朱雀(前)
三月が終わり、桜の開花とともにすっかり春めいた頃、今年最大の天文イベントがあった。
皆既月食だ。
月食は、月面を照らす太陽の光を地球が遮り、満月なのに月面が暗くなる現象だ。そのなかでも、月の全面が暗くなるものを皆既月食という。
今回の皆既月食は、夜の七時すぎに始まる。高い位置まで昇った満月が、端からすこしずつ暗くなっていき、皆既の継続時間は午後九時前後の十分間の予定だ。
月食のはじまりから終わりまでを、夜半までに見られることは多くなく、観測条件は最高だった。しかも桜が満開を迎えていて、花見をしながらの風流な観測会になりそうだった。
星空教室の子どもたちにも連絡を入れ、入念に準備を進めた。
しかし……。
メンバーも準備に精を出すなかで、春花は「ごめんね」と告げて、ぺこりと黒髪の頭を下げた。謝ったわりには、その表情は明るかった。
「その日は、実家に帰らなければいけないの」
「なにかあったの?」
僕の問いに、春花はううん、と首を横に振った。
「毎年そうなんだけど、例大祭の準備があるの」
実家の神社のお祭りとなれば、ひとり娘の春花にも、なんらかの役目があるのだろう。それはわかるのだが……。
どこか嬉々としたようにも見える春花の態度は、どうにも腑に落ちなかった。そもそも、実家とのしがらみのようなものから彼女は逃げたいと思っているのだろうし、それができないなら、僕のような者とともに立ち向かいたいと考えているはずなのに。
すぐ目の前の、息がかかるほどの距離で紅茶を飲む春花が、僕にはひどく遠くにいるように見えた。
そんな僕の沈んだ心境に呼応したように、月食の当日は午後から厚い雲に空が覆われ、夕刻にはついに雨が降り出した。
星空教室のみんなに観測会の中止を知らせたあと、真優理先輩や高橋先輩に誘われて残念会を催した。
高橋先輩は、スーパーで買ってきたオードブルの唐揚げをつまみに、グラスのハイボールをあおった。
「まあ、天気だけは、どないしようもないからな」
真優理先輩も、グラスにウィスキーと炭酸水を注ぎながら顔を曇らせた。
「そやけど、やっぱり子どもらには見せてやりたかったわ。あれ、けっこう感動するやん」
天体イベントは、天気など無関係にかならずその時に起きる。
今も雲の上では、満月が欠けていって、やがて月面が赤銅色に染まるスペクタクルが進行しているのだ。
僕は言いようのない寂しさを感じていた。
春花のこと、詩織のこと、そして月食のこと。まるで蚊帳の外に置かれたような無力感は、そのまま僕の現状に結びついた。僕にはどうしようもないところで、なにもかもがそれぞれに進行している。ひとりだけとり残されたような寂寥感が、すきま風のように僕の心を冷やしていた。
酒がなくなり、そろそろ宴もおひらきしようかという頃、スマホが震えて着信を知らせた。
表示された相手の名前とメッセージが、僕の胸をぎゅっと締め付けた。
京都駅の四階にある室町小路広場は、雑踏であふれていた。
昨夜の雨が嘘のように、振り仰ぐ晴天から明るい陽光がふりそそぐ。立っているだけで、背中が暖かくなってくる。
春の気配が満ちるこの時期の、そして、二年ぶりの彼女との再会だというのに。
僕の心は、すこしも騒がなかった。
もちろん、昨夜の酒が残っているわけではない。こんな中途半端な状態で、僕は彼女にどんな顔で会えばいいというのだろう。
何度目かのため息をついた、そのとき。
スピーカーから流れるフランク・シナトラの『ニューヨーク・ニューヨーク』に重なるように、背後から元気な女の子の声がした。
「智之ちゃん!」
振り返ると、青空に続く大階段を、とんとんと軽い足取りで彼女が降りてきた。
スペードのアイレットを裾にあしらった赤いチュニックと、ショートボブの黒髪を春風になびかせて……。
彼女は最後の階段を飛び降りると、そのまま僕に抱きつき、「ただいまっ」と耳元で声を弾ませた。
その声も、そしてその豊かなからだの感触も、なにも変わっていなかった。
高校を卒業すると同時に留学のためにニューヨークに旅立った彼女を、関西国際空港のセキュリティチェックのゲート前で、僕はこうして送り出したのだ。
家がすぐ近くで幼馴染だった彼女は、いつだって僕のすぐ近くにいてくれた。すこしの間、物理的な距離は離れていたけれど、彼女はやはり……。
心の空隙を一瞬で満たされたように感じて。
僕は彼女の背中に腕をまわして抱き寄せた。そして、心の底から、その言葉をかけた。
「おかえり、綾乃」




