9. 未決
夜明け前の部屋は、奇妙なほど静かだった。
県境の町のビジネスホテル。エアコンの送風音だけが、一定の間隔で空気を揺らしている。
私は机にノートパソコンを置き、椅子に深く腰掛けた。
画面には、すでに書きかけの記事が開いている。文字数は、思っていたよりも進んでいない。
「……二日」
独り言のように呟くと、その数字が急に重さを持って迫ってきた。
催事の一週間前に“消える”。
飯坂の仮説が正しいなら、残されている時間は、実質的にあと二日しかない。
私は原稿の保存日時を確認し、無意識に計算を始めていた。
今日、書き切る。
明日、推敲。
明後日、入稿。
――間に合わない。
印刷所のスケジュール。校了から配本までの時間。
いくら急いだところで、紙という媒体が持つ物理的な速度は変えられない。
「……そうだよな」
私は、椅子の背にもたれ、天井を見上げた。
これまで何度も地方出張をしてきた。締切に追われ、無茶なスケジュールを通してきた。
それでも、“間に合わない”と感じたことは、あまりなかった。
今回は違う。
相手は、時間を食う。
――空席は、待ってくれない。
ノックの音がして、私は体を起こした。
「起きてる?」
ドアの向こうから、飯坂の声がした。
私はドアを開ける。
彼女はすでに着替えていて、手には紙袋とスマートフォンを持っていた。
眠そうな様子はない。
「……やっぱり、紙は無理だな」
私が言うと、飯坂は一瞬だけ目を細め、それから小さく頷いた。
「うん。そう思ってた」
「……最初からか?」
「最初から」
あまりに即答だったので、逆に笑いそうになった。
「じゃあ、なんで何も言わなかった」
「島野くんが、自分で気づくと思ったから」
彼女はそう言って、紙袋から缶コーヒーを取り出し、私に差し出した。
「それに――」
飯坂は、スマートフォンを軽く振った。
「策は準備してる」
画面を見せられる。
そこには、編集部ホームページの簡易的な投稿画面が開かれていた。
原稿欄は空白だが、タグやカテゴリ、公開設定はすでに整えられている。
「先に、ネットで出す。完全版は後で紙にする」
「⋯先に拡散させるためか」
「ううん」
飯坂は首を振った。
「席を増やすため」
その言い方に、私は一瞬、言葉を失った。
増やす――十四脚目の椅子が、脳裏をよぎる。
「不特定多数の目に触れれば、席は一つの場所に留まらなくなる」
「……信仰を、薄めるってことか」
私が言うと、彼女は小さく笑った。
「そう。だから、村の名前は出さない」
私は、画面に視線を戻した。
書きかけの文章。
そこに書かれているのは、地名ではなく、構造だった。
座るために用意され、
誰も座らない席。
空であることを守られる場所。
「……取り込まれてるな、俺」
思わず漏らすと、飯坂は否定しなかった。
「うん。でも、まだ戻れる」
「戻るためには?」
「外に出すしかない」
彼女は、はっきりと言った。
「村の中で完結させない 編集部の中で終わらせない。読む人の数だけ、席を分解する」
私は、深く息を吸った。
キーボードに指を置く。
この原稿は、誰かを救う記事ではない。真実を暴く記事でもない。
ただ、一つの席を、誰のものでもなくするための文章だ。
画面に目線を移す。
文字上のキャレットが、静かに点滅している。
私は、ゆっくりと文字を打ち込みはじめた。
・・・
最初に異変に気づいたのは、私だった。
「……ん?」
社員アカウントでログインした、投稿画面の下部。
本文欄も、タイトル欄も、すでに埋まっている。
タグも設定した。公開範囲も確認した。
やるべきことは、すべて終わっている。
あとは、ボタンを押すだけだ。
私はマウスを動かし、【投稿】の文字にカーソルを重ねた。
クリック。
ローディングスピナーが表示され、回転を始める。
回線が遅れたときの、あのわずかな間。
私は無意識に息を止めていた。
だが、次の瞬間、表示されたのは成功通知ではなかった。
〈エラーが発生しました。しばらく時間をおいてから、再度お試しください〉
「……なんでだ?」
私は眉をひそめ、もう一度クリックした。
同じ表示。
時間を置け、という文言だけが、妙に事務的だった。
「どうしたの」
向かいのベッドに腰掛けていた飯坂が、顔を上げる。
「投稿できない」
「ログインは?」
「できてる。ほら」
私は画面を見せた。
ユーザー名は表示されている。
編集画面も正常だ。
保存もできる。下書きとしては、何の問題もない。
「……変だね」
飯坂は立ち上がり、自分のノートパソコンに目を戻した。
「私の方でもやってみる」
キーボードを叩く音が、部屋に重なる。
彼女が共有フォルダを開くと、画面に同じ本文が表示された。
飯坂は一度、内容をざっと流し読みし、何も言わずに投稿ボタンを押した。
〈エラーが発生しました。しばらく時間をおいてから、再度お試しください〉
結果は、同じだった。
「回線の問題じゃない」
飯坂が言う。
「ホテルのWi-Fiは、普通に使えてる」
「サーバー落ちか?」
「だったらログインも弾かれる」
彼女は、冷静だった。
だがそれは、何度も同じ状況を想定してきた人間の冷静さで、ほんの一瞬、キーボードの上で指が止まるのを、私は見逃さなかった
私は、ふと気づく。
「……書けるんだよな」
「うん」
「消されてもいない」
「そうだね」
「でも、外に出せない」
飯坂は、画面を閉じずに言った。
「席が、まだ空いてないんだと思う」
その言い方が、あまりに自然で、私は一瞬、冗談かと思った。
だが、彼女の表情は真剣だった。
「まだ、誰の席にもなってない」
「だから?」
「だから、誰の名前でも、出せない」
私は、喉の奥が少し乾くのを感じた。
「……今日は、無理か」
口に出してみると、その言葉は妙に現実味を帯びた。
飯坂は、すぐには答えなかった。
代わりに、時計を見た。
日付が、変わろうとしている。
「今日は、ここまでにしよう」
彼女はそう言った。
「無理にやると、判断を誤る」
「……ああ」
私も、ノートパソコンを閉じた。
画面が暗くなり、部屋の照明がやけに明るく感じられる。
失敗したわけじゃない。
だが、成功もしなかった。
ただ、拒まれた。
それだけの一日。
パソコンを片付けながら、私は考える。
空席は、待っている。
誰かが、そこに座るのを。
「……明日だな」
独り言のように言うと、小さく声が返ってきた。
「うん。明日」
その声が、まだここにあることを、私は確かめるように聞いていた。
夜は静かに更けていく。




