未来
小西先生が運転するレクサスRXは、真っ暗な周山街道を北上していた。
助手席に天水先輩が、二列目には高橋先輩と真優理先輩が座り、僕は全員の防寒着とともに最後部のシートに押し込まれていた。
ずっとカーオーディオから流れていた昭和メドレーが、ユーミンの『卒業写真』で終わったところで、クルマは山間にぽつんとひらけた駐車場に停まった。
ヘッドライトが消えると、闇が辺りを閉ざした。
天気予報では、夜半の気温は氷点下だった。ファスナーを閉じ切ったダウンジャケットを通してすら、寒さが沁みてきた。
けれど……。
見上げた夜空には、満天の星々があった。
西に傾きはじめたペルセウス座とアンドロメダ座を結ぶように、天の川が白く流れている。目を凝らすと、アンドロメダ銀河が白い楕円の広がりを見せていた。
僕は、先日の星空教室を思い出した。あの子たちに、この星空を見せてあげられたら、あるいは……。
同じように天を仰いだ高橋先輩は、「まだ始まってへんな」と言って、折り畳み式のテーブルやリクライニングチェアをレクサスの荷室から取り出す。僕は、テーブルをまんなかにして、その周囲をリクライニングチェアで囲むように設置していく。
真優理先輩はテーブルの籠に洋菓子を盛り、天水先輩はマグカップを並べて、大きな水筒から湯気のあがる液体を注いだ。
「はい、星河くん」
手渡されたカップを受け取ろうとして、目測を誤り、カップが落ちそうになる。
思わず差し出した僕の掌が、カップを持ち直そうとした天水先輩の手を包み込む。ひややかで、けれどわずかなぬくもりを持った柔らかさに……。
僕は不意に、いつも繋いでいた彼女の掌を思い出した。
そう、彼女とは、もう二年も会っていない。
波打つようなカーブを描く関西国際空港の巨大なドーム天井の下、セキュリティチェックに消える背中を見送ったあの春の日が、離してしまった手が、いまさらのように僕の心を締め付けた。
「……えっと、星河くん?」
フルートの音色が、ふわりと耳をくすぐる。
『智之ちゃん』でもなく、『智之くん』でもなく……。
あっと、思った。
目の前には、ほのかに赤く染まった頬と、戸惑った眼差しを向けるペリドットの瞳があった。
「ごめんなさい」
僕は、あわてて彼女の手を離す。
天水先輩は、改めてマグカップを僕に差し出した。
「ううん、いいんですよ。こぼれて手にかかったら、火傷しちゃうところでしたから。……今夜の茶葉はウバです。クローバー牧場の特別牛乳で淹れて、ジンジャーとメープルシロップを加えてます」
「チャイですか?」
「はい。温まりますよ」と天水先輩が微笑む。
口をつけると、ほのかな紅茶の香りを、メープルシロップの甘い香りが押しのけた。コクのある牛乳にジンジャーの刺激とシロップの甘さが絡んで、飲み物というよりも、それ自体がスイーツのようだった。
リクライニングチェアにもたれた真優理先輩は、マグカップを両手で包みながら口をつけた。そして、『卒業写真』の一節を口ずさんだ。
時の流れのなかで変節してしまう自身を叱咤してほしい、そんな詞を歌う真優理先輩のうすい唇から、白い息が立ちのぼって楕円をかたちづくる。まるでアンドロメダ銀河のようだと、他愛もないことを僕は思った。
その歌詞がきっかけになったのだろう、高橋先輩がぼそりと呟いた。
「来年の採用試験、どこで受けよかな」
歌をやめて「なんや、それ」と応じた真優理先輩が、「高橋は実家に帰らなあかんのとちゃうんか?」と聞き返す。
「いや」と高橋先輩は否定した。
「俺は次男坊やから、継ぐ家もないし身軽なもんや。それに朝陽市の教員採用枠、毎年えらい少ないんや。就職浪人とか、したないし。真優理はどないするん?」
「ウチは採用試験なんか受けへんよ」
「ええ」という声が、当人を除く全員から一斉に起きた。
「なんでやねん」と、真優理先輩が右手の甲で高橋先輩の胸を打つ。
「ウチは家が寺やて、みんな知ってるやん。で、幼稚園やってるから、そこを手伝うんや。春花はどうするん?」
唐突に話を振られた天水先輩が、「わたし……」と口ごもる。ややあって、天水先輩はぽつりと告げた。
「……わたしは、教師になれれば、それでいいから」
暗いのではっきりとはわからないが、僕は彼女の声色から、きっとペリドットの瞳を曇らせていると思った。ほんとうに、なんの確証もなく、そう思えてしまった。そして、それを訊かなくてはならないとも。
「天水先輩は、どんな教師になりたいとか、ないんですか?」
「へえ」と感心したような声が、またしても当人たちを除く全員から起きる。
真優理先輩は、僕の顔を確かめるようにのぞきこんでから、「なあ」と言った。
「星河がそんなん訊くなんて、めずらしいやん。なら、あんたはどうなんや?」
心外で無遠慮な物言いに、僕はいささかむきになって答えた。
「僕は、天文の知識で人と関わる仕事をするって、大切な人たちと約束したんです。彼女たちには負けたくない、負けるわけにはいかないんです」
僕の言葉がどう伝わったのかわからないが、真優理先輩はそれで口を噤んだ。
高橋先輩が、ふうんと唸る。
「カノジョ、か。そういうことか。なるほど、ね」
なるほどのあとの「ね」が、なんだかひっかかるが、それをどうこういう前に高橋先輩の言葉が僕を撃ち抜いた。
「それやったら、高校の地学系の教師にでもなって、天文部の顧問をするのが唯一の選択肢やな。でも、それは星河のやりたいことやない。違うか?」