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流浪の舞い手と失意の令嬢~逃避行の果ての幸福

作者: 唐草カナタ

 重ねづけしたブレスレットやアンクレットがシャラシャラと音を立てる。

 衣装や長く伸ばした髪の流れを意識して、まとったショールをはためかせ、軽快に舞う。

 瞳と同じ緑色の石を使ったアクセサリーがきらきらと光る。

 集まった観客の口からほぅと感嘆の溜め息が漏れた。


 デュナステイアー王国の首都、ポース。

 賑やかな街の一角に、流れの者が芸事を公演できる場所がいくつかある。

 そのうちのひとつ、道よりも一段高く造られている石の舞台があり、南側と西側の二面が階段状の簡易的な客席になっているそこが、シルヴィの今日の仕事場だった。

 こうした簡易舞台は事前の予約制で、得られたおひねりの一部を役所に納入する必要があるが、逆にいえばきちんと予約して使用料を支払えば確実に公演ができる。また、予約をすることで役所がどういった芸人が何日の何時から舞台を使用すると掲示で告知してくれるので、公演する側と観客側の双方にも都合が良かった。

 通行の妨げや混乱を防ぐためにいくつかあるこうした舞台以外は公演が禁じられており、すぐに憲兵にしょっぴかれるため、ポースを訪れるシルヴィのような旅芸人もきちんとルールを守る。規則があり、それが順守されている首都ポースは、しっかりと秩序が保たれていた。


 シルヴィは旅をしながら舞を披露して日銭を稼いでいる、いわゆる踊り手だ。

 親や家族の記憶はなく、物心ついた時には旅の一座にいた。見た目の愛らしさから踊りや化粧を仕込まれて一座の行く先々で他の座員と共に芸を披露していたが、稼ぎのほとんどは座長の懐に入ってしまうので、見た目を維持するための最低限の食事しか与えられないという生活だった。また、少しでも失敗すれば鞭で殴られる。耐えかねたシルヴィは、ある夜に運悪く鉢合わせした夜盗との騒ぎに乗じて一座を脱走し、以後は一人で旅をしながら踊りで生計を立てていた。

 踊るのは好きだ。

 体を動かすのは楽しいし、自分の舞を見た人たちが喜んでくれるのも嬉しい。

 華やかな衣装や化粧によって、普段とは違う自分に変われるのもいい。

 だから、踊りを仕込んでくれたことだけは、それから恐らく孤児だったであろう自分を生かして育ててくれたことだけは、当時の座長に感謝している。ただ、自分の舞だけでどれだけ稼げるのかを知ってしまったから、他の座員の稼ぎも合わせて座長がどんなに私腹を肥やしていたかも同時に理解してしまった。恩は十分に返したと思う。もう二度と、一生会いたくはない。


 シルヴィの舞は今日も好評だった。

 ここに集まる観衆は旅芸人の公演を期待して来ているというのもあるのだろうが、老若男女問わず、ほとんどの者がうっとりとした目をしてシルヴィの踊りを見つめていた。

 そんな観衆の中で、ひとつだけ気になる視線があった。

 ──まるで、この世の終わりのような。全てに絶望したかの目。

 どうしたらあんな目ができるんだ。

 苦しい生活を強いられていた一座の仲間たちだって、あんな光の一片もないような目をしている者はいなかった。

 気になって、くるくると舞いながらそちらに顔が向く度に、その目の持ち主に視線をやった。

 舞が一番の見せ場に差しかかる。

 身に着けたアクセサリーや、ショールに縫いつけたたくさんの小さな宝石の欠片が夕日を反射してきらきらと輝き、光を振りまく。

 絶望一色だった目に、少しの間だけ光が宿った。


 大勢が集まれば、中にはタダ見してそそくさと輪から外れる奴もいなくはないが、大抵の観客はいくばくかでも包んで投げてくれる。

 舞の動きを意識しつつ、観客に笑顔を見せながら拍手の中で舞台に投げ込まれたおひねりを拾い集めていると、やがて拍手や歓声も減っていき、シルヴィの踊りを見に集まった人々は帰路に就いていく。

 シルヴィが予約できたのは今日の最終の時間帯だったので、次の芸人を待つ者もなく、おひねりを拾い終わった頃には既に数名が残っているだけだった。

「今日はありがとー!」

 なるべく好感を持ってもらえるようなトーンを意識して声をかけると、残っていた三人組は口々にシルヴィの踊りを褒め、こちらに手を振って帰っていった。シルヴィも手を振り返してその後ろ姿を見送る。

 そうしてから、階段状の客席にぽつんと座り込んだまま動かない最後の観客に近づいた。

 赤みの強い茶色の髪を長く伸ばした、シルヴィと同じかもしかしたら少し年上かも知れない、少女。

 一瞬だけ光を取り戻したかに見えた赤い瞳は、今は再びの絶望に沈んでいた。

「お姉さん、終わったよ」

 シルヴィがすぐ近くで声をかけるまで、彼女は自分の内に沈んで気づいていなかったようだった。

 びくりと肩を震わせた彼女は、驚いた様子でシルヴィを見た。

「あっ、えっ、ごめんなさい。あっ、おひねり。ごめんなさい、今、持ち合わせがなくて、こんな物しか」

 焦った彼女が差し出したのは、緻密な刺繍が施された高級そうなリボンだった。恐らくシルク製と思われるそのリボンは、地の赤色が彼女によく似合うものだった。

「……大事な物なんじゃ?」

 差し出されたリボンに視線を落とし、手は触れないままシルヴィは尋ねた。しかるべき店に持ち込めば観客一人のおひねりよりも高く売れるだろうが、こういう個人の持ち物は何かあった時に面倒な代物でもある。

「姉からのプレゼントではあるけど、でも、もう、いいの」

 少女は首を振る。

「もういいって」

 意味が分からず、戸惑ったシルヴィは聞き返す。

 少女は今にも泣き出しそうな顔をして、眉を寄せた。

「……失恋、したの」

 震える声でそう絞り出した彼女の目から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。

 失恋と、姉からのプレゼントの大事なリボンを見ず知らずの踊り手に渡そうとすることとが繋がらず、シルヴィはますます困惑した。

「……えっと、あのさ。あんたがこの世の終わりみたいな顔してるのも、それが関係ある?」

 問いかけると、少女は声を発さないまま小さく頷いた。

 リボンを受け取るにせよ遠慮するにせよ、このまま少女を帰したのでは、絶望にかられて良からぬ事態になってしまうかも知れない。そんな想像がシルヴィの頭を過る。

「じゃあさ、おひねりの代わりに、あんたの話を聞かせてよ」

 シルヴィが提案すると、少女は不思議そうな目でこちらを見た。

 だからシルヴィは続ける。

「このままあんたを黙って帰したんじゃ寝覚めが悪いからさ。それにあんただって、他人に話したら少しは気持ちが軽くなるかも知れないだろ」

「……」

 少女はすぐには答えなかったが、シルヴィからの誘いに迷うように赤い瞳が揺れる。

「この恰好じゃ目立つから着替えてくるよ。ちょっと待ってて」

「あの、でも」

 少女の声に視線を返すと、彼女はおずおずと続けた。

「寮の門限があって。わたし、そろそろ帰らないと」

 寮、と言われて少しだけ考えて、シルヴィは頷いた。

「ああ。あんた、学生さんか」

 ここ、デュナステイアー王国の首都ポースには、貴族の通う士官学校がある。ノブレス・オブリージュ。有事の際には土地を治める貴族が武器を手に先頭に立って戦い、民を守る。そんな思想の下、デュナステイアー王国の貴族は士官学校を必ず卒業する義務があり、また近隣の諸外国からも学びにやって来る王侯貴族がいるという。シルヴィは旅芸人の一座としてポースを訪れた際に、ここには士官学校があること、またどういう理由でどういった者が在籍するのかという事を仲間から説明を受けた。

 彼女の持っていた、緻密な刺繍の施された上質なリボン。彼女が士官学校の生徒、つまり貴族だというのなら不思議ではない。

 この世の終わりのような沈んだ目にばかり意識が向いていたが、身に着けている衣類も上等なものだった。

「なら、明日の昼にここで待ち合わせよう。明日は学校も休みだろ?」

 明日明後日は週末だ。役所と学校、それから一部の事業者は休日になる。旅芸人であるシルヴィの個人的な生活には暦はあまり関係ないが、週日(しゅうじつ)と休日とでは人出や流れが変わるので、踊り手の客層の分析のために暦はきちんと把握する必要があった。

 尚もためらう様子の彼女の手から、シルヴィはリボンを取り上げた。

「これは預かっとく。明日会ったら返すよ」

 そう言いながら、リボンを懐にしまった。

「……あのっ」

 声を上げた少女にシルヴィが視線を返すと、彼女は少しだけ迷うような様子を見せた後で、続けた。

「わたし、アデ……アデル、です」

 名乗ったということは、きっと今夜、最悪の事態になるようなことはそうそうないだろう。シルヴィは内心でほっとする。姉からもらったというリボンが惜しくなったのかも知れないが、理由なんて何だっていい。

「シルヴィだ」

 名乗り合って、翌日の待ち合わせの時間と場所をもっと詳しく決めて、シルヴィはアデルと名乗った少女の背中を見送った。

 生気の薄いその後ろ姿は、まるで不安定にゆらゆらと揺れているようだった。

「……心配だな」

 かといって、こんなに目立つ恰好のまま後を追うわけにもいかないだろう。

 シルヴィの呟きは、すっかり暮れた街路の喧噪に融けた。


**


 果たして、約束の場所、刻限に、彼女はやって来た。その姿を目にして、シルヴィは安堵した。

 焦げ茶色のワンピースを身に着けた彼女は、なるほど確かに貴族のお嬢様のようだ。

 シルヴィを探しているのだろう、きょろきょろしているアデルに自分から声をかける。

「こっちだよ、アデル」

 こちらを向いた彼女に分かるように手を振ると、赤い目が丸くなった。

 小走りにシルヴィに駆け寄って来たアデルは、その表情のまま口を開いた。

「お、男の人だったの!?」

 化粧をせずに、緑がかった黒い色の長い髪は片側の耳の後ろで一度丸めてから残りを背に流している。デュナステイアー王国の一般的な男性町民の街着姿のシルヴィは、愛らしい顔立ちではあるが普通に男性に見えるだろう。

「女にしては口が悪いなって思わなかった?」

 踊り手の姿で女性だと思って近づいてきた輩が、シルヴィが実は男性だと知って驚くというのはままある事なので、彼自身は別にそれを不本意だとは思わない。逆に自分の化粧のテクニックを認めてもらえているという事になるし。ただ、自分としては容姿を活かすための化粧と衣装を選んでいるだけであって、特別女装しているつもりはない。

「……思った……けど……、旅芸人さんなら、そういう口調の人もいるのかと……」

「まあそうだな、いるかも知れないな」

 頷いたシルヴィは、アデルを促して移動する。

「オレが行くような酒場だから、あんたみたいなお嬢様の口に合うかは分からないけど、騒がしい分、周りの連中に話を聞かれる心配はあんまりないはずだ」

「……大丈夫。演習で野営する時は、携帯食だったり、近くで狩った獣の肉を食べたりもするから」

「へえ」

 アデルの返事に、シルヴィは本心から感嘆する。

 有事の際、の有事に何を想定しているのかはよく分からないが、武器を手に先頭に立たねばならない貴族は野営にも慣れておく必要があるということだ。シルヴィも場合によっては野宿をする時もあるが、貴族の子女であっても彼と同じような食生活で過ごすことがあるのだという事に感心した。

 泊まっている宿の近くの酒場に入る。

 空いているテーブルを見つけて、向かい合わせにそこに座った。

 野営やその際に食べる物には慣れているといっても、庶民の酒場に来るのは初めてなのだろう。アデルはちらちらと店内のあちこちに視線を向けている。

「何か食べたい物ある?」

 シルヴィが尋ねると、アデルはカウンターに立てかけてある蝋板に目を向けた。こういう店はその日の仕入れ次第でメニューが変わるから、何度も書き直せる蠟板で客に知らせているのだ。

「鹿肉のシチューと、パンにしようかな……」

「じゃあオレもそれで」

 頷いたシルヴィは手を挙げて店員を呼び、鹿肉のシチューとパン、それから炭酸水を二人分注文した。

 料理が運ばれてくる前に、懐から昨日預かった彼女のリボンを取り出した。

「これは返しとくよ」

 差し出されたそれを、アデルはためらう素振りを見せながらも受け取った。そっと胸に抱いてから、丁寧にたたんでポケットにしまう。

 なんだ、やっぱり大事な物なんじゃん。

 彼女の様子を見ながら、シルヴィは心の中で呟いた。

 そうこうしているうちに、料理がテーブルに並んだ。

 パンをちぎり、シチューに浸して口に運ぶ。

「……それで? この世の終わりを感じるほどの失恋って、どんなだったんだよ?」

 シルヴィが無遠慮に切り込むと、彼と同じようにちぎったパンにシチューをつけて食べていたアデルの眉が下がり、赤い瞳が潤む。

 食べ終わってからのほうが良かったか、と思ったが、今更遅い。

 そのままアデルの反応を待った。

 口に入れたものを炭酸水で流し込むようにして飲み下した彼女は、小さく息を吐いてシルヴィを見た。

「……ずっと。ずっとね、好きな人が、いたの」

「うん」

「眩いばかりに麗しくて、神学に秀でてらして、どんな相手にも分け隔てなく優しい方で……」

「……は~ん?」

 失恋した相手への賛辞を並べるアデルに、シルヴィは気のない相槌を打つ。

 どんな相手にも分け隔てないなんて言ったって、それは貴族間の話だろう。

 シルヴィの反応を気にした様子もなく、アデルは続ける。

「あの方を慕う女性は多くて、でも、わたしなりにアプローチしてきたつもり、だった。……だけど」

 彼女はくしゃりと顔を歪めた。

「ちゃんと告白するより先に、あの方に恋人ができちゃって」

 ぽつぽつとこぼされるアデルの言葉を整理すると、恐らくこんな感じだ。

 顔も家柄もいい某貴族のおぼっちゃんはモテモテだった。誰にでも優しいだなんて貴族限定の話だろうとシルヴィは感じたが、たくさんの女性に好かれていたと聞いて、その振る舞いは好感を持たれるための演技だと思った。もしそうでないなら、逆に気味が悪いとも。

 ともかく、国内の貴族令嬢だけでなく、士官学校生として留学してきている他国の王女にまで好かれていたという件のおぼっちゃんが選んだのは、本人の幼馴染み兼護衛の、おぼっちゃんの家に仕える下級貴族のご令嬢だったそうだ。そのお嬢さんも下級とはいえ貴族出身ではあるし、元々騎士の家系らしく士官学校にはおぼっちゃんと一緒に通っているらしい。

「貴族を護衛にできるような家柄のおぼっちゃんが、その護衛と恋愛って許されるのか?」

 シルヴィは思わず口を挟んだ。

 彼は貴族どころか、家を持って定住している平民のことすらあまりよく分かっていないが、領地を持っているような貴族は家柄や血統、財産などの理由で同じような位の貴族と政略結婚するのが多いらしいと、なんとなく聞いたことがある。

「その方には双子のお兄様がいらして、お兄様のほうが家を継ぐから」

 つまり双子の兄がしっかりした家柄の貴族の娘を妻に迎えるから、アデルの想い人は恋愛結婚でもいい、という話らしい。まあ、下級とはいえ相手も貴族だからそこまで大きな問題でもないのだろう。

「それで。アデルは告白さえできればうまくいくって思ってたから、あんなこの世の終わりみたいな顔してたってわけ?」

 話を聞く限りでは、幼馴染みだなんて公式的な関係が恋人になったのがつい最近だっただけで、きっと以前からお互い憎からず想い合っていたのだろう。アデルには悪いが、彼女も、他のお嬢さん方も、そこへ入る隙なんてなかったんじゃないかとシルヴィには思えてしまう。

 彼が疑問を投げかけると、アデルは食べかけのシチューに目を落とした。

「……どう、なのかな。誰にでも優しいから、脈があるんじゃないかって、思いたかった、のかも」

 彼女は大きめにちぎったパンでシチューをかき回した。

「……それと、私があの方をお慕いしているって知った父に、家柄が充分なあの方を射止められるなら結婚を許すけど、そうじゃないなら卒業後は自分の決めた相手に嫁がせるって言われていて」

 士官学校は一年制だと聞いている。今の代の在学期間はあと半年ほどだ。

「失恋よりも、そっちが嫌で絶望してたって感じだったり?」

 シルヴィの言葉に、アデルは泣きそうな目をしながら首を傾げた。

「それも、なくはない、のかも。でもやっぱり、ずっと好きだったの。士官学校に入るよりずっと前、子供の頃から。だから、幸せそうな二人の姿を見るのが辛くて」

 そこまで話した彼女は、そのまま口の端だけ上げて無理矢理笑う。

「本当はね、週末はあの方の主導で孤児院の手伝いに行ったりとか、奉仕活動があって、シルヴィが誘ってくれなかったらきっと断る理由が思いつかずに参加して、余計に辛くなってたと思うの。だから、ありがとう」

「まあ、それなら良かったよ」

 シルヴィも微笑を返す。

「幼馴染みたちに約束があるから今日は行かないって話したら驚かれたけど。でも、二人とも、わたしがあの方をずっと好きだったのを知ってたから、誰と会うのかとか追及されなかったの。踊り手さんと食事してるなんて知ったらきっとびっくりするよね」

 アデルはやっと、作ったものではない笑顔を浮かべた。

「それにね、あなたの踊りはとっても素敵だった。あそこへ辿り着いたのはたまたまだったんだけど、一瞬、全部忘れるくらい目を奪われたの」

「ありがと。踊るのは好きだし、金をもらう以上は真剣に取り組んでるから、そう言ってもらえると嬉しい」

 思いがけなく舞を褒められて、シルヴィは満面の笑顔になる。

 確かに一瞬、光を失っていた彼女の瞳が輝いたのを見た気がした。

「明日の昼間もまたあそこで踊るからさ、良かったら見に来てよ。二週間くらいはポースにいるつもり」

「絶対に行くわ!」

 勢い込んで返事をするアデルに笑ってしまう。

 とにかく少しでも元気になったなら、良かった。

 その後も食事をしながらぽつぽつと会話を交わし、姉からもらったというリボンは彼女の恋を応援して贈られたものだという話を聞いた。なるほど、だから大事な物ではあるが絶望した時に手放そうとしたわけか、とシルヴィは納得したのだった。


**


 翌日の昼間のシルヴィの舞台をアデルは見に来てくれたし、その後も彼が首都にいる間は都合がつけば足を運んでくれた。

 最後の日にもう一度、一緒に食事をして、シルヴィはポースを発った。


 それまでの彼は同じ町へ短いスパンで訪れることは滅多になかったが、二ヶ月後に再びポースに滞在した。

 アデルと連絡を取る手段はなかったが、彼女はまた、シルヴィの公演に気がついて見にきてくれた。

 食事をして、近況を聞いた。

 彼女の父親からの強制的な縁談がいつ持ち込まれるかという恐れはあるものの、失恋の痛手からはかなり立ち直ったようだった。

 そしてポースを発ってから更に二ヶ月後、アデルの卒業前に、シルヴィはまた、首都を訪れた。


**


 二ヶ月ぶりに再会したアデルは、またこの世の終わりのような目をしていた。

「どうしたんだよ」

 驚いたシルヴィが食事に誘って話を促すと、顔色も悪いままのアデルが口を開く。

「……父から、わたしの結婚相手の釣書が送られてきたんだけど……お父様よりも年上の方で、しかも、既に四人も奥様がいらっしゃるの……!」

 震える声で伝えたアデルの説明に、シルヴィも目を剥いた。

「はあ!? あんたが嫁入りする必要、ある!?」

「お金……だと思う。うちも裕福なほうではあると思うんだけど、あちらは国内でも有数のお金持ちで、爵位も高いほうだから」

 だからといって、自分の娘を、第五夫人として売り渡すだなんて、いくらなんでもどうかしている。同じ条件でも正妻ならまだしもだ。

 それに、アデル自身が第二夫人の娘なのだと聞いている。姉は正妻の子供で、その姉はアデルを可愛がってくれているが、正妻からはアデルもアデルの母親もいないものとして扱われ、正妻の従者からも似たような仕打ちを受けているとか。アデルの母は彼女が士官学校に入学する何年も前に、心を病んで亡くなったそうだった。そして父親は彼女を金儲けの道具としてしか考えていない。

 実家に戻ってもアデルの味方は姉だけ。それも、父と正妻の意向次第で恐らく敵にもなるのだろう。

 父親に従って金持ちの家に嫁いだとして、正妻どころか他の三人の夫人にだって嫌がらせをされる可能性が高い。他の四人がどのくらいの年齢か分からないが、若いアデルは格好の標的になるだろう。きっと、彼女の母親よりも辛い暮らしになる。

 ……大体、アデルが他の男のものになるのなんて、嫌だ。認めたくない。

 そう思って、シルヴィは自分が彼女を異性として好いている事に、初めて気がついた。

「……なあ、アデル」

 口の中に溜まった唾をこっそりと飲み込んで、シルヴィは彼女を呼んだ。

 アデルの赤い瞳が、彼を見る。

「オレと逃げよっか?」

 提案すると、彼女の目が真ん丸になった。

 自分の手を取ってくれる確率なんて低いだろうと思う。彼は流浪の踊り手だ。安定した生活なんて望めない。

 彼女は貴族だから、どんなに苦しくとも家のために身を売るのが正しいと考えているかも知れない。

 逃げ出すにしたって、シルヴィと一緒である必要は全くない。

 自覚したばかりの恋ではあるが、断られたら、これで終わりにしよう。そう考えながらシルヴィがアデルの反応を待っていると、彼女は心底から驚いたという表情をする。

「そっか。逃げればいいんだ。思いつきもしなかった」

 呟いた彼女は笑う。

「連れていって、シルヴィ」

「喜んで」

 微笑みを返したシルヴィは、アデルに向ける自分の笑顔の甘さを自覚した。


**


 何度かの相談の結果、卒業後のパーティーまでは参加して、寮の荷物も逃避行に必要な分以外は実家に送っておき、パーティーの翌日、最後に幼馴染み二人と集まって茶会をすることにして実家からの迎えの時間を遅らせ、幼馴染みたちにアデルが待ち合わせに来ないと彼女の実家に慌てた様子で連絡してもらうのがいいんじゃないかということに決まった。

 これまで、アデルは幼馴染みたちをシルヴィの公演に連れてくることもなかったし、シルヴィからも誘わなかった。だが、逃避行の作戦を練るにあたって、初めて顔を合わせた。

 一人はアデルの親友でもあるらしいご令嬢、レベッカ。それから、三人の中では唯一の男子であるティモテオ。二人ともアデルとは違っていかにも意思の強そうな顔立ちで、アデルが挟まることでバランスが取れていたのかも知れないな、とシルヴィは思った。

 アデルを含めて三人ともそれぞれ実家は領地持ちの貴族で、本来ならば定住の地を持たないシルヴィが関わることなんてなかったはずの身分の相手だ。

 そしてこの時に、アデルという名は略称のようなもので、他の人間にはアデリーナと呼ばれているのを知った。初対面の時には旅の踊り手に本名を告げるのが躊躇われたからなのだろう。その判断は間違っていなかったと思うし、今となっては自分だけが違う呼び方をすることに少しの特別感を覚えなくもない。

 後でシルヴィも、「オレも本当はシルヴィオっていうんだけどね」と教えておいた。まあ彼の場合は、旅芸人として少しでも短いほうが覚えてもらえやすいだろうと考えているのと、女装しているつもりはないといっても性別不詳のほうが集客に有利だという理由からだったが。

 ティモテオはアデルに思うところがあるのか、彼女にずっと何ともいえない視線を向けていた。アデルがティモテオに目を向けていたなら、違ったのかも知れない。ティモテオも身分は申し分ないようだから。

 でも、アデルはシルヴィの手を取ってくれた。

 行き先は告げない。アデルが信頼する二人が告げ口をするとは思っていないが、何かのはずみでぽろりと漏れてしまうといけないからだ。

 アデリーナを頼む、と、シルヴィに向かって二人は口々に言った。

 幼馴染みの彼女が父親よりも年上の貴族の第五夫人になるよりは、流浪の踊り手の男と共に出奔するほうが彼女のためだと思ったようだった。

 だからシルヴィも、任せてほしい、と答えた。


 卒業パーティーの前日、夕方の最後の枠で、シルヴィはアデルと出会った舞台で踊った。

 アデルは相変わらずきらきらした目で見つめてくれたし、彼女の幼馴染み二人も感心したようにシルヴィが舞う様を眺めていた。


**


 士官学校で行軍や野営の経験のあるアデルは旅路に音を上げることはなかった。野宿の際の食事など、適当に携帯食で済ませていたシルヴィよりもよほどまともなものを準備してくれて、作り方を教わることもあった。

 軍学を修めたアデルは、兵を伏せやすい地形の知識の応用から、目的地までのより安全なルートを提案してくれた。

 また、アデルの実家であるピュール公爵領からは離れた土地を回ることで、彼女の父親が差し向ける追手に脅かされるようなこともなく、一人の時よりも楽しく平穏に日々を重ねていく。

 シルヴィがアデルを口説いて男女の関係になるまでに、そう時間はかからなかった。

 はっきりと好きだとは言わなかったし、アデルからもそういった言葉を聞いたことはないけれど、そのうちに彼女はシルヴィの子供を妊娠し、落ち着くまではと二人は小さな村落の片隅の小さな家を借りて、そこに定住を始めた。

 シルヴィは時々近隣の町で踊って稼ぎ、その収入で生活しながら、アデルを連れてポースを旅立ってから三年が経っていた。

 生まれた娘リリアーナはもうすぐ二歳になる。


 そろそろ一度、リリアーナを連れて旅をしてみようか、と話していた頃だった。

「アデル。踊りに行った町で噂を聞いたんだけど、ピュールで反乱が起きてるらしいんだ」

「えっ……、どういう事!?」

 赤い目を見開いて、アデルが声高に聞き返す。

 その声で娘が起きてしまわなかったか確認してから、シルヴィは首を振った。

「詳しい事は分からない。この辺りはピュールからはかなり離れてるから、噂が本当かも分からないけど、あんたの姉さんが主導のクーデターだって話があった。他には農民の蜂起だとか、色々」

「……お姉様……」

 震える声で、アデルは呟く。

 ピュール公爵家の嫡子、正妻の娘であるアゴスティーナには、レベッカとティモテオを通して口頭でアデルは自分の意志で失踪したのだと伝えてもらってある。アデルの婚約の件についても父親に激しく抗議していたようだと、逃避行の計画を相談している間に分かったからだ。公爵の手の者に追われることがなかったのも、アデルの姉が手を回してくれていたのかも知れない。

 アゴスティーナは、母親は違えどアデルを妹として本当に大切に思っているのだろう。そしてそんな姉を、アデルも慕っている。

 青ざめた顔をして、アデルはシルヴィを見た。

「ねえ……、お願い、シルヴィ。わたしを、ピュールに行かせて」

「一人で!?」

 今度はシルヴィの声が大きくなった。

 アデルは真剣な表情で頷く。

「何が起きてるのか確かめたいの。本当にお姉様が関わっているなら、お助けしたい……」

「分かってんの!? あんたはピュールを出奔した身だ。先に親父に見つかったら連れ戻されるだけじゃ済まないかも知れないんだぞ!?」

 シルヴィは声量を気遣いながらも怒鳴るような声音で訴える。

「……そう、だけど……、……でも」

「ああああ、もう」

 こうなったアデルが折れる事はほぼないと、この三年でシルヴィは身に沁みている。

 商売道具でもある長い黒髪を右手でかき上げて、溜め息を吐いた。

「オレも行く」

「えっ、でも」

 狼狽えたようにアデルの視線が、娘が眠っている奥の部屋に向く。

「もちろんリリも連れてく。旅の計画が少し早まるだけだろ」

 シルヴィの言葉に、アデルは困ったような顔をする。困ってるのはこっちだ。

 だけど、彼女の故郷で起きている事件について、黙っていることはできなかった。

 知ってしまったからには、シルヴィは「伝えなければ」、アデルは「ピュールに向かわなければ」、後で事件の結末が耳に入った時に、きっと後悔するからだ。

 彼が折れることもないと、アデルも解っているのだろう。

 彼女は深い溜め息を漏らした後で、頷いた。

「でも、ピュールに近づいたら、シルヴィはリリと一緒にどこかの町で待っていて」

「……、それは……まあ、うん。約束する……」

 アデルは士官学校で、剣の扱いも教わっている。出奔の際にも帯剣してきた。当人は素人とはいえ一時的に傭兵団に同行することもあったシルヴィから見て、突出して腕が立つというわけではなかったが、それでもある程度の相手と戦えるだけの技量はある。

 逆にシルヴィは、舞に取り入れるために彼女から少しだけ剣を教わったものの、戦いに活かせるほどには腕は上がらなかった。加えてリリアーナもいる。娘を連れてシルヴィがどこまでもついて行くのはアデルにとって足手まといにしかならないという事は、彼も理解していた。


 元々、ある程度娘が育つまでの仮の住まいだった。

 荷物はそこまで多くはなく、すぐに準備をして翌日には発つことにした。

 家族が病で故郷に帰る、いつ戻れるか分からないからと適当に理由をつけて、借りていた家の契約も終わらせた。

 二年と半年ほど暮らしていた村の、気のいい住人たちに見送られて、シルヴィとアデルはリリアーナを連れてピュールを目指し出発した。


 二人で旅をしていた頃には徒歩での移動が圧倒的に多かったが、急ぐことと、まだ幼い娘を連れての旅路ということで、乗合馬車を乗り継いでピュールへ向かう。

 近くの町へはリリアーナを連れて出かけたこともあったが、初めて馬車に乗って、知らない場所をどんどん走っていくのが娘には楽しいらしい。そんなリリアーナの様子に癒されつつも、気が急いてしまうのはアデルだけではなく、シルヴィも同じだった。

 近づくにつれて、ピュール公爵領の状況がより明確に耳に入ってくる。

 とある町で、リリアーナをアデルに任せて踊りに行ったシルヴィは、そこで耳にした噂話を彼女に伝えた。また、夕食時に三人で訪れた酒場で聞いた話とを合わせて、娘を寝かしつけた後の宿の一室で情報を整理する。

 内容にばらつきはあったが一番多いのは、ピュール公爵家の嫡子アゴスティーナが、父であり現公爵であるヴィットーリオに対し爵位の継承を迫ったが、公爵はそれを棄却した。そこで、アゴスティーナは長年調査していた不正の記録を公爵へ叩きつけたが、ヴィットーリオは自分の配下の騎士たちに守らせて城に立て籠もってしまったのだという。アゴスティーナは自分側へ引き込んだ騎士や、ヴィットーリオの不正に反発する民、また傭兵や協力者である周辺の貴族たちの力を借りて公爵城への攻撃をかけているという話だった。

 以前にアデルから聞いたことがあるが、籠城と攻城であれば籠城する側が圧倒的に有利だという。膠着状態のまま、戦いは長引いているそうだ。

 これだけの騒ぎになり、また公爵の不正の証拠を受けてデュナステイアーの王家からも投降を呼びかけているが、従ったところで爵位剥奪、囚われの身となる事が分かっている公爵は城から出てこないのだという。彼に従った騎士としても、投降後の扱いを考えれば素直に降伏できないのだろう、とアデルは言っていた。

「でも、王家もお姉様を支持しているとなれば尚更、兵糧が尽きたらいずれは負けちゃうのにね」

 呟くようなアデルの声に彼女を見れば、冷ややかな目をしていた。

 結婚に関しての話よりも以前から、公爵にはあまり良い扱いをされていなかったらしいアデルの中で、父親に対する情はすっかり消失したようだった。


 暮らしていた村を出発して、約三週間。

 ピュール公爵城の籠城戦は未だに続いていた。

 アデルによれば、公爵城には元々住み込みの使用人や騎士も多く、彼らの分も含めて食糧の貯えは十分にあるはずだという。そして、食糧が十分であれば、何ヶ月もの籠城も可能なのだそうだ。シルヴィには縁のない世界であったが、説明を受ければなるほどと納得する。

 ピュール公爵領の手前の町で宿を取ると、アデルはシルヴィが抱いているリリアーナの頭を撫でながら、優しく声をかけた。

「明日から、お母さんはちょっとお出かけしてくるの。お父さんと一緒にいい子で待っていてね」

「……かーた、ちゃうの?」

「うん。お母さんのお姉ちゃんに会ってくるんだよ」

「あゃく、かえっ、きてね」

「うん」

 シルヴィも娘の、自分と同じ緑がかった黒髪を撫でた。瞳の色はアデルと同じ赤だ。

 公爵が籠城している以上、その手の者に見つかってアデルがどうこうという懸念は少なくなったものの、彼女が戦場に向かうという事実は変わらない。また、すぐに姉に会えるのかどうかも分からないのだ。

 心配ではあるが自分にはどうにもできない不安に唇を噛んでいると、彼のそんな表情を見たアデルは困ったように笑った。

 彼女は立ち上がると、着替えなどを入れてある荷物の中から何かを取り出し、シルヴィの前に差し出した。

「……これ」

 赤いシルクに緻密な刺繡が施されたそれは、初めて会った時に、彼女がおひねりの代わりにシルヴィに渡そうとしたもの。

 絶望に沈んだ目をしていた彼女を不安に思って、翌日の約束を守らせるためにシルヴィが預かったもの。

 大切にしまってあったそのリボンは、退色することもなくあの時のまま、きれいな状態を保っている。

「ちゃんと受け取りに来るから。預かっておいて」

「……分かった」

 必ず帰るという約束なのだろう。シルヴィも素直にそれを受け取った。

「リリもシルヴィもいるのに帰ってこないなんてこと、誓わなくたってないんだけど」

「あんたが自分の意志で帰ってこないなんて思ってない。心配なだけなんだよ」

 ちょっと心外そうなアデルの言葉にそう返すと、彼女は微笑んだ。

「うん、分かってる」

 綺麗な赤いリボンが気になったらしく手を伸ばしたリリアーナの手を、アデルがそっと握る。

「リリがもっと大きくなったらあげるからね」


**


 ピュール領へアデルを見送ってから、そろそろ十日になる。

 公爵の籠城は未だ続いていて、失踪していた公爵家の次女が合流してアゴスティーナの陣営に参戦したなんて話も流れてきた。

 とりあえず、彼女が無事に姉と再会できたらしいと知ってほっとする。

「母さんは無事にお姉ちゃんに会えたみたいだな」

 リリアーナに声をかけると、娘からは「じゃあいつ帰ってくるの」というような内容の質問が飛んでくる。

「う~ん、いつだろうな!?」

 状況が不明なので答えあぐねていると、「なんで」「どうして」が繰り返される。オレだって知りたい。

 困り果てたシルヴィの視線の先に、目的地である修道院が見えてきた。

「父さんはこれからお仕事だから、今日もあそこでいい子で待っててな」

「うう~……!」

 件の修道院は孤児院も併設していて、しばらく観察した結果、信頼も置けそうだったので、シルヴィは踊りの仕事の間だけ、対価を支払って修道院に娘を預けていた。今回で三回目になる。

 リリアーナは不満そうに唸ったが、娘がこれまで育った村に近い年齢の子供はいなかったので、同年代の他の子供たちとの交流は楽しいらしく、それ以上の文句は言わなかった。

 初回はギャン泣きされたのでシルヴィは安堵する。まあ、両親共に側にいないなんて今までなかったから仕方がないのだが、アデルがいつ戻ってくるのか分からない以上、シルヴィが定期的に稼いでおかないとそのうちに宿に泊まれなくなってしまう。リリアーナを連れて野宿なんてしたくないし、町を出てしまってはいざアデルが戻ってきた時に会えなくなってしまうのだから、やむを得ない。

 修道院にリリアーナを預けると、シルヴィは一旦宿に戻って化粧と着替えを済ませ、大判のショールを頭からかぶって出かけた。頭からショールも十分怪しいのだが、踊り手の恰好そのままでは余計に目を引く。

 宿の主人には、一階に併設されている酒場でも踊りを披露することで毎日の食事代をサービスしてもらっている。その際はリリアーナはカウンター内で預かってもらっていた。

 今滞在しているこの町も比較的大きく、旅芸人の公演に関しては首都ポースと同じ仕組みで予約して舞台を利用するようになっている。

 時間通りに舞台に上がり、まとっていた大判のショールを広げた。

 集まった観客たちから歓声が上がる。

 重ねづけしたブレスレットやアンクレットが立てるシャラシャラという音を、楽器の代わりに。

 衣装や長く伸ばした髪の流れを意識して、軽快なステップで舞う。

 赤と緑の石を使ったアクセサリーがきらきらと光を反射する。

 観客は惚れ惚れした様子で彼の踊りを見つめていた。

 そんな観衆の中に現れた、少しだけ周りと違う視線。でも、それはシルヴィがよく知っているものだ。

 舞台の上でくるくるとターンをしながら、そちらに目を向けた。

 赤い瞳がきらきらと輝きながら、うっとりとした視線をこちらに送っている。

 ──アデル! 帰ってきた!!

 思わず舞台を放り出しそうになったが、踊り手としての矜持でもって踏みとどまり、最後までしっかり踊りきった。

 舞うようにおひねりを回収しながら観客に愛想を振りまき、ようやくほとんどの客がいなくなると、シルヴィは舞台から飛び降りてアデルの所へ駆け寄った。

「戻ったんだな、おかえり!」

 思わずアデルを抱き締めたら、横合いから咳払いが聞こえた。

 視線を向けると、三年前に二度ほど会ったきりのティモテオとレベッカの姿があった。

「二人の実家もお姉様の蜂起に協力してくださっていたの。それで、お姉様との面会が叶った後で、陣営で再会して」

「そうだったのか」

「それで迎えに来たのだけど、宿に行ったら仕事に出かけたって聞いたから、この町の公演場所を探してここに来たの。リリは?」

「修道院に預かってもらってる。一緒に迎えに行こう。リリも喜ぶ」

「うん」

 一際大きく、再び咳払いをされてシルヴィはティモテオを見た。

「結婚もせずに子供をつくるなんて、放埓な……!」

 まあ、それは言われた通りなので返す言葉もないのだが。

 とシルヴィが思っていると、アデルが口を挟んだ。

「ティモテオだって、レベッカと授かり婚だって聞いたけど?」

「へえ」

「俺はっ……! ち、ちょっと順番が狂っただけで、ちゃんと結婚した!!」

 弁明しようとするティモテオから、シルヴィは視線をレベッカに移す。

 三年前にはティモテオはアデルに対して思うところがあったようだし、出奔の計画を練っていた時に会ったからとはいえレベッカもアデルを心配していただけで、ティモテオに対して特別な気持ちがあるようには感じられなかったが、三年も経てば色々と変化もあるらしい。

「まあ、そういうこと」

 シニカルにも見える笑みを浮かべたレベッカは肩を竦めた。

「それよりリリちゃんを迎えに行かないの?」

 彼女に促され、四人で移動を始めた。

「ってことは、あんたたちも子供がいるんだろ?」

「うちの領地で留守番させているよ。俺たちも常にアゴスティーナ殿の戦線にいるわけじゃなく、兵糧の補給と派遣している兵の様子を確認しに立ち寄って、たまたまアデリーナと再会したからついて来たんだ」

 ティモテオが答える。

 アデルが言葉を継いだ。

「二人のお陰で、シルヴィのこともお姉様にちゃんと説明できて、娘もいるなら連れてきなさいって言ってもらえたの。馬車も貸してくれたから、今晩はこの町で休んで、明日になったら一緒にお姉様の所へ行こう?」

「そっか。うん、アデルがいるならどこだって」

 彼女の話だけで、公爵家の嫡子から妹との婚外子をつくった自分が認められたなんて思えないが、それでも何がどうなっているのか分からないまま離れているほうが嫌だ。

 無意識に甘い声で答えたシルヴィに、レベッカは眉を上げ、ティモテオは「しょうがないな」といった表情で笑った。


**


 ピュール公爵家が用意してくれたという馬車は、乗合馬車とは乗り心地が全く違った。

 そして、馬に対して乗車人数が少ないためか、速い。

 十日ぶりに母親に会えたリリアーナは昨日からアデルにべったりだったが、その興奮とこれまでとは様子の違う馬車にはしゃぎ回り、今はアデルの膝で眠っている。

「代わろうか?」

 そろそろ体が痛くなってきたのではとシルヴィが申し出たが、アデルは微笑んで首を振る。

「大丈夫。離れていた分もリリを抱っこしていたいし」

 シルヴィとリリアーナがアデルの帰りを待っていた町から、公爵家の馬車だとアゴスティーナの陣営まで二日とかからないらしい。それで何故戻るまでに十日もかかったのかというと、アデルの顔を知る公爵家の騎士が出てくるまで身分の証明ができずにアゴスティーナに面会できなかったこと、面会できてからも反乱の詳細や戦況の確認と、出奔してからのこちらの状況を説明するのに時間を要したからのようだ。

「あのままわたしが、父の命令通りに第五夫人になるよりも、逃げ出してでも元気でいてくれて良かったって、お姉様はそう言ってくれた。それに、わたしが思っていた以上に、父の不正が酷かったの。だから、父の失脚とお姉様が公爵位を継承するために、微力でもわたしが力になれるのならそうしたくて」

「うん」

 ぽつぽつと語るアデルの言葉に、シルヴィは相槌を打つ。

 同乗しているティモテオとレベッカも黙って聞いていた。

「でも、リリやシルヴィを町に残したままだとすごく心配させるだろうから、陣がある程度安全だって分かってからは二人を連れて行きたいと思ってたの。レベッカとティモテオのお陰でスムーズに話が進んだから良かった!」

 アデルはそう言って笑うが、シルヴィが向かいに座るティモテオとレベッカを見ると二人は一様に目を逸らした。

 ……だよな。シルヴィも思う。

 スムーズに済んだと考えているのはアデルだけだろう。大好きらしい姉に関してだから判断力が鈍っているのかも知れない。

 流石に殺されはしないだろうが、心構えだけはしっかりしておいたほうがいい。

 シルヴィは気持ちを引き締めた。


 途中の町で一泊して、一行はアゴスティーナ率いる攻囲軍の本陣に到着した。

 軍議にでも使うのか、テーブルと椅子が用意されている天幕に通されて、しばらく待つ。シルヴィとアデル、リリアーナだけでなく、ティモテオやレベッカも同席することになっているのはアデルの出奔に関わっているからなのだろうか。

 膠着状態の戦闘の最中(さなか)で、主導者は嫡子とはいえ未だ公爵令嬢という立場にあっても、やはり領地持ちの大貴族なのだろう。アゴスティーナを待つ間に出されたお茶は、今までシルヴィが飲んだことのない、なんだか高級そうな香りと風味がした。

 やがて天幕入り口の垂れが揺れると、一人の女性が姿を現した。

 アデルと同じ赤みがかった茶色の髪はゆるく波打っており、それを首元でひとつに束ねてある。切れ長で一目でやり手だろうと伝わってくる瞳もアデルと同じ色をしていた。顔立ちはアデルが可愛い系、アゴスティーナが綺麗系ではあるが、言われなければ片親が違うだなんて思わない。

 黒を基調とした軍服に身を包んだ彼女は、天幕の奥側の空席に腰を下ろした。

 後に続いてきた侍従と思われる女性が、アゴスティーナのお茶を準備し、待っていた四人にはおかわりを注ぐ。リリアーナには水のおかわりを入れてくれて、退出していった。

 天幕が閉まると、アゴスティーナの鋭い目線がシルヴィを射抜く。

「アデリーナの姉、アゴスティーナだ。シルヴィオくん、だね」

 どうやらアデルは説明するにあたって彼の本名も伝えたらしい。知らなかったティモテオたちからの「末尾にオがついたの?」みたいな視線を感じる。

「はい」

 シルヴィが頷くと、アゴスティーナは僅かに相好を崩した。

「……まずは、父の決めた非道な結婚を厭う妹の救いとなってくれた事、礼を言う。君たちの話をする時のアデリーナはとても幸せそうで、この三年間も元気でやっていたようで安心した。ありがとう」

「あ、いえ……」

 雰囲気も顔立ちも強そうなアゴスティーナに鋭い視線を向けられて、場合によってはいきなり斬りかかられるんじゃないかと内心でびびっていたシルヴィは、お礼を言われて面食らった。

 アゴスティーナは次にアデルの膝に座っているリリアーナに目を向けた。アゴスティーナが入って来るまでは天幕の中を物珍しそうに見回していたリリアーナは、今度は美しく強そうな伯母に興味津々のようだった。

「だ~れ?」

 リリアーナが首を傾げると、アゴスティーナは目尻を下げる。

「君のお母様のお姉さんだよ。君の伯母にあたる」

「おばー?」

 繰り返したリリアーナに頷いてみせてから、アゴスティーナは再びシルヴィに視線を戻した。

「結婚もせずに我が妹に子供を生ませた事に関して思うところがないわけではないが……、貴族は本人の意向に加え、家長の承認が得られないと婚姻できないようになっているからな。そこは仕方がない」

 お茶を一口飲んでから、アゴスティーナは続けた。

「父が立て籠もっているピュール公爵城だが、戦勝後には公爵位を継いだ私がそのまま使うために、建物の被害を最低限にしたいと考えていたのだが、そろそろこちら側の士気も落ちてきていて、本格的に攻め落とそうと考えていたところだ。明後日には総攻撃をかけられるよう準備が進んでいる。そうなれば時間の問題だ。この戦いに勝利し、私が公爵家の家長になれば二人の結婚を承認しようと思うが、君にその気はあるか?」

 妹の子供の父親とはいえ、一介の踊り手に戦況と今後の展開を話し始めた時には何事かと思ったシルヴィだったが、それが結婚へ繋がる話だと理解して息を呑む。

 一瞬だけ、隣に座るアデルを見てから、アゴスティーナに真っ直ぐ目線を合わせた。

「アデルが、オレを望んでくれるのなら」

「望まないわけないでしょっ……!?」

 隣から、少し拗ねたようなアデルの声がする。

「そうか、良かった」

 アゴスティーナが微笑む。顔立ちは全く違うが、その笑顔はどこかアデルに似ていると感じた。

「でも、オレは平民どころか物心ついた時には旅芸人の一座にいて、アデルの妊娠が分かるまではずっと流浪の生活をしてましたから、身分差どころか、多分身分そのものを証明できるものが何もないと思いますけど」

「そこはまあ、公爵家の権力でどうとでもするよ」

 口端を上げてニヤッと笑ったアゴスティーナに対して、シルヴィは腹の底が冷えるような恐れを感じた。

 だがまあ、その恐ろしさが自分に向けられているわけでは今は少なくとも、ない。

 アゴスティーナは続けて本格的な攻城についての話を始めた。ティモテオたちの同席は、味方の有力貴族の子女で士官学校を卒業している二人にも指揮官として参戦してほしいからという理由だったようだ。当然、そこにはアデルも含まれている。

 戦いの役に立てないシルヴィは自分の膝に引き受けたリリアーナを構いながら、黙ってその話を聞いていた。

 アデルは軍学の知識をシルヴィに説明する時には分かりやすい言葉で教えてくれたが、今はその知識を当然に持っている者たちの会話のため、彼にはよく分からない専門用語も飛び交っている。

「改めて、明日(あす)の午後に各部隊の長を集めて軍議を開く。そこから全軍に通達し、明後日には攻城にかかる」

 アゴスティーナの言葉で、決着が近いという事だけは理解した。

 彼女が改めてシルヴィを見た。

「シルヴィオくん。君は素晴らしい舞い手だと、アデリーナだけでなくレベッカ殿やティモテオ殿からも聞いている」

「あ……、どうも、ありがとうございます……?」

 唐突に舞の話になり、シルヴィはしどろもどろに返す。

 アゴスティーナは艶然と微笑んだ。

明日(あす)の晩、本陣で景気づけに舞を披露してくれないか。攻撃の要はこの本陣だからね。士気は少しでも高いほうがいい」

「はい、そういう事なら、喜んで」

 アデルとリリアーナとの幸せな未来のために、自分にもできる事があるのなら。

 シルヴィは深く頷いた。


**


 しっかりと化粧をして、今日は気分を高揚させる効果が見込めると言われている赤を基調とした衣装を身にまとう。

 身支度を終えたシルヴィを訪ねて来たアゴスティーナは、感心したようにほぅと息を吐いた。

「綺麗な顔をしているとは思っていたが、それを鑑みても化けるものだな」

「ありがとうございます。褒めてもらって光栄です」

 シルヴィは笑顔でお礼を言った。

「すごいでしょう、シルヴィは。踊るともっと素敵なんですよ」

 リリアーナを抱いたアデルが隣で姉に彼を売り込んでいる。

 照れくさいが、彼女に褒めてもらえるのが、一番嬉しい。

「とーた、きれい!」

 愛娘からも褒めてもらえて、俄然シルヴィのテンションが上がる。

「じゃ、行きますか」

 身支度のために宛がわれた天幕から躍り出る。

 アゴスティーナからの通達で集まった兵士たちは、久々であろう娯楽に盛り上がる。

 天幕から兵士たちの輪の中心までは少しだけ距離があるが、軽やかなステップで手を振り笑顔を振りまきながら移動して、中央に立った。

 拍手を受けたシルヴィは、一礼して踊り始めた。

 夜ではあるが、赤々とした篝火が彼を照らし、金属のアクセサリーが輝く。

 兵士たちの熱狂が今日の演奏だ。

 きれいに結った髪やショール、衣装の裾をはためかせ、シルヴィはくるくると舞う。

 アデリーナお嬢様の旦那らしいぞ、なんて小声の会話が耳に届いた。

 「まだ」旦那じゃないのだが、そう扱ってもらえることに喜びを感じてしまう。

 三年も姿をくらましていた公爵家の次女が旅の踊り手を暫定夫にして帰ってきただなんて、どう思われているのか分からないし、良く思わない者のほうが多そうだ。

 でも、アデルが望んでくれるのなら、周囲の冷たい視線なんて跳ねのけてみせる。

 彼女と、ずっと一緒にいたいから。


「お疲れ様、シルヴィ!」

 二種類の演舞を立て続けに踊って兵たちの輪の中心から退いたシルヴィに、リリアーナを抱いたアデルが駆け寄ってきて労いの言葉をくれた。

「あっちに夕食が準備してあるから、一緒に食べよう」

 熱気冷めやらぬ兵士たちにも食事や酒が振る舞われており、ざわめきから士気の上昇が窺える。

「先に食べてても良かったのに」

 そう答えながらも、待ってくれていた事が嬉しい。

「シルヴィの踊りを見ないなんてもったいないもの。そんな事しないよ。お姉様やレベッカたちも、さっきまで一緒に見てたんだけど、先にテーブルの所に行ったみたい」

 簡易的なテーブルセットの置いてある場所まで連れていかれると、そこではアゴスティーナやティモテオ、レベッカが既に待っていた。

「ご苦労だったね。アデリーナが絶賛するだけはある。素晴らしい舞だった」

「ありがとうございます」

 アゴスティーナに褒められてほっとする。

 ティモテオたちからも賛辞を受け取り、和やかな雰囲気で美味しい料理を食べた。

 やがて色々と興奮していたリリアーナが疲れて寝落ちした。

「オレ、先に戻ってリリをちゃんと寝かせるよ」

 食事も済んでおり、少しのお酒を楽しんでいただけだったシルヴィが提案すると、アデルは首を振った。

「ううん、わたしも行くよ」

 そのまま立ち上がり、彼女は残った三人に軽く頭を下げた。

「お姉様、レベッカ、ティモテオ。明日はよろしくお願いします」

「ああ、こちらこそ。ゆっくりおやすみ」

 口々に就寝の挨拶を交わし、シルヴィとアデルはすっかり眠ってしまったリリアーナを連れて宛がわれた天幕へ向かう。

 アデルがアゴスティーナと面会してから、彼女のために予備の天幕を準備してもらったそうで、昨晩からそれを一緒に使っている。

 寝台はひとつしかなかったが、暮らしていた村の小さな家にあった寝台よりも大きなものなので、特段困りはしない。

 アデルがリリアーナを引き受けて、眠っている娘を寝間着に着替えさせてくれたので、シルヴィは化粧を落としてアクセサリーを外し、衣装を脱ぐ。寝間着に着替えて振り返ると、リリアーナは寝台で横になって眠り続けており、アデルも寝間着姿になっていた。

 本来は陣中で寝間着に着替えるなどほぼないそうだが、公爵の手の者が城から討って出る可能性はまずなさそうだということで、アデルも着替えることにすると昨晩言っていた。

 コップに水差しの中身を注ぎ、一杯を二人で分け合ってから、明かりを消して寝台に入った。

 リリアーナを真ん中に、シルヴィとアデルがその両脇を守るように。

 シルヴィは二人のほうを向いて横になり、上になった手を伸ばしてリリアーナごとアデルを抱き寄せた。

「……アデル」

「どうしたの?」

 アデルも同じようにシルヴィの肩を抱く。

 体を重ねても、子供が生まれても、いつか終わりが来るんじゃないかと、どこかで怯えていた。

 でも、そうじゃない、アデルも間違いなく、自分を求めてくれているんだと、昨日、ちゃんと分かったから。

「愛してるよ、アデル」

 囁くと、暗がりの中で彼女が笑った気配がした。

「うん。わたしも」

 ここが天幕の中じゃなかったら、間違いなく物理的にアデルを求めてしまうところだった。


**


 王家や他の貴族家の力も借りて攻城兵器を用意したアゴスティーナは、それを今後の運用に影響の少ない城の一角へ撃ち込んだ。

 途端に籠城していた公爵の騎士や兵士たちはパニックに陥り、その混乱に乗じて方々から城へ攻め込んだ攻囲の軍が制圧したという。

 もちろん、ピュール公爵や彼の不正に加担していて一緒に籠城していた役人たちも捕縛され、城は呆気なく落ちた。

 これは、討って出れば確実に負けると分かっている兵力差で長らく包囲されて、籠城側の士気が下がる一方だったことや、その兵力差のお陰で攻城兵器を準備する時間の余裕を攻城側が作れたからという話だった。

 アデルは公爵の前に姿を現さないほうがいいというアゴスティーナの判断により、決着を待たずに大勢(たいせい)が決した段階で前線の指揮から下げられた彼女から説明を受けた。

「戦はやっぱり分からないけど、とにかくアデルが無事で、良かった」

 負傷することもなく、公爵と鉢合わせて心を傷つけられることもなく。

「ありがとう。シルヴィとリリが応援してくれたからだよ。それに、二人のためだもの」

 アデルが微笑む。

 その笑顔があまりに綺麗で、シルヴィの胸が久しぶりに高鳴った。


**


 その後、ピュール公爵位は予定通りアゴスティーナが継いだ。

 前公爵は裁判を通して正式に様々な不正を明るみに出され、王家の賛助もあり公爵城の地下深くに存在する牢獄に終生幽閉されることが決まったそうだ。本来ならば罪人は労働を伴う刑罰を受けて罪を償うものだが、アゴスティーナが本腰を入れて調べるまでも長らく不正を繰り返していた前公爵は頭も切れるし、弁も立つ。誰かと接触させることで脱獄や悪事を企て再びの被害が起こっても良くないという判断なのだという。

 二人の結婚の件があるが、王家や他領の貴族への返礼や対応が優先となるのでしばらくは城でゆっくりしていてほしい、とアゴスティーナに言われて、結局落ち着くまでピュール公爵城で過ごすことになってしまった。

 寝具も食事もシルヴィがこれまで知っていたものとはまるで格が違うので、あまり長居するとこれまでの生活に戻れなくなるのではと危惧したのだが、生まれた時からこれを知っていたアデルがシルヴィの水準の生活をしていたわけだし、それには戻れない事情もあったとはいえ、きっと大丈夫だろうと思い直す。

 時々町に出て踊りを披露すると喜ばれた。

 週に何回かは夕食の際に顔を合わせていたアゴスティーナだったが、ようやく執務室に二人揃って呼び出しを受けたのは三ヶ月が過ぎようとした頃だった。リリアーナはこの城での生活の間につけてもらった世話係に預けてきた。

「まず、シルヴィオくんがアデリーナと結婚するためには、シルヴィオくんも貴族の籍を手に入れるのが手っ取り早い」

 すごい事を簡単に言うなあ、と思いながらシルヴィが黙って聞いていると、肯定と受け取ったらしいアゴスティーナが続ける。

「そこで、だ。我がピュール領には、途絶えた子爵家がある」

 ぴくんとアデルが反応した。

 アゴスティーナも頷く。

「スピンテール子爵家。アデリーナの母親の生家だが、前公爵が唯一の子供だったアデリーナの母親を娶り、結果的に取り潰してしまった家だ。君にはスピンテールの遠縁の出身として貴族籍を与えようと思う。そして血統的には直系になるアデリーナが君を婿に迎えれば、表向きにも内部的にも問題なくスピンテール家を復活させられるし、アデリーナにも母親の実家を継がせてやれると考えたのだが、どうだね?」

 シルヴィはアデルを見た。

 目を潤ませた彼女の、震える肩にそっと手を添える。

 アデルは頷いた。

「……本当は。シルヴィは一箇所に留まってはいけない人なんじゃないかって、思ってるの。わたしも、貴族の生活への未練もほとんどないし……。……でも、お母様の実家を、立て直せるのなら。お姉様の申し出を、受けたいと思うの……」

「オレのことは、気にしないでいいよ。旅をしながら踊ってたのだって、家もないしそれしか知らないからだった。リリが生まれてからは、やっぱり子供のためには落ち着いて生活できたほうがいいのかなって思ってたし、それに」

 一度言葉を切ったシルヴィを見たアデルの、どこか不安そうな目に微笑んで見せる。

「オレの居場所はさ、アデルのいる所だから」

「……! シルヴィ……」

 アデルの表情が、ぱあっと花が咲くように明るくなった。

「言ってくれるな」

 応接机を挟んだ向かいから、アゴスティーナが笑みを含んだ声で呟く。

「アデリーナを救ってくれたのが、君で良かった。ありがとう」

「こちらこそ、彼女との結婚を許してくれて、そのための方法も考えてくれて、ありがとうございます」

 シルヴィは頭を下げた。

「いいさ。可愛い妹のためだ」

「ありがとう、お姉様……!」

 立ち上がったアデルは、机を回ってアゴスティーナの側まで行くと、姉をぎゅっと抱き締めた。


**


 それから更に二ヶ月が過ぎ、ピュール公爵家の力でスピンテールの屋敷の修繕と家具類の準備、使用人の選定が済むと、シルヴィはアデルとリリアーナと三人、新たな住まいへ移り住んだ。

 事前に何度か見学には来ていたのだが、ベージュの外壁に赤みがかった茶色というアデルの髪と似た色の屋根を持つ上品な建物で、子爵家とはいえ貴族の住まいなので部屋数も多い。そしてそれぞれの部屋が広い。シルヴィも公爵家での半年近い生活である程度は慣れたが、寝室だけでも前に住んでいた村の小さな家全部より広いんじゃないかという気がする。

 シルヴィはいつか体が踊りについていけないくらいに衰えるまでは、スピンテールの屋敷のある町や近隣の町村で踊り続けるつもりだった。

 スピンテール子爵となったアデルは、姉の補佐として週に二回ほど公爵城に通い、休日を除いた在宅日には持ち帰ってきた書類の確認や処理をすることになった。

 新たな生活が始まってすぐに、アゴスティーナの計らいで結婚式まで挙げさせてもらい、更には二人目の妊娠も判明して、こんなに幸せでいいのかと、シルヴィは少しだけ怖くなる。

 けれどその恐れも、愛しいアデルや娘の笑顔を前にすれば吹き飛んでしまう。

 貴族の屋敷だからか、一階には小さいながらも広間がある。小規模の舞踏会くらいなら開けそうだとアデルが言ったその広間は、専らシルヴィの踊り専用になっている。もっとも、一人で踊るには今度は広すぎるのだが。

 観客はアデルとリリアーナ、それから一部の使用人。

 シルヴィの踊る姿を、アデルは誰よりも喜んでくれる。

 ──だから踊り続けるし、ずっとあんたの側にいるよ。

 笑顔でシルヴィの舞を見つめるアデルに、彼も一番の笑顔を向ける。

 そして愛する妻に最高の踊りを捧げるのだ。

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旅芸人のシルヴィと貴族の娘アデルが出会うシーンで作品世界にひきこまれました。 アデルを放っておけなかった心情からシルヴィの優しさが伝わってきて、そうした積み重ねによって二人への親しみが湧きました。 シ…
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