さらに変わったおじさんがいた
スぺレッセは、パチリと目を開ける。
小屋の壁の隙間から、朝の光が舞い込んでいた。
「夢?」
スぺレッセの胸元で、子猫が丸まっていた。
べッドの上でスぺレッセが体を伸ばすと、子猫も真似をした。
カタリと音がする。ドアの前に朝食が置かれたらしい。
スぺレッセはテーブルに運ぶ。朝食は黒い色のパンとミルクだけだ。
ミルクといっても、スぺレッセに与えられるのは、牛乳ではなく山羊の乳だ。
山羊の乳なら猫でも飲める。
小皿にミルクを注ぎ、スぺレッセは子猫に与えた。
スぺレッセにはお付の侍女もいないので、朝食後は自分で身支度をする。
祖父母の家でも、そうしていた。
伸びた髪は紐で一つに括り、祖母が持たせてくれた鞄に文房具や教科書を入れる。
スぺレッセの通学に馬車は用意されないので、半刻ほど歩いて、学園に向かう。
学園に入った当初、スぺレッセのピンクブロンドにざわつく者もそれなりにいた。
特に女子はコソコソと噂をしているようだったが、スぺレッセは動じなかった。
一部の男子、特に上級生から声をかけられることもあったが、スぺレッセはやんわりと回避した。
「捨てら令嬢のくせに」
上級生の男子が捨て台詞を吐く。
『捨てら令嬢』
上手いこと言うものだと、スぺレッセは感じた。
確かに親に捨てられたようなものだ。
でも何故、他人が知っているのだろうか。
(まあいいわ。まずは真面目に勉強しなくちゃ)
祖母から貰った本は、国の歴史や隣国の言語、領地の面積を求めるための内容で、十歳のスぺレッセには難しかった。それでも毎日毎日眺めていると、薄っすらと分かってくるものがある。それに比べると学園の課題は、分かりやすい。学園の勉強が進むと、祖母から貰った本の内容も分かるようになる。
スぺレッセが十三歳になり中等部へ進む頃、いつしか彼女は成績優秀者になっていた。
きっちりと制服を着て、放課後は毎日図書館で独習する。
夕暮れまで勉強しているスぺレッセは、司書たちにも顔を覚えられたようだ。
「あまり遅くならないようにね」
たまに会う男性の司書は、スぺレッセの机に飴を置いてくれたりした。
遠巻きにしていた女子たちも、スぺレッセの優秀さや男子に媚びない態度を知ると、少しずつ話かけてくるようになる。
特に子爵家の令嬢プリメアは、スぺレッセと並ぶ成績優秀者で、図書館で何度か顔を合わせるうちに次第に打ち解けた。
「スぺレッセ様、今度我が家へ遊びに来てくださいな」
「あら、嬉しいこと」
柔らかいスぺレッセの笑顔に、プリメアは黒髪をかき上げて言う。
「社交辞令ではないのです。絶対ですよ」
「承知しました」
初めての友だちだ。
スぺレッセの心がほわっと軽くなった。
*婚約したけど捨てられた
この国の貴族は、学園入学の前に子供たちの婚約者を決めることが多い。
スぺレッセの兄は既に婚約が決まっている。姉は候補者の令息がいる。
ただし、兄姉の婚約者(候補者)がどこの家の誰なのか、スぺレッセは知らない。
特に姉などは、自分の婚約者が伯爵邸に来る時は、護衛をスぺレッセの住む別邸前に立たせて、スぺレッセが外に出ないように厳命している。
「絶対出歩かせないで! ピンクブロンドの女は、他人のモノをすぐ横取りするから。『捨てら令嬢』のくせに!」
酷い言われようであるがピンときた。
スぺレッセが親に捨てられたことを、言いふらしていたのは姉だったのだろうと。
そもそも、スぺレッセが本邸に入れるのは、一年のうち一回か二回である。
その一回分が急にやってきた。
「旦那様がお呼びです」
執事に連れられ、本邸の居間に入る。
やや遅れて部屋に入って来た父は、テーブルの上に紙を数枚投げつける。
「お前の婚約者が決まった」
「えっ?」
「二度は言わん。あとは執事に訊け」
そう言い放つと父は出ていった。
眉を下げた執事から、スぺレッセは経緯を聞く。
「お相手は、フォールマテイオ男爵様です。御年四十歳の資産家で、スぺレッセお嬢様とご成婚される暁には、支度金をはずまれるとのことです」
スぺレッセはポカンと口を開ける。
父と同じくらいの年齢の男性が、婚約者だと?
「まあ、当家もいろいろ物入りなもので……」
――物入り?
ああ、お金が必要なんだ。
それで娘を一人、売ることにしたんだ。
達観しているスぺレッセは、それで落ち込むこともない。
でも、フォールマテイオ男爵って……確か……。
「あらあら、なんて可哀そうな妹なのかしら。幼女好きで加虐趣味。今まで七人の奥方が亡くなっている男爵様」
いきなり部屋に来た姉が、口元を歪ませる。
「あなたが八人目。ふふふ。すぐにでも嫁いで欲しいそうよ」
それは、嫌だ。
スぺレッセは思う。
貴族の契約に基づく婚姻が、すべて悪いものとは言わないが。
まだ十分な知性が身についていない。
ようやく友だちらしき人も出来たというのに。
学園に通うことは、密かに楽しみだ。
まだ変わっていない。強くなっていない。
今すぐ結婚なんて嫌だ、絶対。
その晩、なかなか寝付けないスぺレッセは、祖母から貰ったお守りの葉を握りしめた。
今の学園生活が、続けられますようにと願いを込めて。
大きくなった黒猫が、スぺレッセに寄り添った。
…………
その樹を、スぺレッセは久しぶりに見た。
眼鏡をかけたグレゴールは、片手を挙げてスぺレッセを呼ぶ。
「久しぶりだねお嬢さん。ネコちゃんも大きくなったな」
樹の陰から、チャールズも姿を現す。
「何か、あったのか?」
スぺレッセは小さく頷く。
「せっかく知性を磨いていたのに、急に結婚しろって、父が……」
二人の男性は「ああ」と息を吐く。
「私、もっと勉強したい。友だちとお話したいんです。いくら貴族のしきたりでも、三十歳も年上の人と結婚なんてしたくない」
チャールズは髭を撫でながら呟く。
「そうか、そういう悩みなら、適任者を呼ぶか」
「あの人ですか?」
グレゴールの眼鏡が光る。
「そうだ、彼の領域だろう」
二人は声を合わせる。
「「ジャン先輩――!」」
「呼んだかい?」
樹の上から声がした。
同時に木の葉を揺らしながら、新顔の男性がスぺレッセの前に降り立った。
彫りの深い男性は、悪戯っ子の様な笑みを浮かべる。
「こんにちは。可愛らしいお嬢さん。僕はジャン。よろしくね」
差し出されたジャンの手を、スぺレッセはそっと握る。
女性慣れしている男性みたいだ。
「相変わらず、見事なスケコマシぶりだな]
苦笑するチャールズに、ジャンは目をカッと開く。
「フェミニストと呼んでくれたまえ」
ゲラゲラ笑うチャールズと、小さく微笑み、お茶の用意をするグレゴール。
なぜか鼻息の荒いジャン。
不思議な組み合わせだとスぺレッセは思う。
「それで、君の悩みは何?」
優しい語り口のジャンに促され、スぺレッセは身の上を話す。
家族から髪の色を疎まれ、祖父母に育てられたこと。
ようやく学問の楽しさや、同年齢の友達との触れ合いに嬉しくなったこと。
しかし、悪い噂のある、かなり年上の男性と無理やり結婚させられそうなこと。
「なるほど」
紅茶を一口飲み、ジャンはスぺレッセを見つめる。
「物事は簡単に考えよう。結婚したくないなら、しなければ良い」
「でも、父が……」
「相手から、断らせれば良いのだよ」
「どうやって?」
戸惑うスぺレッセに、ジャンはしたり顔で語る。
「幼女趣味の男は、自分の言うことを、素直に聞いてくれる女性が好きなのさ。だから君はいつもより大人の雰囲気で、ガンガン生意気なことを言うのだ。理詰めでね」
そういうものだろうか。
「さすが、若い頃、散々悪さして、未亡人をだまくらかしたジャン先輩。言うことが違う」
チャールズは手を叩く。
「人聞きの悪いこと言うなああ!」
顔を赤くするジャンに、グレゴールも眼鏡を上げて言う。
「若い頃のジャン先輩は、フルチンで走り回るのが趣味だと思ってました」
「それも違うううう!」
目を丸くして呆気にとられるスぺレッセに、ジャンは大きく手を振りながら必死になる。
「いや、まあ、僕の過去なんてどうでもいいさ。そもそも、君のピンクブロンドの髪が忌避されるようになったのは、なぜなんだろうね」
「嘗て悪女とか魔女とか呼ばれた、この国の王子妃の髪が、ピンクブロンドだったからと聞いてます」
「それは、きっと真実と違うよ」
ジャンは、きりりと真面目な顔になる。
「あくまで僕の推測だけど。その当時、この国の経済が行き詰っていたのだろうね。そのままいけば、諸侯や平民らが結託して、王族を排除しようとする気配があったのだろう。だから、王子妃に全ての罪を擦り付けた。ピンクブロンドの王子妃は、体のいい生贄だったのさ」
スぺレッセは目の覚める思いだった。
そんなこと、考えもしなかったから。
悪いのは、本当に悪かったのは、ピンクブロンドの女性ではなかったかも……。
「先輩の影響で、どっかの国には革命が起こったけど。ジャン先輩は自分に罪はないと、言いたいみたいだ」
「当たり前だ」
互いに言い合うオジサンたちを見て、スぺレッセは考える。
どこの国の人たちなのか分からない。
けれど、おそらくは三人とも、物凄く優秀で世の中に影響を与えた人物だ。
そんな大人になりたい。
家族や周囲の人たちの顔色を伺うことなく、自分の意志を貫ける人に。
そう考えると、押し付けられた結婚で悩んでいるなんて、勿体ない。
「どうすれば……」
呟くスぺレッセを、三人の男性は注視する。
「どうすれば、皆様のような、凄い大人になれますか?」
三人は目を丸くする。
「こんなオジサンを目指す必要はないぞ、人生誤るから」
チャールズはきっぱり言う。
「凄いかどうか分からないけど、自分のやりたいことを最後まで貫くと良いよ。僕はそうした」
グレゴールは目を細める。
「とりあえず、これを読みなさい。この国の言葉に直してあるから、お嬢さんでも読めるだろう」
ジャンは一冊の本をスぺレッセに渡す。
「世界は広い。いずれ、その広さと多様さを、自分で確かめると良い」
スぺレッセは頷く。
まだ見ぬ広い世界に憧れながら。
どこかで猫の鳴き声がした。
…………
ふと目を覚ますと、黒猫がいつもの様にスぺレッセに寄り添っている。
「やっぱり、夢……あら」
スぺレッセの胸元に、古びた本がある。
表紙には『エミール』と書いてあった。
学園に向かうと、プリメアが駆け寄って来た。
「今度の週末、我が家へいらっしゃいませんか。会わせたい人が……」
「素敵なお誘い、ありがとう。でも」
「何かご用事が?」
「ええ……実は」
スぺレッセは勝手に決められた婚約者と、会う予定だ。
「酷い! スぺレッセ様の意見を全く聞かないで、そんな婚約なんて」
プリメアが真剣に怒ってくれたことが、スぺレッセは嬉しかった。
「でもね、わたし、この婚約話、なかったことにする予定ですの」
「まあ、どうやって?」
「お相手から断ってもらうようにするわ、絶対」
前を向くスぺレッセの拳は固く握られていた。
「陰ながら応援いたします。それに、そのご婚約のお話がなくなったら……」
「え?」
「いえ、なんでもないですわ」
プリメアはスぺレッセの手を取り、ぶんぶん振る。
「頑張りましょうね、スぺレッセ様」
「え、ええ」
その週末、スぺレッセは本邸に呼ばれ、姉のお下がりのドレスを着せられた。
紺色の地味なデザインだ。
丁度良いとスぺレッセは思う。
やる気のなさそうな侍女だったが、「ピンクブロンドが目立たないように」と父から命じられていたようで、スぺレッセの髪をまとめてアップにした。
お陰で幼さが消えた。
花束を抱えてやって来たフォールマテイオ男爵は、実際の年齢よりも相当若く見える。
痩身長躯で優し気な雰囲気だ。
噂とは違うのかもしれない……。
「お噂よりも、落ち着いた方ですね」
お茶を飲みながら、男爵は言う。
目つきはなんとなく、爬虫類に似ている。
「傾国の美女だと言われている、ピンクブロンドの髪を持つ女性に、私は憧れておりましたから」
スぺレッセの脳内に、カチリと音がした。
次話で完結します。
お読みくださいました皆様、ありがとうございます。
感想や評価、リアクション、すべてに感謝です!!