花冷(前)
暗闇の先に、僕は手を伸ばす。
なにかを求めてさまよう孤独な手が、あたたかなものに触れた。
それがなにかを、僕は知っている。子どものころからいつでもそこにあって、僕を安心させてくれるもの。それは……。
夢からさめて見えたのは、見慣れた部屋の天井だった。
時計の針は、朝というには、いささか遅い時刻を指している。
いつもと変わらない目覚めだった。
ただひとつ、違っていたのは……。
僕は、ゆっくりと身を起こす。
シングルベッドの、僕のすぐ隣で。
綾乃が、やすらかな寝息をたてていた。
カーテンごしの淡い陽光が、彼女のふっくらとした頬と豊かな胸に、まろやかな陰影をつけていた。
壁のフックハンガーにかかった赤いチュニックの襟元には、『kate spade NEW YORK』のラベルが覗いていた。
「服なんて量販店の安物しか買わないよ」と、飾り気なく笑うのが綾乃だった。
眠ったままの綾乃の頬に、そっと指を伸ばす。
けれど。
彼女にふれる寸前に、その指は空中で静止した。
この指で、もう一度彼女に触れてしまえば、そして彼女が目をさましてしまえば、なにかを決定的に失いそうな予感がした。
やがて。
んふ、という吐息がして、綾乃が目を覚ました。
「……おはよ」
すこしかすれた声でそう告げた綾乃は、背伸びをひとつして微笑んだ。
僕は、綾乃にどう声をかければいいのか、わからなかった。こんなことは、初めてだった。
「おなかがすいたね」
ベッドに仰向けに寝転んだままで、綾乃が元気よく言った。
ブランチを食べてもいい時刻だった。
「そうだね、なにか食べに行こう。どこにしようか」
「智之ちゃんが、いつも行っているお店がいい」
「いや、それはちょっと……」
綾乃のリクエストに応えたいのはやまやまだが、今日は春花も帰ってきているはずで、今の状況ではさすがにそれはできなかった。
部屋を出て、綾乃と並んで北大路を西へ歩く。
バスで四条河原町に出れば、手ごろな値段でおばんざいランチを出す店もある。そんなことを考えていると、「あそこがいい」と言って綾乃が駆け出し、その店のドアを勢いよく開いた。
「待って」と言う僕の制止は、時すでに遅しだった。
ちりりんと、風鈴が派手な音を立てる。
「いらっしゃいませ」という春花の声が聞こえた。
もう、覚悟を決めるしかなかった。
綾乃に続いて僕が店に入ると、すでにランチを食べていた真優理先輩が、金魚のように口をゆっくりとぱくぱくさせた。
坪庭の前のいつもの席に、綾乃と向かい合って座る。
梅盆に水のグラスをひとつ載せてきた春花が、僕と綾乃を何度も見比べたあとで、あわててもうひとつ水のグラスを追加した。
「僕はオム・ストロガノフにするけど、綾乃もそれでいいかな……」
メニューに目を落とす綾乃に、僕はおすすめの一品を紹介した。
「春……いや、天水先輩の得意料理なんだ。すごく美味しいよ」
綾乃がメニューから目を上げて、春花を見上げる。
ブラックスピネルとペリドットが、しばし無言で輝きを競い……。
にらめっこに勝ったのは、綾乃だった。
春花の髪に咲いた桜の髪飾りが心もとなさげに揺れて、彼女はすがるような、責めるような眼差しを僕に向けた。
「ふうん」と薄く笑った綾乃は、メニューを指さした。
「あたし、これがいい」
「はい」と、店員の口調に戻った春花が、オーダーを確認する。
「パンケーキ・チョコバナナですね」
壁のスピーカーから、カーペンターズのメドレーが流れだす。
真優理先輩からの刺さるような視線を浴びながら、何曲かを聞き流す。『Close to You』がかかると、綾乃は上機嫌に英語の歌詞をくちずさんだ。
曲が終わるのを見計らったように、春花と小西先生が料理を運んできた。オム・ストロガノフは春花が、パンケーキは小西先生が、それぞれの注文主の前に置く。二人はそのまま、通路向かいの真優理先輩のいる席に腰を下ろした。
身の置き場に困る状況だったが、僕にできることはひとつしかなかった。
「遅くなりましたが、紹介しますね。彼女は、春日綾乃。僕の、えっと……」
四人が、いっせいにこちらを見た。その目つきは、どれも険しくて。
僕は、次の言葉を探し続けた。




