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その夢を、星空に -Star Observation Society KYOTO-  作者: TOM-F
Sign01 アンドロメダ ダムゼル・イン・ディストレス
9/19

東滴壺

 僕の胸がどきりと大きな鼓動を打った。

 彼の呼びかけに、なれなれしい響きはなかった。むしろ、そんな呼び方がとても自然で、それが当たり前のような間柄に思えた。

 けれど……。

 胸のなかに砂を撒かれたような、ざらついた感情がわき起こった。

 この人は、天水先輩のなんなのだろう。


 天水先輩を見ると、彼女は気まずそうに、ペリドットの瞳を僕と彼から逸らせた。

 その様子を見た彼は、整った笑顔を崩さずに「失礼」と詫びの言葉を告げた。


「なんだか、邪魔したみたいだね。でも、出国まえに春花ちゃんに会えてよかったよ」


「え」と天水先輩は、こんどはまっすぐに彼の顔を見た。


龍一(りゅういち)さん、また海外に行くんですか?」

「ああ、三か月ほど視察でね」

「気をつけて、行ってきてくださいね」


「ありがとう」と会釈したあと、彼は僕たちに背を向けた。

 その背中が参拝客の人ごみに消えると、天水先輩は、ほっと一息ついた。


「ごめんなさい、彼、私のいとこなんです。小さいころよく遊んでくれたんですけど、ちょっと、いろいろあって」


 僕は「そうですか」とだけ返事をした。

 言葉尻にはすこしひっかかったが、それで胸のざらつきは和らいだ。



 本殿の前に進み、柏手を打って手を合わせる。

 僕の参拝は、いつものことだが頭を下げただけで終わる。平凡という言葉をそのまま経歴にしたような人生を歩んできた僕には、神様に願ってまで手に入れたいものも、叶えてもらいたいこともなかった。

 通っている大学は神道系だが、それも教育学部が有名だからであって、べつに神様への崇敬とかがあったわけではない。

 となりに並んだ天水先輩は、二礼すると左右の掌をすこしずらせて、ぱんぱんといい音で柏手を打った。紅梅を思わせる唇が動き、「はらえたまい、きよめたまえ。かむながらまもりたまい、さきわえたまえ」と淀みなくささやいたあと、声に出さずになにかを短く告げた。

 丁寧な祝詞を奏上したわりには、願い事はあっけないほど短かかった。

 深々と締めくくりの一礼をした僕たちは、神前をあとにした。


 境内の人だかりに行くと、その中心には座布団の上に鎮座する黒っぽい石があった。人々はこぞって、その石をたたいたりなでたり、持ち上げたりしている。

 張り紙を見ると、まず石を三度たたいて持ち上げ、続いて願い事を込めて石を三度撫でてから、持ち上げる。最初の時よりも軽くなっていたら、願いが叶う、とされていた。

 ためしにやってみたが、石の重さは変わらなかった。願い事を込めなかったのが、いけなかったのかもしれない。

 天水先輩も、石を三度たたいてから手をかけたが、うんうん唸っただけで手を離し、「だめでした」と笑った。



 雑煮でお腹はくちていたが、漂ってくる香ばしい匂いにつられて、僕たちはあぶり餅屋の行列に並んだ。

 列は長くないが、あと一組というところになって、なかなか進まなかった。

 こういうときに、なにか気の利いた話題でもあればいいのだが、あいにく僕にそんなネタな持ち合わせはない。ふと、さっき神社の由来書で読んだことを思いだした僕は、それを口にした。


「今宮神社が桂昌院にゆかりがあるって、はじめて知りました」

「わたしもですよ」

「庶民の娘だったのが将軍の生母になり、やがて位人身を極めたって、すごい話ですよね」


「はい」と相槌を打った天水先輩は、東の空に目を向けた。


「でももし、その逆の人生を歩んだとしたら、どうだったのでしょうね。やんごとない身分に生まれたのに、たいしたこともない男に嫁いで子を生んだとしたら、どんなふうに思われるのでしょうね」


 ようやく空いた緋もうせんの床几に、僕たちは腰をおろした。

 待つほどもなく、小皿に盛られたあぶり餅が出てきた。竹串に刺さって焦げのついた小粒の餅を口にすると、白味噌ときな粉の味がした。

 天水先輩は、ひとつづつ丁寧に竹串から口に運んでいた。時間をかけて十三個の餅を食べきり、お茶を飲んでから「美味しかったですね」と彼女は微笑んだ。



「すこし歩きましょうか」


 天水先輩がそう促した。

 朝から餅を食べすぎているから、たしかに散歩は必要だ。


 僕たちは、今宮神社を東に出て、大徳寺の龍源院を訪ねた。

 元旦だったが、塔頭は公開されていて、見物客もちらほらといた。


 庫裏を出たところに、東滴壺という名の小さな枯山水がある。

 さしわたしは二メートルたらず、奥行きは四メートルほどだろうか。三方を建物の縁側に囲まれ、残りの一方も渡り廊下の隔壁によって塞がれている。屋外にありながら外部と隔絶されたような空間に、白砂で波模様が描かれ、黒い五つの石が置かれていた。滴り落ちた雫が水面に波紋を起こした瞬間を、切り取ったような作庭だ。

 張り出した屋根と屋根の隙間から、わずかに空が見える。そこから差し込んだ陽光が、石と砂の上にひとすじの光の道を作っていた。


 天水先輩は、口を閉ざしたまま、砂が描く波紋を見下ろしていた。その横顔に、いつか路子カフェの坪庭で見たシジミ蝶が重なった。

 そのとき、天水先輩の唇がわずかに動いた。

 けれど、それは言葉をなさずに、石庭に吸い込まれて消えていった。

 僕は、ふと思い出した疑問を口にした。


「さっき今宮神社で、神様になにをお願いしたんですか?」


 天水先輩は、石組を見つめたままで、しばらく答えを探すように黙り込んだ。

 僕たちの背後を、一組の拝観者が通り過ぎ、また静寂が戻る。

 それを待っていたかのように、天水先輩は口を開いた。


「知りたいですか?」


 問い返されて、僕は「はい」と応じた。

「じゃあ」と天水先輩は、こちらを向いてペリドットの瞳に僕に映した。


「星河くんは、なにをお願いしたんですか?」


 重ねて問われた恰好だが、僕は正直に答えた。


「僕は、願い事はしないんです」


「えっ」と言って、天水先輩はまじまじと僕を見つめた。


「目標がみつかるように、じゃないんですか?」

「それは、神様にお願いするようなことじゃないです。それに、神様にかなえてもらいこともありませんし。だからすぐにお参りが終わっちゃって。さっき、天水先輩もすごく短かったから、同じなのかなと思って」


「そうなんだ」と彼女はつぶやき、「わたしはね」と続けながら、まるでもういちど参拝するかのように掌を合わせると、眼差しを上げて屋根の隙間から覗く冬空に向けた。

 そして、想像すらできなかったその言葉を、ささやくように口に出した。


「家出したい、です」

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