初詣
元旦の朝、部屋を出ると、凍った空気に身が縮んだ。
比叡の山並みは、蒼穹の下にくっきりと稜線を描いていたが、目を西に向けると、北山の彼方には灰色の雪雲がかかっていた。
天水先輩との約束には、じゅうぶん間に合う時刻だった。
僕はまず、高橋先輩の下宿を訪れた。
ピンポンには反応がなかったので、電話をかけると、「ああ」という、まさに寝起きという高橋先輩の声がかえってきた。
部屋に入ると、奥のリビングで真優理先輩が、目をこすりながら起き上がるところだった。
僕は、咳ばらいをひとつした。
「これから路子カフェで、お雑煮が出ますよ。一緒に行きましょう」
「いや」、と高橋先輩は酒臭い息で誘いを断った。
「やめとくわ。天水が作るんやろ? あの雑煮は、重いで」
重い、という形容詞の本意も分かりかねたが、それ以上に、聞き捨てならないフレーズが含まれていた。
真優理先輩も同じことを感じ取ったようで、黒い瞳がきらりと光った……ような気がした。
「ちょっと高橋、いまのって、なに? あんた、春花と同棲でもしてるん?」
「なんで、そないなるねん。そんなわけないやろ」
「そやかて、元旦から春花の手料理を食べたってことやろ?」
高橋先輩は、顔をしかめて頭を掻いた。
「去年の元旦にな、小西先生に呼び出されたんや。天水が雑煮を作ったから、食べに来い言うてな。腹が減っとったから喜んで行ったんやけど、とんでもなく重い食いもんやったんや。甘い白味噌は濃すぎるわ、餅のほかに根菜が山盛りで入ってるわで。あんなもん、二日酔いのときに食えるかいな。パスや、パス」
高橋先輩の事情説明は、その場面がありありと思い浮かぶほどリアルだった。
真優理先輩も、「なんや……」と肩を落とし、うらめしそうに僕を見た。
「行きたいとこやけど、ウチも無理やわ。いま、そんな重いもん、絶対に食べられへんからな」
かくして僕は、ひとりで定休日の看板を掲げた路子カフェの暖簾をくぐった。
ちりんという風鈴の音がして、味噌と出汁の香りとともに、割烹着姿の天水先輩が顔を出した。
高橋先輩と真優理先輩のことを謝ると、天水先輩は「しかたないですね」と、あっさり受け流した。
坪庭に面したいつもの席に案内され、壁一面を埋める文学全集に目を走らせる。
川端康成を手に取ろうとしたとき、天水先輩が黒の半月盆をふたつ運んできた。家紋が入った黒と赤の雑煮椀と、湯呑、それに塩昆布の小皿が添えてあった。
盆を机に置いた天水先輩は、割烹着を脱いで席に着いた。白い無地の割烹着の下には、青い着物を着ていた。
椀の蓋を取ると、少なめの白い味噌汁に丸餅が頭だけを残して沈み、子芋と大根が盛られ、金時人参が紅一点を添えていた。
「いただきます」
二人で同時に手を合わせ、雑煮に口をつける。
甘くて濃いけれど上品な味噌の味が、口いっぱいに広がる。餅をかじり、芋と人参を食べた口に、大根のしゃきっとした食感がじつにありがたい。
お世辞抜きに、すごく美味しかった。高橋先輩が言っていたものとは、ずいぶん違っていると思った。
「四人分作ってあるので、いっぱい食べていってくださいね」
天水先輩は、とろけるような声でそう告げた。
「重い」と高橋先輩が言っていた意味が、このときわかった。
子芋を食べながら、僕はそれとなく天水先輩の装いに目をやる。
このためだけにしては、さすがに気合が入りすぎていると思う。たぶん、これから誰かと初詣にでも行くのだろう。
ちょっと残念な気分で雑煮の味噌汁を啜っていると、天水先輩から「あの」と声をかけられた。
「星河くん、このあとはとくに予定ないんですよね?」
「はい。あとは寝正月です」
「じゃあ」と、天水先輩は瞳をうす緑に輝かせた。
「叔母さまが来る前に、初詣にいきませんか」
なるほど、そういうことかと思った。
小西先生が来るとなれば、長居は無用というものだ。断る理由などなかった。
路子カフェから東へ歩き、角を左に曲がると、今宮神社まではだらだらとした登り坂が続く。
天水先輩は、和装に草履履きだというのに、スラックスにスニーカーの僕とあまり変わらない足取りで歩く。
明るい場所で見ると、彼女の着物は鮮やかな水色で、カラフルな花がいっぱい描かれている。花のあいだには、小鳥が遊んでいた。よくわからないが、幼馴染が初詣のときに着ていた振袖よりも、高価な着物のような気がした。
僕の視線に気づいたのか、天水先輩は、着物の合わせと裾を整えた。
「これ、母が若いころに着ていたものなんです」
「なんだか、高そうな着物ですね」
「手描き加賀友禅の一点ものだそうです」
説明を聞いてもやはりわからなかったが、とりあえず彼女の横に並ぶには、僕の恰好ではかなり不釣り合いだろうことは理解できた。
大きな破魔矢が飾られた今宮神社の門をくぐり、境内の手水舎で手と口を清める。
じゃぶじゃぶと柄杓で水をすくっていると、天水先輩に「だめですよ」とたしなめられた。「こうやって……」と、彼女は柄杓を左右の手で持ち替えながら、一杯の水で両手を清めて口をすすぎ、最後に柄杓の柄まで洗い流してみせた。
その仕草はあまりに優雅で、僕は「へえ」と口にしていた。
「神社の参拝、よく行くんですか?」
天水先輩が首を横に振る。
「いえ、それほどでもないと思いますよ。行きたい神社にも、まだ行ってないくらいですから」
「どこですか?」
「貴船神社です」
伊勢神宮とか出雲大社とか、そんな神社が出てくると思ったら、ここから一時間もかからないところだった。なんなら、いまから出向いてもいいくらいだ。
「どうして、行かないんですか?」
「そうですね……」と、天水先輩が眼差しを北の空に向ける。
ワンサイドアップのミルクティー・ベージュの髪が揺れて、白檀の髪飾りから、ほのかに芳香がした。
「……しかるべき時に、ちゃんとお参りに行きたいから、ですね」
「そんなものですか」
「そんなものですよ」
掛け合いのようになり、笑いあった途端に、天水先輩の顔が曇った。
その視線の先には、スーツの上にネイビーのダッフルコートを羽織った、三十すぎくらいの男性が立っていた。きちんと整えられた髪に彫の深い顔だちは、ニュースキャスターのような印象だった。
意思の強そうな大きな目が、天水先輩から僕に向く。
僕の足先から頭までを、検分するかのように見まわした彼は、一分の隙もないほど完璧な笑顔を浮かべて会釈をした。
「あけましておめでとう、春花ちゃん」