白朮火
小西先生の脅迫に屈して路子カフェに出向くと、店内の掃除を仰せつかった。
高橋先輩と僕は、机や椅子の移動やらガラス磨きやらを担当し、小西先生と真優理先輩は、飾り物の並べ替えやら本の整理をしていた。
同好会のメンバーは全員集合かと思ったが、その場にいない人がひとりいた。僕は、不在の人物のことを小西先生に尋ねた。
「天水先輩はどうしたんですか?」
「やはり、春花がいないと寂しいのかい」
「そんなことは……」
ない、となぜか言い切れなかった。
僕が口ごもると、小西先生は、我が意を得たりとばかりの不敵な笑みを浮かべた。
「寂しいなら素直にそう言いなさい。春花は別のミッションを遂行中だよ。今夜、みんなで年越しパーティをするんだろう?」
小西先生が目くばせをしたキッチンからは、なにやらおいしそうな匂いが漂ってくる。なるほどそういうことか、と僕は安心した。
時計の針が六時を回ったところで、小西先生は作業の終了と解散を宣言してから僕を呼んだ。
「星河君は、これから春花と一緒に祇園さんに行って、オケラビをもらってきてくれ」
その言葉に、天水先輩が目を丸くして小西先生を見た。
京都で祇園さんと言えば、八坂神社のことだ。そこに行けばいいようだが、聞きなれない言葉もあった。
「オケラビって何ですか?」
尋ねた僕に、小西先生はふっと笑った。
「行けばわかる。文学科目のフィールドワークだよ」
四人で揃って路子カフェを出る。
日が落ちた北大路は、底冷えがしていた。
真優理先輩は、ぶるっと身ぶるいして、「星河」と僕を呼んだ。その声音には、そこはかとない棘があった。
「大晦日やからいうて、のぼせて春花に変なことしたら、承知せんからな。お使いを済ましたら、さっさと帰ってきいや」
高橋先輩と真優理先輩を見送り、僕と天水先輩は祇園へ向かうバスに乗り込んだ。
車内は空いていて、二人掛けの椅子に並んで座ることができた。座席は狭く、必然的に密着することになる。茶居着にダウンジャケットを羽織った天水先輩からは、いろんな調味料の香りがした。
僕は、すんと鼻から息を吸った。
「……匂いますか?」
伏し目がちに、天水先輩がそう呟いた。
ほぼ一日のあいだ煮炊きをしていたのだから、それもしかたのないことだ。
それに、そもそもいやな匂いではなかった。子どもの頃に家の台所で嗅いだ、母親の匂いのような懐かしさがあった。家族に会えない年の暮れは寂しい気持ちになっていたが、それを埋め合わせてくれるものがあったことが嬉しかった。
「はい。でも、お料理の匂いって、僕は……」
『好きなんです』と言いかけて、流星群の夜の失言を思い出した。真優理先輩はいまだに根に持っているのか、僕へのあたりが強い。
「……いいなぁって思います。天水先輩のお節料理、楽しみです」
今回は自分でも無難に答えられたと思う。
けれど、なぜだか天水先輩は、ううう、とかばそい声でうなった。
祇園でバスを降りると、八坂神社は人波のなかにあった。
石段を登って、境内に入る。巫女さんから、「どうぞ」と手渡された紙コップには、ほのかな芳香のする酒が入っていた。
「をけら酒です。おいしいですよ」
そう言って、天水先輩はこくこくと酒を飲み干した。
コップの酒は、神社が奮発してくれたのか、かなりの量があった。飲むと、喉から胃のあたりまでが熱くなった。
初詣にはまだ早すぎる時刻だからか、参拝客は普段着姿が多かった。みな、手に手に、縄のようなものを持っている。
天水先輩は、迷わずに社務所で縄を買い求めると、人だかりを指さした。
「あそこの灯籠の火を、これに点けて来てください」
手渡された縄は、がさりとした手触りだった。藁ではなくて、細く割いた竹を編んだものだった。
僕は人込みをかき分けるようにして前に進んだ。その先には、吊し灯籠の中で、あかあかと燃える火があった。縄の端を火にかざすと、すぐに燃え移った。
押し出されるように離れた先に、天水先輩が待っていた。
「灯籠の中で燃えているものは、をけらという植物です。だからこの火を『をけら火』と言うんです」
「そうなんですね。僕はまた虫の何かかと思いました」
「気持ち悪いこと言わないでください。緑おばさまは、この火で新年の雑煮を作るのが楽しみなんです。毎年、一緒に来てたんですけど……ああ、それ、消えないようにくるくるして下さいね」
くるくるする、って。
言葉の意味を図りかねていると、目の前にいた中年の男性が、火のついた縄の端を円を描くように回しはじめた。
僕も真似をして、火縄を回す。
火勢が増して、闇のなかに赤い円が描かれた。
だが……。
僕はそこで、素朴な疑問に至る。
これ、どうやって持って帰るんだろう。
電車やバスに持ち込めるわけはないから、こうやってくるくるしながら歩いて帰るのだろうか。ここから路子カフェまでの距離を思えば、徒歩はちょっと辛い。
思い悩みながら火縄を回転させていると、天水先輩がダウンジャケットの内ポケットから、銀色の塊を取り出した。大きなジッポーライターのように見えたそれは、ベンジンを燃料にするカイロだった。
天水先輩が、僕に向けて手を差し出す。
酒の酔いが回ってきたのか、視界がゆらりと揺れた。
赤い火円の向こうに、天水先輩の顔があった。
ほんのりと朱に染まった頬の上で、ペリドットの瞳が濡れてきらきらと輝いている。薄緑の水面を火縄の先端が横切ると、彼女の瞳にともし火が灯ったように見えた。
ともし火は、彼女の水面を外れると、ただの赤い線に戻る。
縄を回す僕の手が、どんどん早くなっていった。
「……もう」
天水先輩は笑いながら、火縄を握る僕の手を取って回転を止めた。その掌は、流星の夜に触れた手の甲よりも、しっとりと柔らかで暖かかった。
そのまま彼女は縄の火をカイロに点し、それから火縄を傍らのバケツの水に浸した。
しゅっという音がして、縄の火はすぐに消えた。




