居酒屋すずめ
誰にだって、「ただ帰りたくない夜」がある。
そんな夜に、ふと見つけた小さな明かり。
それが「居酒屋すずめ」だった。
ここは、疲れた心がひととき羽を休める場所。
そんな夜の、ささやかな奇跡の話。
佐藤は、駅から会社の寮へと続く道をいつものように歩いていた。
金曜の夜。周囲にはちらほらと飲み屋帰りの笑い声が混じる。だが、その音はどこか遠く、自分には縁のない世界のように思えた。
一週間分の疲れが、肩から足先まで鉛のようにまとわりついている。営業の失敗、上司の無言の圧、机の上に積まれた書類――思い出すだけで息苦しい。
「……今夜くらい」
自分でも驚くほど掠れた声が漏れた。
そのとき、視界の端に赤い灯りが揺れた。
路地の奥、小さな暖簾の下でほの暗い明かりがこぼれている。
看板には黒々と「居酒屋 すずめ」と書かれていた。
心臓が跳ねる。
一歩踏み出しては止まり、暖簾の前で呼吸を整える。
――入るか、やめるか。
初めての店に一人で入るなんて、考えただけで胃がきしんだ。
だが、今夜はコンビニ弁当の味がどうしても想像できなかった。
意を決して暖簾をくぐる。
「……いらっしゃい」
油の香り、焼き鳥の焦げる音、酒の混ざった笑い声――全てが一度に押し寄せ、足がすくむ。
カウンターに三人の客。全員がこちらを振り向いた気がして、背筋に冷たい汗が走った。
「ひ、ひとりです」
声が震えているのが自分でもわかった。
女将はにっこり笑い、「どうぞ、こちらへ」とカウンターの端を指差す。
勧められるまま腰を下ろすと、木の椅子がわずかに軋んだ。
視線を下げる。周囲と目が合うのが怖かった。
「何にしましょう?」
差し出されたおしぼりの温かさに指先がほどける。
だが注文を聞かれると、途端に喉が渇き、声が出ない。
「……えっと、ビ、ビールで」
「生でいい?」
「はい、お願いします」
女将が笑顔で頷く。その笑みに、ほんの少し胸の緊張が解けた。
すぐに「シュワァッ」とジョッキに泡が立ちのぼり、黄金色の液体が目の前に置かれる。
同時に炭火の香りが強く漂い、腹がぎゅっと鳴った。
「お兄さん、初めてだね?」
作業服姿の中年客が、にやりと笑って声をかけてきた。
驚いて顔を上げる。
「あ、はい……」
グラスを軽く掲げられ、佐藤もおずおずとジョッキを持ち上げた。
「じゃあ、おつかれさん」
「……お疲れさまです」
冷たいビールが喉を落ちていく。
その瞬間、今まで体を締めつけていた重さが少しだけ溶けた気がした。
ジョッキを口に運びながら、佐藤は耳の奥で自分の鼓動がまだ速く打っているのを感じていた。
狭い店内は十人も入ればいっぱいになるほどで、壁には少し煤けたポスターや、手書きの短冊メニューが無造作に貼られている。
「ハイボール三百八十円」「モツ煮三百円」――数字の素朴さが、逆に温かい。
カウンターの向こうでは、女将が忙しなく動きながらも客ひとりひとりに声をかけていた。
「はい、焼き場あいてるから次レバーいくよ!」
「ごめんねえ、お待たせ。熱いから気をつけて」
その声は、佐藤の硬くなった背筋をゆっくりと撫で下ろすようだった。
「お兄さん、どこから来たの?」
隣の中年客が、軽く串をかじりながら尋ねてきた。
「えっと……東京から、配属で」
「おー、じゃあこっち不慣れだろ。仕事たいへんだな」
「……まあ、はい」
言葉に詰まりそうになると、老夫婦がにこにこと笑いながら「若い人はね、がんばりすぎちゃだめよ」と言ってくれた。
その柔らかい声に、胸の奥の強ばりがすっと抜ける。
「はい、お通しね」
女将が小鉢を置いた。湯気の立つ筑前煮。
箸をつけると、しみ込んだ出汁が口の中で広がり、体の芯まで染み渡るようだった。
「あの……すごく、うまいです」
思わずこぼれると、女将は「そう? ありがと」と、まるで家族の食卓で褒められたかのように、照れた笑みを浮かべた。
カウンターのあちこちで笑い声や「おかわり!」の声が飛び交う。
壁際のテレビからは、地元のニュースが小さな音量で流れていて、それすらもこの空間の一部になっていた。
最初は怖さで張り詰めていたのに、気づけばそのざわめきの中に身を委ねている自分がいた。
串が二本、三本と増える頃には、隣の男とも自然に会話が続いていた。
「この店はな、もう二十年以上やってるんだ。若い頃から世話になっててよ」
「へえ……そんなに」
「女将さんの煮込みは、他のとこじゃ食えねえよ」
聞けば聞くほど、ここはこの町の人たちにとって当たり前の居場所なのだとわかる。
ジョッキを空けた佐藤の口から、不意に小さな笑みがこぼれた。
知らない土地の、知らない人たち。
でも、その夜はほんの少しだけ「帰りたい場所」の匂いがしていた。
カウンターの端に置かれたジョッキの水滴が、静かに木目を濡らしていく。
焼き台からは炭火がぱちんと弾ける音。じゅう、と脂が落ちる匂いが店内に広がるたび、佐藤の腹は鳴りそうになった。
「お待ちどうさま、ねぎまね」
女将が差し出した串は、表面がこんがり焼けて、肉の間に挟まれた葱が香ばしい。
「熱いうちにどうぞ」
添えられた声がやさしく、まるで「気を張らなくていいんだよ」と言われているようだった。
恐る恐るかじると、口いっぱいに広がる塩気と肉汁。
その瞬間、今日一日の重さがふっと和らいだ気がした。
「あ……おいしいです」
ぽつりと呟いた言葉に、女将は「よかった」と、皺の深い目をさらに細めた。
「な? 言ったろ、この店の焼き鳥は間違いねぇんだ」
隣の男がにやっと笑い、グラスを持ち上げる。
「乾杯だ、若いの」
「……はい」
今度は声が震えなかった。
グラスが軽く触れ合う音が、小さな合図のように響いた。
カウンターの真ん中では、老夫婦が互いの皿を取り合いながら、楽しそうに笑っている。
「これ、あなた好きでしょ」
「お前も食えよ」
そんなやりとりを耳にすると、不思議と胸の奥に灯がともった。
――いいな。自分も、いつかあんなふうに。
ほんの一瞬、そんな未来を思い描く自分に気づいて、照れくさくなった。
「お兄さん、こっちに来て何食べてる? コンビニばっかじゃないだろうな」
「え……いや、その……」
言葉を濁すと、周りが一斉に笑った。
「ほら見ろ。若い子は大抵そうなんだ」
「ここの煮込み、今度食べてごらん。元気出るから」
笑い声に混じるとき、自分の肩の力が確かに抜けていく。
ついさっきまで「怖い」と思っていた場所が、気づけばあたたかな居間のように感じられていた。
女将が湯気を立てた小鍋をカウンターに置く。
「はい、おすすめのモツ煮。サービスしとくから」
「えっ、でも……」
「いいのいいの。初めてのお客さんだからね」
優しい笑顔と、漂う味噌の匂い。
湯気の向こうで、誰もが自然に笑っている。
佐藤はふと、自分がずっと探していたものは、この温度だったのかもしれないと思った。
湯気に包まれたモツ煮を前に、佐藤は箸を伸ばした。
こんにゃくをひと口、噛むたびに味噌の旨味が広がる。
次に口へ運んだ柔らかなモツは、脂がとろりと溶けて、そこに生姜の風味がふっと重なる。
気づけば目の奥がじんと熱くなっていた。
「……うまい」
声は掠れていた。
でも、その一言が精一杯の本音だった。
「だろ? ここのモツ煮は別格なんだ」
隣の男が満足そうに頷く。
老夫婦も「若い人の体にしみるでしょ」と笑った。
しみる――まさにその通りだった。
体だけじゃない。
張り詰めていた心の奥に、温かさがじわじわと流れ込んでいく。
気づけば、昨日までの自分がどれほど固く閉ざしていたのかが、よくわかった。
「お兄さん、仕事は大変?」
女将が鍋をかき混ぜながら、さりげなく問いかける。
「……正直、はい。慣れなくて。毎日……ちょっと、しんどいです」
吐き出した言葉に、思わず自分でも驚いた。
普段なら絶対言わない弱音が、ここでは自然に出ていた。
「そうだよなあ」
隣の男が、くぐもった声で言った。
「俺だって若い頃は、何度も逃げ出したくなった。けどな……気づけば案外、乗り越えてたんだよ」
グラスを傾けながら、静かに笑う。
老夫婦も頷き合い、「しんどい時は、しんどいって言っていいのよ」と佐藤に向けて言った。
胸の奥で、何かがほどける音がした。
ここにいる人たちは、家族でも友人でもない。
けれど、なぜか自分を受け入れてくれる。
それが、どうしようもなく温かかった。
「ほら、もう一杯どうだ?」
男が笑って勧める。
「はい……お願いします」
二杯目のジョッキが置かれる。
グラスの縁が軽く触れ合い、また笑い声が広がった。
その笑いの中に、自分もちゃんと混じっている。
――ああ、自分は一人じゃないのかもしれない。
そう思った瞬間、喉の奥が詰まりそうになった。
外の雨上がりの匂いは、もう気にならない。
この小さな店の中だけが、今夜の自分の居場所だった。
モツ煮の湯気が落ち着き、ジョッキが半分ほど空になった頃だった。
佐藤は胸の奥に小さな温もりを抱きながら、ふと壁の短冊に目をやった。
「アジフライ」「だし巻き玉子」「ポテトサラダ」――どれも馴染みのある名前ばかりだが、この店ならきっと違う味がするだろう、そんな気がした。
「……あの、すみません」
思わず自分から声をかけていた。
女将が「はいよ」と顔を向ける。
「だし巻き、お願いします」
注文の言葉が、こんなにもすっきり胸の中から出てくるのは初めてだった。
すぐに卵を溶く音がカウンター越しに響く。トントンと菜箸が鉄板を叩く軽快な音。
香ばしい香りが漂い始めると、隣の男がニヤリと笑った。
「お、いいとこ頼んだな。ここのだし巻きはフワッフワだぞ」
「そうなんですか?」
自然と会話が返せたことに、自分でも驚いた。
やがて出てきただし巻きは、湯気をまとった黄金色。
箸を入れると、中からふわりと出汁がにじみ出てくる。
ひと口食べた瞬間、佐藤は思わず笑ってしまった。
「……うまい。ほんとにふわふわだ」
「な、言ったろ」
周りの客たちもつられて笑う。その笑い声が、今はもう怖くなかった。
「そういえば……」
気づけば自分から口を開いていた。
「この辺って、観光とかありますか? まだ、全然知らなくて」
その言葉に、中年客も老夫婦も一斉に目を輝かせる。
「お、いい質問だな! 川沿いの花火大会は外せねぇ」
「春になったら桜並木もきれいよ」
「温泉もあるぞ。ちょっと足を伸ばせばすぐだ」
次々と飛び出す話に、佐藤は必死で相槌を打ちながら笑った。
――初めてだ。
自分から話を振って、誰かと笑い合えたのは。
その事実が胸にじんと染み込み、また目の奥が熱くなる。
女将が奥から顔を出して、穏やかに言った。
「若い人が、こうやって馴染んでくれるとね。店もにぎやかで嬉しいんだよ」
「……ありがとうございます」
その一言には、心からの思いがこもっていた。
暖簾がふわりと揺れた。
「おっ、いらっしゃい!」
常連たちが一斉に声をあげる。そのトーンに、佐藤は思わず振り向いた。
入ってきたのは、白髪混じりの小柄な男性。
くたびれたジャケットを肩からかけ、手には新聞。
一歩踏み入れた瞬間、店全体が少しだけ明るくなるような、不思議な存在感があった。
「先生、今日もお疲れさま!」
「まぁまぁ、みんな元気そうでなによりだ」
にこにこと笑いながら、男はカウンターの端に腰を下ろした。
女将が何も聞かずに「いつものね」と徳利を出す。
すぐに湯気を立てる燗酒が運ばれ、静かに湯呑みに注がれた。
「……誰なんだろう、この人」
佐藤が小声で呟くと、隣の男がすぐ答えた。
「知らない? この街の人ならみんな知ってるよ。昔、町の学校で先生やってた人さ。定年してからは毎晩ここ。俺たちみんな、この人に世話になったんだ」
「先生」が湯呑みを持ち上げ、ふとこちらを見て微笑む。
「若いの。初めてか?」
「は、はい。そうです」
緊張して背筋を伸ばす佐藤に、先生はただ穏やかに頷いた。
「いい店に来たな。ここにいれば、まぁ大丈夫だ」
その言葉は不思議と胸に沁み込み、体の力がすっと抜けていった。
周りの客たちも、先生が来ると自然に笑顔が増え、会話の輪が大きく広がっていく。
誰もが先生を「居て当たり前の存在」として迎え、先生もまた自然に受け止めている。
――この人がいるから、この店はこういう温かさを持っているんだ。
佐藤はそんな確信を抱き、箸を置いて深く息をついた。
女将が目を細めて、まるで家族に向けるような声で言った。
「さぁ、若いの。お腹はまだ余裕あるかい? 先生おすすめの一品、出してあげるよ」
先生は湯呑みを手に取り、柔らかく笑った。
「この店はな、もう何年もこの町の人たちを見てるんだ。昔はね、会社帰りのサラリーマンも学生も、誰でも寄ってった。ここに来れば、まぁ、心も腹も満たされるってな」
カウンターの向こうでは、女将が手元の串を返しながら軽く頷く。
「そうなのよ。初めての人でも、ちゃんと温かく迎えるのがモットーだから」
佐藤は箸を止めて、そっと聞き入った。
――この店は、ただの居酒屋じゃない。
人が疲れを癒し、心をほどく場所なんだ。
「若いの、仕事は大変だろう?」
先生が静かに声をかける。
「……はい、ちょっと……」
思わず漏れた弱音に、隣の男も老夫婦も、ただ穏やかに笑った。
「そうだろう、でもな、ここに来たんだ。今はもう、少し落ち着けるな」
その言葉に、佐藤の胸がぽっと熱くなる。
笑顔も、冗談も、誰かと交わす会話も、こんなに安心できるものだったのか。
初めて自分から話を振ったあのだし巻きの後、さらに心の扉が少し開いていた。
「お兄さん、地元のこと、もっと知りたいか?」
先生の言葉に、思わず頷く。
「はい……あの、川沿いの花火大会とか、桜並木とか」
「ふふ、じゃあ今度、見に行くといい。そしたら、ここで話がまた盛り上がるぞ」
女将が小さく笑いながら、佐藤の前に小鉢を置いた。
「はい、これ先生おすすめの漬物盛り合わせ。疲れた体にいいから」
一口食べると、塩気と酸味がじんわりと体に染み渡る。
佐藤は思わず目を細めた。
――こんな場所が、この街にあるんだ。
カウンターのざわめき、串が返る音、笑い声、湯気の立つ皿、酒の香り。
そのすべてが、自分の胸の中に温かく溶け込んでいく。
「……また来たい」
ぽつりとつぶやくと、先生も女将も「おう、いつでも待ってるよ」と微笑んだ。
その夜、佐藤は知らない街の、知らない居酒屋で、初めて“帰る場所”のような温かさを感じていた。
疲れた体と心が、少しずつ、ゆっくりと癒されていく。
佐藤は、ゆっくりと立ち上がった。
ジョッキは空になり、串もほとんど平らげた。
カウンターの向こうでは、女将が満足そうに笑い、常連たちもまだ和やかに話を続けている。
「お世話になりました」
声が自然に出る。緊張はもうなく、むしろほんの少し名残惜しい。
先生がにこりと頷いた。
「おう、また来いよ。疲れたらここで休むんだ」
外に出ると、雨上がりの夜の匂いが鼻をくすぐった。
街灯の光が濡れたアスファルトに映り、ぽつぽつと光の粒が揺れている。
靴底から伝わる湿った感触に、なんだか安心感さえ覚えた。
歩きながら、佐藤は深く息を吸った。
今日、初めて自分から話を振り、笑い、聞いてもらった――
たった一晩で、世界は少し優しく感じられた。
「……また来よう」
小さく、でも確かに。
心の中でつぶやいたその言葉は、冷たい夜風にも負けず、じんわりと温かく響いた。
街の雑音も、雨上がりの匂いも、すべてが自分の一部になったような気がした。
知らない土地で、知らない人に囲まれても、
こうして自分の居場所は、ちゃんと見つけられる――そう思えた夜だった。
この物語を書きながら、何度も「帰る」という言葉の意味を考えた。
家でもなく、職場でもなく、
ただ「自分を見失わずにいられる場所」。
それが人にとって、本当の居場所なのかもしれない。
「居酒屋すずめ」は、そんな誰かの心の片隅に灯る小さな明かりであってほしい。
もし今日が少ししんどい日だったなら、
この物語の湯気の中で、ほんの少しだけ肩の力を抜いてもらえたら嬉しい。




