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プロローグ

※作中に登場する地名・人名は、取材上の都合により一部表記を変更しています。

 原稿は、締切の三日前にほぼ書き終わっていた。


 内容は、地方の廃校を巡る噂話をまとめたものだった。夜になると足音がする、窓の外に人影が立つ、教室の黒板に文字が浮かぶ――どれも過去に何度も扱った類型で、事実関係も曖昧だ。私は現地で撮った写真を数枚添え、地元の人間の証言を整理し、読みやすい形に整えただけだった。


 編集部では、それで十分とされる。


 私の席は、窓から遠い一角にある。空調の風が直接当たらず、夏でも冬でも少しだけ空気が淀む場所だ。周囲には同じようなフリーの書き手が机を並べていて、誰もが黙々とキーボードを叩いている。


 編集長は原稿に目を通しながら、「いいんじゃない」とだけ言った。誉め言葉でも、貶しでもない。私もそれ以上、何かを求めなかった。


「で、次なんだけどさ」


 編集長は原稿を机に置き、引き出しを探るような仕草をした。資料が出てくる気配はなかった。


「ちょっと空けれる?」

「いつまでですか」

「三、四日。長くても一週間かな」


 私はスケジュール帳を開いた。白い余白が続いていた。最近は意図的に仕事を詰めないようにしていた。体調の問題というより、文章の調子が戻らない感じがあったからだ。


「どの辺ですか」

「んー……山のほう」

「県は」

「隣県の県境辺りだったかな」


 編集長は、そう言ってから自分の言い方に首を傾げた。曖昧な言葉が、そのまま放置された。


「昔から人は住んでるらしいんだけど、あんまり表に出てこない話でさ。派手な事件があったとか、そういうのじゃない」

「じゃあ、何を見てくれば」

「…空気、かな」


 冗談めかして言ったつもりなのかもしれないが、編集長の顔は真面目だった。私は続きを待ったが、説明はそれ以上膨らまなかった。


「現地で誰か、話せる人はいますか」

「いる、っていうか……近くに住んでる人が一人」


 編集長は、言いながら少し言葉を選ぶような間を置いた。


「前に、うちにいただろ。お前の同期」

「……ああ、飯坂ですか」


 名前はすぐに浮かんだ。新卒で同時期に入社した、数少ない同期だった。


「去年ごろだっけ、辞めたの」

「そうですね」

「あいつ、今その辺りにいるらしいんだよ。詳しい事情までは知らないけど」


 私は、スケジュール帳の端を指で押さえたまま、何も書き込まずにいた。


「連絡は、取れるんですか」

「直接は取ってない。でも、たぶん……嫌がらないとは思う」

「たぶん、ですか」


 編集長は苦笑いをして、「まあ、顔は知ってるしな」と付け加えた。その言い方は、根拠というより期待に近かった。


「協力してもらえるかどうかは、向こう次第だな。無理そうだったら、無理でいい」

「それ、取材としては結構……」

「分かってる。言ったろ?無理強いはしないってさ」


 そう言って、編集長はペンを置いた。話はそれで終わりだった。私は少し考えてから、スケジュール帳を閉じた。


「行けます」

「じゃあ頼む」


 それだけで話は進んだ。場所の説明も、テーマの共有もなかった。ただ、「変わったところ」という言い方だけが残った。

 隣の席のライターが、椅子を回してこちらを見た。


「島野、お前また地方か?」

「そうみたいです」

「いいな。俺は今月ずっと都市伝説だぜ」


 彼はそう言って笑ったが、すぐに画面に視線を戻した。その背中を見て、私はなぜか、少しだけ羨ましいと思った。都市伝説は、取材先も予測できるし、帰り道も迷わない。


 昼休み、給湯室でインスタントコーヒーを淹れていると、編集部の古田が声をかけてきた。


「よぉ島野、聞いたぞ。あそこに行くんだってな」

「あそこ、とは?」

「さっき編集長に言われたんだろ?」


 次の取材先のことらしかった。彼は周囲を見回した後、声を潜めた。


「お前が取材に行くとこさ」

「はい」

「昔、うちで扱おうとして、やめたんだよ」

「それはどういう……」


 理由を聞こうとして、やめた。彼はそれ以上、何も言うつもりがなさそうだった。コーヒーの紙コップを潰し、ゴミ箱に捨てて、そのまま席に戻っていった。


 午後になって、編集部は一段と静かになった。キーボードの音が重なり、外の雨音と区別がつかなくなる。私は送られてきた簡単な行程表を眺めていた。最寄り駅、バスの本数、宿泊先の名前。どれも具体的だが、肝心の取材対象については、ほとんど書かれていない。


〈公共交通は本数が少ない為、現地に取り残されないよう注意すること〉


 編集長のメモは、その一文で終わっていた。

 帰り支度をしながら、私はふと思い出して、携帯を確認した。未読のメールはなかった。最近、連絡を取っていない人の名前が、頭に浮かんで消えた。


 編集部を出ると、夕方の空気は思ったより冷たかった。

 駅へ向かう人の流れに紛れながら、私は翌日の始発の時刻を頭の中でなぞっていた。地方取材の行程としては、特別なものではない。何度も繰り返してきた段取りだ。


 電車に揺られて家に戻り、部屋の明かりをつける。壁際に置いた旅行鞄を引きずり出すと、ファスナーの動きが少し鈍かった。いつからこうだったのか思い出せない。

 必要なものは決まっている。着替え、洗面用具、ノート、録音機材。頭では分かっているのに、手がなかなか動かなかった。同じ引き出しを二度開け、入れたはずのものを確認し直す。大した準備ではないはずなのに、それだけで時間が過ぎていった。


 時計を見ると、針は0時を指していた。


 理由のはっきりしない仕事には慣れているはずだった。けれど今回は、荷物を詰め終えるまでのあいだ、何度も鞄の中身を見下ろしては、立ち止まってしまった。


 まだ、家を出る段階ではない。

 ただ、その一歩手前で、妙に立ち止まってしまっただけだ。

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