2. 空席
五百田村に入って二日目の朝、私は一人で公民館の前に立っていた。
取材といっても、村人に積極的に声をかける気にはなれず、結局こうして掲示物を眺めるくらいしかやることがない。
掲示板は年季が入っていて、コルクの色がところどころ黒ずんでいる。
回覧板の順番表、農協の集金日、敬老会の案内。どれもよくある内容だった。
その中に、一枚だけ紙質の違うものがあった。
〈例祭のお知らせ〉
日付は、一週間後。
祭り、と呼ぶには少し硬い書式だった。
踊りや出店の案内はなく、時間と場所、関係者各位への出席依頼だけが簡潔に書かれている。
私はその「出席」という言葉に、なぜか引っかかった。
背後で砂利を踏む音がして、振り返ると飯坂が立っていた。
「見つけた?」
覗き込むようにして、彼女も掲示板を見る。
「一週間後に、祭りがあるらしいな」
そう言うと、飯坂は「そう」と短く答えた。
「毎年やってる」
それ以上は説明しない。
「取材、続けるか?」
私がそう聞くと、彼女は少し考えてから首を横に振った。
「今日は町に戻ろう。ここで集められる情報は、もうあまり残ってない」
理由は聞かなかった。
聞いても、はぐらかされるだろうという確信だけがあった。
・・・
町に戻る途中、車内で私たちはほとんど会話をしなかった。
山を抜けると、携帯の電波が戻り、通知が一気に溜まっているのが分かる。
それでも私は、すぐに確認する気になれなかった。
町の喫茶店で、ようやく飯坂が口を開いた。
「島野くんは、どう思った?」
唐突な質問だった。
「何がだ」
「この村」
私は少し考えた。
「……説明が、足りない。足りないというより、最初から用意されてない感じがするな」
飯坂は、わずかに笑った。
「それ、一年前も同じこと言われた」
「編集長にか?」
「ううん。古田さんに」
その名前が出た瞬間、空気が少し重くなる。
「今回は、深入りしない方がいいと思う」
飯坂は、そう前置きしてから続けた。
「一度、編集部に戻って整理した方がいい」
私は頷いた。
正直、その提案に安堵している自分がいた。
数日後。
県境の別の村で、形式的な聞き込みを終えた私は、編集部に戻った。
ドアを開けた瞬間、違和感があった。
編集部はいつも通りだった。
キーボードの音、電話の呼び出し音、誰かの咳払い。
ただ、一つだけ足りないものがある。
古田の席だ。
机も椅子も、そのまま残っている。
だが、そこに人が座っていないという事実だけが、妙に目についた。
「……なあ」
近くにいた記者に、私は声をかけた。
「古田さん、今日は休みか?」
「え?」
相手は一瞬きょとんとした顔をして、それからモニターに視線を戻した。
「……何の話?」
「いや、ほら。あの席」
私は指をさした。
彼は一度だけそちらを見たが、すぐに興味を失ったようだった。
「空いてるだけだろ。何か問題ある?」
それ以上話す気はなさそうだった。
別の記者にも聞いた。
返ってきた反応は、ほとんど同じだった。
誰も「いなくなった」とは言わない。
ただ、「最初からそうだった」かのように振る舞う。
私は自分の席に戻り、パソコンを立ち上げた。
画面の端に映る古田の机が、やけに遠く感じられる。
古田は、五百田村の取材に関わっていた。
それも、飯坂と同じチームで。
その事実が、頭の中で何度も反芻される。
偶然、と片づけるには、少し出来すぎている。
だが、理由を考え始めると、思考が同じ場所をぐるぐる回るだけだった。
私は携帯を取り出し、連絡先を開く。
飯坂の名前で、指が止まった。
彼女なら、何か知っているかもしれない。
あるいは、何も知らないとしても、知らないことをどう受け止めているかだけは、聞く価値があると思った。
編集部を出るとき、ふと振り返る。
古田の席は、相変わらず空いたままだった。
誰も気にしていない。
それが、いちばん気味が悪かった。
・・・
駅に向かう道のりを引き返す。
答えがあるかどうかは分からない。
だが、今は確かめずにはいられなかった。
私はそのまま、再び県境の町へ向かう電車に乗った。




