奎宿
大学の屋上庭園から見上げる夜空には、京都市内とは思えないほどの星々が瞬いていた。
背の高い校舎に囲まれたここは、街灯などが差し込まないので、思ったとおり星空の観望に好都合だった。
昼間の晴天がそのまま夜になり、それほどの冷え込みもなく、恰好の観測日和だったことと、今年さいごの星空教室になることもあって、いつもより多い十人以上の子どもたちと、その親たちが集まってくれた。
開始時刻になったことを確かめてから、僕は「みなさん、こんばんは」と挨拶をした。
ざわめきが静まって、視線が僕に集まる。初めの頃はおどおどしたものだったが、二年も続けていればすっかり場慣れした。
「星空教室に参加してくれて、ありがとうございます。今夜は、秋の星空を案内したいと思ってます。ふたつのグループに分かれてもらって、順番に星座の解説と望遠鏡での観望をします。じゃあ、真優理先輩、班分けお願いします」
僕の指名に、「まかしとき」という頼もしい声で、真優理先輩は応じた。そして、ぱんぱんと柏手のように手を叩いた。
「はい、みんな、聞いてやぁ。参加番号が奇数の子は、まずこっちで望遠鏡な。偶数の子は、そっちのお兄さんとお姉さんが星座を教えるでぇ」
班分けされて残った数人の親子を、僕はすこし離れた暗がりに案内する。
「じゃあみんな、ここで空を見上げてから、僕がいいって言うまで、目を閉じてください。よかったら親御さんも一緒にどうぞ」
子どもたちが、素直に空を仰ぐ。親たちも、同じように上を向いた。
僕はレーザーポインターを夜空に照射する。細いグリーンのレーザー光が、手元から夜空に向かって伸びた。
「はい、目を開けてください」
うわぁ、と何人かが声を上げる。目を閉じていたことで瞳孔が開き、星が見やすくなっているのだ。
秋の夜空は一等星がほとんどないので、ほかの季節にくらべると地味だ。だが、だからこそ星座は探しやすい。
僕は、ひとつの星に、レーザーポインターの光を向けた。
「この星は、アルフェッツという二等星です。そして……」
レーザー光で、順番に星を指し示す。
「これがミラク、それからこれがアルマクという星です。このアルマクは、天体望遠鏡だと、オレンジの大きな星と青い小さな星が寄り添ってるのが見えます。二重星という天体で、とても美しい星です」
レーザー光の先をもういちど最初の位置に戻してから、こんどはアルファベットのAを描くように、星をたどる。
「そして、このおおきなAの文字に見える星座は、アンドロメダ座と呼ばれています。この星座には、とっても有名な天体があるんだけど、わかる子、いるかな?」
子どもたちから「アンドロメダ銀河」という声がした。
僕はやや間をおいて「正解です」と答え、レーザー光で夜空に楕円形を描いて見せる。
「アンドロメダ銀河は、このあたりにあります。もっと暗い場所にいけば、ぼうっとした白い楕円形を見ることができます。約一兆個の星が渦巻のように集まった天体で、直径は僕たちがいる天の川銀河の二倍もあります。人間が肉眼で全体を見ることができる、いちばん大きなものです。そして、同じく肉眼で見ることができる、いちばん遠くにあるものでもあります。地球からの距離は、一秒で地球を七周半もできる光の速度でも、二百五十万年もかかります」
光年の説明には、子どもたちの反応は薄かった。僕は、たとえ話をすることにした。
「もし、僕がいまアンドロメダ銀河にいる宇宙人に、このスマホでメールを送ったとしたら、向こうに届くのは二百五十万年後になります。返事がくるのは五百万年後だね」
これには、「ええっ、もう生きてないよ」という声が漏れた。僕は手ごたえを感じながら、「そうだね……」と続けた。
「そんな遠くのものや、大きなものを、こうして夜空を見上げるだけで、僕たちは見ることができます。それが天体観測の魅力でもあります」
目を輝かせる子どもたちにそう伝えながら、僕は心のどこかで虚しさというか、やるせなさを感じていた。
いまここにいる子どもたちのうち、何人が天文への興味を持ち続けてくれるのだろうか、こんな小さな活動になんの意味があるのだろうか、と。
僕は、そんな思いにとりあえず蓋をして、「じゃあ」と続けた。
「アンドロメダ座の説明に戻ります。次は、この星座にまつわる神話です」
そこで言葉を切って、僕は天水先輩にアイコンタクトをとった。
いつもなら、僕の説明が終わるのと同時に話しはじめる天水先輩が、このときは焦点のあっていない眼差しをこちらに向けたままだった。
「天水先輩?」
僕の呼びかけに、彼女は「あ」と小さく声を上げてから、口を開いた。
「えっと……アンドロメダ座のお話は、遠い昔のエチオピアという王国でのできごとになります。エチオピアの王妃カシオペアはとても美人で、その娘のアンドロメダ王女もまた、たいへん美しい女性でした。カシオペアはそのことを自慢して、『海の妖精ネレイスは美しいと聞くが、この私やアンドロメダの方がずっと美しい』と言いました。カシオペアの言葉を聞き知った海の神ポセイドンは怒り、エチオピアの海にケートスというくじらの化物を送り込んで暴れさせ、人々を苦しめました。被害はどんどん大きくなり、ついにエチオピア王ケフェウスは、天空の神に助けを求めました」
天水先輩の神話語りは、星空教室の定番で、いつも好評だった。フルートの音色を思わせる耳ざわりのいい声で、大仰にならないくらいに抑揚をつけて話す彼女の語り口に、子どもたちだけでなく大人も自然に聞き入るのだった。
けれど、今夜は出だしでつまづいたせいか、どこかたどたどしい口調だった。
「天空の神は、『ポセイドンの怒りを鎮めたければ、アンドロメダをケートスのいけにえに差し出せ』と答えました。ケフェウスとカシオペアは、そのお告げに従うしかありませんでした。泣く泣く、愛娘のアンドロメダを……海辺の岩に鎖で……縛り付けたのです……」
そこまで話した天水先輩は、その先を口に出せないようだった。
「どうかしましたか?」
僕の問いに、天水先輩は、表情を曇らせて胸のあたりに手を当てた。
「……ごめんなさい、ちょっと」
答えた天水先輩のペリドットの目が、うるんでいた。声も、すこしかすれている。
喉の調子が悪いのだろう。そう判断した僕は、頷いてから神話の後半を引き取った。
「ケートスがアンドロメダに襲いかかろうとした、まさにそのときです。天空の神の子ペルセウスが、天馬ペガサスに乗って現れました。ケフェウスとカシオペアから事情を聞いたペルセウスは、アンドロメダを助けるためにケートスと戦うことにしました。激しい戦いのすえに、ペルセウスはケートスを倒し、アンドロメダは救われたのです」
僕の語りが終わると、ぱちぱちとまばらな拍手があった。いつもより少ないのは、まあ、しかたないなと思う。
天水先輩が、ひとつ咳ばらいをしてから、僕に頭を下げた。
「すみません、助かりました」
その声は、甘さとまろやかさをとりもどしていた。
「もう、大丈夫ですか?」
たずねた僕に、天水先輩は「はい」と答え、もういちど胸に手を当てた。ひとつ深い呼吸をした彼女は、その顔にようやく笑みを浮かべた。
つられて、僕も笑みを返した。
「あー」と、子どもたちの声が重なった。そして、アンドロメダ銀河の名を答えた声が、もういちど僕の耳に届いた。
「アンドロメダとペルセウスみたい」