除夜
「ホシカワ・マユリってのも、ええなぁって思うんや」
真優理先輩がそう言い放って、グラスのロゼワインを飲み干した。
八畳ほどのワンルームは、高橋先輩の下宿だった。
僕たち四人は部屋の中央に鎮座する炬燵に足を突っ込んで、樺細工のお重に詰められたおせち料理をつまみに酒宴を催していた。
炬燵の天板にはビールの空き缶が並び、ボトルのワインも残りわずかだった。
テレビからは大晦日恒例の歌番組が流れ、女性ばかり四十八人のグループが歌い踊っていた。
真優理先輩が爆弾発言をしたのは、今年も残り一時間半くらいになった、そんな時だった。
言うだけ言っておいて、真優理先輩はお重の田作りに自分の祝箸を突っ込んだ。
天水先輩は、左手に持った取り皿を天板に戻し、祝箸をその縁にかけて置くと、真優理先輩をかるく睨んだ。
「真優理ちゃん、だめですよ」
そう言って、天水先輩は『海山』と書かれた箸袋に入った祝箸を、真優理先輩に差し出した。
「そっちか」
残る三人が、同時に突っ込みを入れた。
取箸を受け取った真優理先輩は、田作りをごっそりと自分の皿に盛った。
上目遣いの黒い瞳と、わずかに上がった口角。
これは、と思い至った。流星群の夜の意趣返しというわけか。まともに取り合えば、かえって墓穴を掘りそうだ。
僕は、おせちを漁っている高橋先輩に話しを振った。
「僕なんかより、高橋先輩の方がいいんじゃないですか。気軽な次男ですよね」
高橋先輩は、祝箸の先に煮しめの里芋を突きさして口に運び、ビールでお腹に流し込むと、ふんと鼻で笑った。
「幼稚園の園長かぁ。それもええな。けど、真優理の誘いを簡単に断るっちゅうことは……」
言葉を切った高橋先輩は、グラスを天板にとんと置いて僕に向き直った。
「星河は、答えを見つけたんやな」
僕は、しまったと思った。
軽口の代償としては、これはちょっと痛かった。
「いいえ、まだです」
「夢を探すんやったら、はよせんと。歳月人を待たず、やで。いや、時間だけやない。人もな、いつまでも待ってくれてるわけやないで」
すこし呂律の怪しい口調で説教めいた言葉を口にしながら、高橋先輩は伊達巻をつまみあげた。その目は、すでに据わっていた。
真優理先輩は、紅白かまぼこを四つまとめて取り皿に移すと、焦点の合っていない目を僕に向けた。
「夢か約束かしらんけど、いつまでもぐずぐずしてんのやったら、それはただ問題を棚上げして先送りしてるだけやで」
言うことは立派だったが、かまぼこ四つを一気に頬張る姿は、あまり褒められたものではなかった。
天水先輩は、彼らのお行儀の悪さをもう指摘しなかった。かわりに、ため息とともに、ふんわりと柔らかそうな青いセーターの肩を、すこし落とした。
テレビからは演歌が聞こえてきた。
天城峠を越えていく女の情念を、美人の女性歌手が熱唱している。
気を取り直して、お重を見る。そこに詰められた料理の数々は、天水先輩が一日かけた作ったものだった。
すでにかなり食べられているが、一の重には、黒豆、田作り、数の子に、紅白のかまぼこ、伊達巻が収まっている。二の重は、三分の一ほどを煮しめが埋め、柿なますと栗きんとんの他に、見慣れない料理が収まっていた。白い何かでピンクの何かをサンドして、上には半粥のようなものがかかっている。
どうにも気になったので、天水先輩から取り箸をうけとって、その謎の料理を取り皿にとった。
見た目よりも、ずしりとした重みがあった。口にすると、大根に似たしゃくりとした歯ごたえがあって、続いて刺身のようなぷるんとした歯ごたえがあった。かかっている餡のようなものは、ほんのりと甘酒の香りがした。
「お口に合いますか?」
天水先輩が、ペリドットの瞳を僕に向ける。
はじめての味だったが、口当たりは良かった。
「はい、美味しいです」
僕が答えると、天水先輩は「よかった」と呟いて目をすこし細めた。
「それは金沢の郷土料理で、かぶら寿司っていうんです。かぶらで寒鰤を挟んで米麴に漬け込んだものです」
「天水先輩が作ったんですか?」
「いいえ、これは母が作ったものです。今年はおせちを手作りするって言ったら、実家から届いたんですよ」
「手作りの郷土料理を送ってくれる母親なんて、ちょっとうらやましいです」
「そうかな」とつぶやきながら、天水先輩はわずかに眼差しを曇らせた。
「うちのお正月は大変なんですよ。クリスマスが終わったら、もう準備にかかるんです。大掃除からはじまって、お餅をついたり、おせち料理を作ったり、大晦日には歳神様をお迎えに行ったり。元日も一日中、来客のおもてなしなんです……」
そこで言葉を切った天水先輩は、「そうだ」と言って手を叩いた。
「星河くん、明日はなにか予定がありますか?」
「いえ、なにも」
「それなら」と、天水先輩はペリドットの瞳を輝かせた。
「朝の八時くらいに、路子カフェに来てください。お雑煮をお祝いしたいので」
明日の予定がないのは、残念ながら社交辞令ではない。それに、元旦を雑煮で祝うというのも、ここ何年もなかったことだった。
「わかりました。じゃあ……」
僕は、高橋先輩と真優理先輩に目を向けた。
同時に二人を見た天水先輩が、「あら」と笑みを浮かべた。
「蛍の光」が流れるテレビの前で、高橋先輩と真優理先輩が並んで仰向けに寝転んで寝息をたてていた。
徹夜で飲み明かして、そのまま初詣に行くぞ、と豪語していたのに、除夜の鐘も聞かずに力尽きたらしい。
「起こした方がいいですかね」
僕の言葉に、天水先輩は首を横に振る。
「このまま、そっとしておいてあげましょう」
高橋先輩と真優理先輩の並んだ寝顔があまりに仲睦まじそうで、僕も天水先輩の案に賛成した。
「そうですね。じゃあ、これで解散ですね」
僕は部屋の鍵を外からかけて、それを郵便受けに入れた。そして、高橋先輩と真優理先輩にメッセージを送った。
高橋先輩のアパートを出たところで、天水先輩は「あの」と上目遣いに僕を見た。
「明日、星河くんだけでも、来てくださいね」
「ええ、もちろんです」
僕の答えに満足したように、天水先輩はペリドットの目を細めた。
遠くで、除夜の鐘の音がした。




