。

「人が減る前に、名前が減る」


 確かに、村人の視線は飯坂を捉えている。だが、焦点が合っていない。

 人を見るというより、空間の一部を確認しているようだった。


「でも、無視はされてない」

「されてない。でも……」

 飯坂は、神社の境内を見回した。

「数に、入ってない気がする」

 飯坂は、そう言ってから、一拍置いた。

「ねえ。これ、多分だけど」

 私を見る。

「完全に消える前に、段階がある」


 名前が呼ばれなくなる。

 記録に残らなくなる。

 それでも、まだ“そこにいる”。

 私は、喉の奥で息を詰めた。

「……急がないと、本格的にまずいな」

 思ったより、声は落ち着いていた。

 飯坂は、苦笑に近い表情で頷いた。

「うん。だから、今日がある」


 太陽が、少しずつ高くなっていく。

 影の位置が、ゆっくりと動く。


 だが、椅子の数だけは、変わらない。

 私は、それを忘れないように、頭の中で何度も数え直した。


 数えられるもの。

 数えられないもの。


 可算と不可算の境目が、今、ここにあった。


・・・


 神社を離れたとき、空はすでに夕方の色を帯び始めていた。


 境内にいたときよりも、外の空気は軽いはずなのに、胸の奥に残る圧迫感は消えない。私は何度も振り返りそうになる衝動をこらえながら、飯坂の半歩後ろを歩いた。

 村道に出ると、人の気配が急に増えた。


 昼間の祭りの準備だろう。家の前を掃く音、軽トラックのエンジン音、子どもを呼ぶ声。

 どれもごくありふれた光景だ。

 それなのに、どこか借り物めいて見える。


「……普通なんだよな」

 思わず、口をついて出た。

 飯坂が振り返る。

「何が?」

「全部だよ。催事の準備も、人の数も」

 私は、道の先に見える公民館を指さした。

「異常なのは、あそこと神社だけだ。なのに、村全体がその延長線上にある気がする」

 飯坂は、少し考えるように視線を落とした。

「“場”が決まってるんだと思う」

「場?」

「信仰が成立する場所。神社と、公民館。あとは……」


 彼女は、言葉を切った。

「席が置かれるところ」

 私は、歩きながらメモ帳を取り出した。

 ページを開いた瞬間、違和感が走る。


 書いたはずの文が、途中で途切れている。


 ――椅子:十三脚


 午前中に書いたメモだ。

 確かに、そう書いた記憶がある。

 だが、今、紙の上に残っているのは、


 ――椅子


 それだけだった。


「……飯坂」

 声が、少し低くなる。

「このメモ、見てくれるか」

 彼女が覗き込む。

「どうしたの?」

「数を書いたはずなんだ。椅子の数」

 飯坂は、黙ってページをめくった。

 他のページには、祭りの日程、公民館の掲示、村人の証言が並んでいる。どれも残っている。

 数だけが、抜け落ちている。


「島野くん」

 飯坂が、静かに言った。

「それ、いつ書いた?」

「神社に行く前だ」

「じゃあ……」

 彼女は、言い切らなかった。

 私は、ペンを握り直し、空白の横に書き足した。


 ――十三


 インクは、はっきりと紙に染み込んだ。

「今は、書ける」

「うん」

 飯坂は頷いたが、その表情は硬い。

「でも、残るかどうかは別だね」


 車に戻る途中、何人かの村人とすれ違った。

 挨拶を交わす。返事はある。視線も合う。


「やぁ、今日は暑いね」

 そう声をかけてきた男性は、飯坂ではなく、私のほうを見て言った。

 私は反射的に応じる。

「そうですね」

 男性は満足そうに頷き、去っていった。


「今の」

 飯坂が、小さく言う。

「私、見られてなかったよね」

「……ああ」


 視線は私に固定されていた。

 飯坂は、風景の一部のようだった。


 宿が見えてきたとき、私は、はっきりと自覚した。

 これはもう取材じゃない。

 情報を集めているつもりで、こちらが削られている。


「今日の夜」

 私は、宿の前で立ち止まった。

「もう一度、神社の周りを見たい」

 飯坂が、即座に頷く。

「私も」

 ためらいはない。逃げ道を探す素振りもない。

「多分、夜になると“数”が動く」

「減るのか?」

「入れ替わる」

 飯坂は、そう言った。

「席が、人を選ぶ時間帯」

 私は、空を見上げた。


 夕焼けが、山の稜線に引っかかっている。

 その光が消える前に、やらなければならない。


「……本当に、急がないとまずいな」

 今度は、独り言ではなかった。

 飯坂は、短く笑った。

「うん。もう、戻る余裕はない」

 宿の戸を開けると、鈴の音が鳴った。


 その音が、やけに大きく響いた気がして、私は一瞬、振り返った。

 村は、変わらずそこにあった。

 減っているのは、気配だけだ。

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