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5. 名の抜け殻

 宿に戻ったのは、夜もだいぶ更けてからだった。

 町の灯りはまだ点いているが、人通りは少ない。

 昼間の賑わいが嘘のようだ。


 部屋に入ると、私は靴を脱ぎ、椅子に腰を下ろした。

 飯坂は、窓際に立ったまま、外を見ている。


「整理しよう」

 私が言った。

「うん」

 彼女は振り返らずに答えた。


 私はノートを開いた。

 白いページに、箇条書きで書いていく。


 祭りは、毎年行われている。

 外向きには、ほとんど知られていない。

 昼間は、普通の地方の小規模な祭り。

 夕方、村外れの神社に集まる。

 長机と椅子。

 椅子は足りていない。

 一つだけ、必ず空く。

 誰も座らない。

 誰も触れない。

 本殿の御神体は置かれていない。

 空であることが、前提になっている。


「信仰対象が、ない」

 私が言う。

「あるよ」

 飯坂は、静かに言った。

「”空いてる”ってこと自体が」


 私はペンを止めた。

「記号みたいなものか」

「どっちかというと、配置かな」


 配置、という言葉が、頭に残る。


 編集部のフロア。

 古田の机。

 誰も使わないが、撤去もされない。


「似てるな」

 私が言うと、

「だから、繋がってる」

 飯坂は言った。

「村の中だけの話じゃない」


 私は、別のページを開いた。


 一年前の取材チーム。

 編集長の失踪。

 計画の凍結。


 そして、今回。

 古田が消えた。


「共通点は」

 私が言いかけると、

「祭り」

 飯坂が即座に答えた。

「正確には、あの神事のタイミング」

「でも、今回は何も起きなかった」

「起きてないように見えただけ」


 私は、昼から夜までの光景を思い返す。

 誰も、焦っていなかった。

 誰も、何かを待っているようには見えなかった。


 それでも、空席だけは、最後まで残っていた。


「来なかった、のか」

「かもね」


 飯坂はそう言って、初めて椅子に座った。


「空席は、結果じゃない」

 彼女は続ける。

「私は、余地だと思ってる」

「余地?」

 私が聞き返すと、彼女はようやくこちらを見た。


「長いこと見てきて、そう思うようになった」

 少し言葉を選んでから、飯坂は言う。

「この村は、何かを祀ってるんじゃない」

 私は黙って待った。


「空いている状態そのものを、残してる」


 神社での光景が頭をよぎる。

「誰かのため、とかじゃない。空席であることが大事なんだよ」

「信仰、なのか」

 私がそう言うと、

「たぶんね」

飯坂は頷いた。


「言うなら……()()()()、ってところ」


 その言葉は、説明というより、彼女自身が長い時間かけて辿り着いた呼び名のようだった。


「だから、埋めない。埋めたら終わるから」

 私は、神社の本殿を思い出す。

 何も置かれていなかった台。

 そして、誰も座らなかった椅子。


「信仰対象が“ない”ことを、守っているのか」

 私が言うと、

「うん」

 飯坂は短く答えた。

「なくならないように、ね」


 私は、ノートを閉じた。

 整理はできた。

 だが、安心できる要素は、一つもない。


「記事にするには」

 私が言うと、

「まだ早い」

 飯坂は首を振った。

「書いたら、広がる」

 その言葉で、私はようやく、この取材の異質さを理解した。


 これは、暴く話じゃない。

 触れた時点で、配置が変わる話だ。

 窓の外で、車が一台通り過ぎた。

 その音が、やけに大きく聞こえた。


 私は、無意識に部屋の椅子を見た。

 足りている。

 余りはない。


 それでも、何かが座る場所を、探している気がした。


・・・


 編集部に戻ったのは、祭りの翌々日だった。

 県境の町から始発に近い列車に乗り、昼前には都心に着いた。

 車内では、ほとんど眠れなかった。


 神社の境内で見た光景が、何度も反芻される。

 椅子が一つ、誰のものでもない顔をして空いていたこと。

 誰もそれを不審に思っていなかったこと。

 そして、あの場にいた全員が、どこか安堵していたように見えたこと。


 編集部のある雑居ビルに入ると、空気が一気に現実へ引き戻された。

 コピー機の音、キーボードを叩く乾いたリズム、コーヒーの焦げた匂い。

 見慣れた光景だ。


 ――少なくとも、見慣れているはずだった。


 自分のデスクに鞄を置き、椅子に腰掛ける。

 モニターを立ち上げる前に、私は無意識に、フロアの一角を見た。


 古田の席。

 相変わらず、空いている。


 だが、その「空き方」が、以前と違う気がした。

 書類が積まれていないわけでもない。

 椅子も引かれている。

 誰かが一時的に離席しているような、あまりにも自然な状態だ。


 ――なのに、誰もそこを使わない。


 新しく席が割り振られることもなく。

 周囲の記者たちは、まるでそこに席など存在しないかのように、視線を滑らせて仕事をしている。


 私は編集長のデスクに向かった。


「お疲れさまです」

 編集長は顔を上げ、短く頷いた。

「取材、どうだった?」

 私は一瞬、言葉を選んだ。

「……取材自体は、ある程度まとまりました。ただ、追加で確認したいことがありまして。飯坂と連絡を取りながら、もう少し現地を――」


 そこで、編集長の手が止まった。

 キーボードの上で、指が静止している。

「……誰?現地の人?」

 私は聞き返した。

「え?」

「今、誰って言った?」

 胸の奥が、ひやりと冷えた。

「飯坂です。一年前、ここを退職していった――」


 編集長は、困ったように眉を寄せた。

 だが、それは記憶を辿ろうとする仕草ではない。

 まるで、初めて聞く単語の意味を測りかねているような顔だった。


「そんな名前、うちにいたか?」

 冗談ではなかった。声の調子も、表情も、あまりにも自然だ。

「……いましたよ。取材チームに。古田さんも一緒で」

 編集長は、少しだけ顔を上げた。

 困惑ではない。

 むしろ、警戒に近い視線だった。


「古田?」

「ほら、あの席にいた——」

「……お前、大丈夫か?」


 声の調子が変わった。

「うちに、そんな人間はいなかったぞ」

「でも、あの席は——」

「席?」


 編集長は、フロアを見回した。

 そして、何もない場所を見るような目で、言った。


「お前、疲れてるんじゃないか。取材、少し休め」


 私は、それ以上何も言えなくなった。

 喉の奥で言葉が絡まり、うまく形にならない。

 編集長は、すでに別のメールに目を落としていた。

 話は終わった、という態度だった。


 自席に戻り、私は過去の取材データを開いた。

 一年前の五百田村取材。

 共有フォルダの中に、確かにあったはずのファイル群。


 だが、そこには。


 ――誰の名前も、記されていなかった。


 写真のクレジットにも、原稿の下書きにも、人の痕跡が見当たらない。

 まるで最初から、存在していなかったかのように。


 私はスマートフォンを取り出した。

 飯坂とのメッセージ履歴は残っている。

 だが、送信者名の欄が空白だった。


 アイコンも、表示されない。

 文章だけが、そこにある。


〈無事に戻れた?〉

〈次、どうするかは、ちゃんと話したほうがいい〉


 私は、指が震えるのを抑えながら、返信を打った。


〈編集部で、君の名前が通じなかった〉


 少し間があって、返事が来る。


〈そう〉


 それだけだった。

 続けて、もう一通。


〈たぶん、始まってる〉


 私は、画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。

 編集部のざわめきが、遠くで鳴っている。

 誰かが笑い、誰かが電話を取る。そのすべてが、世界が正常に回っている証拠のようで、ひどく不安だった。


 私はふと、古田の席を見た。

 椅子が、ほんの少しだけ、こちらに向いている気がした。

 座ることを、待っているように。


 ――いや。


 そう思った自分自身に、ぞっとした。

 私は目を逸らし、メモ帳を開いた。飯坂の名前を、はっきりと書き込む。何度も、消えないように。


 記録する。書き留める。忘れない。

 それが、今の私にできる唯一の抵抗だった。


・・・


 編集部を出たのは、日が落ちきる少し前だった。


 ビルの外に出ると、夕方の風が思ったより冷たかった。駅へ向かう人の流れに身を置きながら、私は何度もスマートフォンを確認した。画面に表示されるのは、名前のない相手とのやり取りだ。


〈今、どこにいる?〉


 返事はすぐに来た。


〈駅の近く。前に話した宿〉


 私はそのまま改札を通り、電車に乗った。

 行き先は、県境の町。ここ数日のあいだに、何度も往復した路線だ。

 車窓に映る自分の顔は、どこか現実味を欠いて見えた。


 ――疲れているだけだ。


 そう言い聞かせても、編集長の言葉が頭から離れない。


『お前、なんかおかしいぞ』


 おかしいのは、私なのか。

 それとも、世界のほうか。


 列車は山間部に入り、車内の明かりが窓に反射するようになった。

 トンネルを抜けるたびに、スマートフォンの電波が不安定になる。やがて、完全に圏外になった。


 町に着いたのは、夜だった。

 改札を出ると、飯坂はすでにそこにいた……はずだった。


 人はいる。数人が、壁際に立ってスマートフォンをいじっている。

 だが、彼女の姿が見当たらない。私は一度、周囲を見回し、それからもう一度、同じ場所を確認した。


 ――確かに、ここだ。


 そのとき、背後から声がした。


「島野くん」


 振り向くと、飯坂が立っていた。

 少し痩せたように見えた。あるいは、そう感じただけかもしれない。

 だが、立ち位置が微妙だった。人の流れの中にいるのに、どこか輪郭が曖昧で、視線が自然と逸れてしまう。


「待たせたか」

 私がそう言うと、飯坂は首を振った。

「ううん。今、着いたところ」

 声は、いつも通りだった。


 駅を出て、宿まで歩く。夜道は静かで、街灯の下を通るたびに、彼女の影が私の影と重なったり、ずれたりした。

 宿の受付で、飯坂が名前を告げた。


「一名で、予約しています」

 私は思わず、彼女のほうを見た。

「……二名じゃないのか」

 飯坂は、少しだけ困ったように笑った。

「ね。そう思うよね」


 受付の男性は、特に疑問を持たなかった。鍵を差し出し、「お一人様ですね」と念を押すこともない。

 最初から、数は決まっている、という顔だった。


 部屋に入ると、椅子が一脚、余っていた。

 テーブルに対して、明らかに多い。だが、それが不自然だとは感じなかった。

 むしろ、最初からそういう配置だったように思えた。


 飯坂は、その椅子を避けるようにして、ベッドの端に腰掛けた。


「編集部、どうだった?」

 私は、昼間の出来事を簡単に話した。

 編集長の反応。古田の名前が通じなかったこと。自分のほうがおかしいと言われたこと。

 飯坂は、黙って聞いていた。


「……やっぱり」

 そう呟いてから、彼女は私を見た。

「ねえ、島野くん。今日、誰かに声をかけられた?」

「いや」

「編集部でも?」

「……特に。自分から話しかけることはあったが」


 飯坂は、小さく息を吐いた。

「最近ね。私、名前を聞かれなくなった」

「聞かれなくなった?」

「うん。『何名様ですか』は聞かれる。でも、その先がない。書かれない。呼ばれない」


 彼女は、自分の手を見つめた。


「村の人たちも、そうだった。最初は、私のことを見て話してた。でも、だんだん……視線が、少しずつ外れるようになった」


 私は、何も言えなかった。

「たぶんね」

 飯坂は、静かに続けた。

「もう、次の席が決まりかけてる」

「……それが、君だと?」

「可能性は高い」


 断定ではなかった。だが、否定でもない。

 沈黙が落ちた。部屋の中で、エアコンの低い音だけが鳴っている。


「でも」

 飯坂は顔を上げた。

「まだ、完全じゃない。島野くん、あなたが覚えてる」

「覚えてるだけで、どうにかなるのか」

「なるかもしれない」


 彼女は、はっきりと言った。

「空席はね、誰の席でもなくなったときに完成する。だから――」

 言葉を切り、彼女は余っている椅子を見た。

「まだ、座らなければ、間に合う」


 私は、その椅子から目を逸らした。

 胸の奥で、時間が動き出す音がした。


 ――次の催事が、いつか。


 それが、残された猶予だった。

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