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その夢を、星空に -Star Observation Society KYOTO-  作者: TOM-F
Sign01 アンドロメダ ダムゼル・イン・ディストレス
3/16

先達

 京都市街の北の端、北大路通と千本通の交差点のちかくに、僕が常連にしている路子カフェはある。


 藍染めの暖簾をくぐり、かすかに軋む木製の扉を開けると、ちりんちりんという風鈴の音とともに、木管楽器の音色を思わせる天水先輩の「いらっしゃいませ」と言う声が聞こえた。

 坪庭に面したいつもの席に腰を下ろすと、青色の矢羽根絣の茶衣着にエプロンをかけた天水先輩が、梅花をかたどった漆器の盆から水のグラスをテーブルに置いた。


「星河くん、ランチ?」

「はい。講義は午後からなんです」


「あの……」と答えた天水先輩は、まなざしをわずかに泳がせた。


「いまマスターがいないんです。だから、できるのはオム・ストロガノフだけなんですけど、それでもいいですか?」


「いいですよ、それで」と答えてから、僕はやっと彼女の言葉の意味に気づく。


「もしかして、あれ、天水先輩が作ってるんですか?」

「はい」

「いつも?」


 天水先輩が、頬を染めてうなづく。ベージュの髪に飾られたバレッタの赤い椿が、ゆらりと揺れた。

 オニオンバターライスにたっぷりのふわとろオムレツが乗って、デミグラスソースとサワークリームのビーフ・ストロガノフがかかった一皿は、はじめて食べた時から僕のお気に入りになった。

 思えばその時も、青い矢羽根絣の茶衣着姿の天水先輩が運んできてくれた。ペリドットの瞳が印象的で、てっきりカラコンだと思ったのに、生まれつきだと知って二度驚いたのは同好会で仲良くなってからのことだ。


「……好物なんです、あれ」

「知ってますよ。星河くん、よくオーダーするから」


「少々おまちください」と営業用の言葉を残して、天水先輩は厨房に入った。白檀のかすかな芳香が残った。


 ランチを待ちながら、僕は『月刊天文ガイド』のページをめくる。

 十二月の天文現象の目玉は、なんといってもふたご座流星群だ。今年は十五日が極大で、一時間に八十個もの流星が予想されている。

 できれば郊外に出て、町明かりを気にせずに観望したい。だが、問題は交通手段だ。

 どうしようかと考えているうちに、いいにおいが漂ってきた。


「おまたせしました、どうぞ」


 天水先輩の声と同時に、オム・ストロガノフの皿が供された。コールスローのサラダと、オニオンスープが添えられている。

 スプーンでオム・ストロガノフを口に運ぶ。いつもと同じはずなのに、この日はすこしまろやかな味わいだった。

 半分ほど平らげたところで、玄関の風鈴がちりんと鳴った。


「ただいまぁ。留守番ごくろうだったね、春花」


 扉を軋ませながら入ってきたのは、洋花小紋の朱色の茶衣着を粋に着こなした、妙齢の女性だった。すらりと背が高くて、百七十五センチある僕とほとんどかわらない。ぴんと伸びた背筋のうえの襟足には、どうやって結っているのかわからないシニョンの黒髪が艶やかにまとまっている。

 高級スーパーの紙袋を持ったまま、彼女は鼻をくんくんさせ、そしてオム・ストロガノフの皿にスプーンを突っ込んだ僕を見つけて、にやりと笑った。縁なし眼鏡の向こうで、茶色と黒に半分ずつ分かれた瞳がきらりと光った……ような気がした。


「おや、カワバタ嫌いの星河君じゃないか」


 またそれか、と思いながら僕はいちおう丁寧に挨拶を返す。


「こんにちは、小西(こにし)先生。それと、僕は川端康成が嫌いなんじゃありませんよ。彼の小説は、何を書こうとしているのかわからないだけです」


 小西先生は、ふふんと不敵に笑った。


「ノーベル賞文豪を、自分と同じレベルに引下ろそうとするからだよ。そうだね、せっかく京都で暮らしているんだから、『古都』に書かれていることを追ってみるといい」

「そんな、アニメの聖地巡礼みたいなことでいいんですか?」


「そうじゃない。だが、まあそれもいいか」と、お茶をにごした小西先生は、「ところで」と話題を変えた。


「君はその料理が好きなのかい?」

「ええ、まあ」

「はっきりしなさい。好きなんだろ?」

「はい、好きです」

「それでいいんだよ」


 なにが「いい」のかよくわからないし、答えを強制されたとしか思えなかったが、たぶん実害はないだろう。

 その女性――僕が通っている大学の国文学教授にして、この店のオーナー兼マスターは、天水先輩に目をやると、いかにも満足そうに目じりを下げた。


「そうか、なるほど。やはり、そういうことか……」


 そして、僕に向き直ると「なあ星河君」と言って、目を細めた。


「それは、私の自慢の一皿でね。レシピは門外不出のつもりだったんだが、春花がどうしても作りたいというから伝授したんだよ。ほんとうの味を出せるのはこの私だけだと思っていたんだが、最近になって春花も上手く作れるようになってきてね。そう、星河君くらいの舌では、違いがわからないくらいにね」


 僕の味覚を一方的にみくびっておいて、妙に満悦な様子で「そうか、そうか」と繰り返しながら、小西先生は背を向けた。

 ほんとうに良くわからないが、きわめて上機嫌だ。頼みごとを切り出すには絶好のチャンスだろう。

 僕は、「先生」と、洋花小紋の背中に声を掛ける。


「なんだい?」と小西先生が振り返る。

 案の定、満面の笑顔だ。僕は自分の見立てが当たって、ほっとしながら「お願いがあるんですが」と言った。


「いいよ」


 即答だった。


「まだ内容を言ってないんですけど」


 笑顔のなかで、彼女の口角がくいっと上がる。なんとなく、嫌な予感がした。


「そんなもの、聞かなくてもわかってるさ。春花と、したいんだろ?」


 とんでもない文脈で、しかも教育者としてあるまじき発言に巻き込まれた天水先輩は、顔を真っ赤にして俯いた。

 純真な若者をからかって遊ぶ教師はどこにでもいるものだな、と僕は懐かしい顔を思い出す。こういう場合、うろたえたら負けだと経験から学んでいる。


「ちがいます。流星群を見に行きたいんです」


 僕は冷静に答えたが、小西先生は、わが意を得たりとばかりに、はははっと高笑いした。


「星河君も春花も、落第だな。私は、したい、としか言ってないのに、二人とも何を妄想したんだい?」


 やられた、と僕は思った。

 たぶん、天水先輩も同じだろう。顔を上げて、「叔母様……」と涙目で声を詰まらせた。

 小西先生は、姪っ子の肩を優しくたたいた。


「晩熟なくせに妄想だけは旺盛だね、君らは……。わかってるさ。クルマを出せばいいんだろ?」

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