此岸(後)
化野から嵯峨野へは、黒塀や格子窓の古民家が軒を並べる石畳の坂道を下る。
土産物屋や茶店に客の姿はなく、家々も静まり返っている。
道が古民家カフェにぶつかる三叉路を右に曲がり、坂道を登れば祇王寺に着く。
苔むした潜り戸のような門を抜けて境内に入ると、庭を覆い尽くす青もみじの木々に埋もれるように、茅葺のちいさな草庵が佇んでいた。
祇王寺の由緒は、平家物語でも有名なエピソードだから、僕も知っていた。
平清盛の寵愛を一身に受けていた白拍子の祇王は、やがてその地位を若い白拍子の佛御前に奪われる。世をはかなんだ祇王は、母の刀自と妹の祇女とともに、嵯峨野の草庵に出家隠棲してしまう。それを知った佛御前も、明日は我が身と悟って出家し、四人は念仏三昧の余生を送ったという。
庵の畳に座って祇王たちの木像を見ながら、そういえばと僕は思い出した。
『古都』の佐田太吉郎が図案を練るために身を寄せたのは、たしかこの尼寺だった。
それを小西先生は「現実逃避」だと切り捨てた。おそらく春花の家出の願望も、同じことだと見立てたのだろう。
では、佐田太吉郎が、そして春花が逃げ出したい「現実」とは、なんなのだろう。
「ねえ」と僕は詩織に話しかけた。
「詩織は、逃げたいって思ったことはある?」
影を落とす障子窓ごしの淡い光が、丸い吉野窓を背にした詩織の横顔に、愁いを帯びた陰影を浮かび上がらせる。
「あるわ。……でも、自分からは、逃げきれないから」
「自分からは逃げられない?」
「うん」と詩織は頷く。
「だって、どんなに嫌でも、自分をやめることはできない。わたしは、わたしとしてしか生きられないから」
柔らかく、けれど芯を伴なって告げられた詩織の言葉の意味を、僕は深く吟味しなかった。それはじつに詩織らしい答えで……。
だから僕は、それでじゅうぶんだと思った。
祇王寺から野宮神社へと、僕たちはゆっくりと歩を進めた。
落柿舎まで来ると田園風景が広がる。作付けを待つばかりの茶色の畑の向こうに、まばらな人家と竹林が見え、こんもりとした緑の嵐山が遠慮がちに風景の右半分を占めている。
嵯峨野はすっかり早春の風情で、足下のあぜ道には、ふきのとうが二株、仲良く並んで日向ぼっこをしていた。
踏切を渡って野宮神社のある竹林にさしかかると、観光客の姿が増えた。
人力車を躱しながら小柴垣を巡り、黒木の鳥居をくぐって、僕たちは野宮神社に参拝した。青竹に囲まれた狭い境内に、小ぶりな切妻の社殿が三つ、軒を寄せ合っている。参拝客は多くて、神前に出るには順番を待たなければならなかった。
いまでは縁結びのご利益で人気のある神社だが、もともとは源氏物語にも見られる伊勢斎王が精進潔斎をする場所だった。
平安時代、斎王に選ばれた皇女たちは、ここで身を清め、住み慣れた都を遠く離れた伊勢斎宮に向けて旅立っていった。退下できなければ、都に戻ることも結婚することも許されない人生を送ることになる。それを知りつつ、彼女たちは、どんな思いを抱いて旅立ったのだろうか。
掌を合わせながら、詩織は語りかけるように言った。
「斎王にさせられた皇女たちは、神に仕える人生を送るしかなかった。夢やしたいことだってあっただろうに、彼女たちはそれを選べなかったのね」
その言葉は、僕の胸に静かに沁みていった。
野宮神社から嵐山へ向かう竹林の小路をたどりながら、僕は詩織の言葉を反芻していた。
平安の頃の人々と違って、僕はこうして、自由にどこにでも行ける、やりたいこともやれる。そんな恵まれた立場なのに、いったいなにをしているのだろう。
春花とのことにかまけて、なにかを見失っているのではないか。
だが、では、なにをすればいいのだろう。
僕の逡巡を見透かしたように、半歩後ろを歩く詩織が、「わたしね」と告げた。
「四月から、夜間の美術専門学校に通うことにしたの。やっぱり絵を描くことが好きだから。そしていつか、絵本を書きたいと思ってるの」
思わず歩みをゆるめた僕のスニーカーを、詩織のブーツが追い越していく。
しなやかに観光客たちの間を歩いていく詩織に、僕は追いつけなかった。だから、遠ざかるその背中に向けて、声を絞り出した。
「応援するから、頑張って」
詩織の足が止まり、赤みがかかったロングヘアを揺らせて、彼女が振り返る。
揺れる緑の葉漏れ日に細めた瞼の奥から、琥珀色の瞳が、束の間、とまどったように僕を見た。
その瞼がさらに細まり、詩織の頬がふわりと緩む。
「ありがとう。智之くんに最初に聞いてもらえて、よかった」
今日いちばんの笑顔だと思った。
なのに……。
それは、今まででいちばん遠い笑顔でもあった。
「うん」と答えた僕に、「ねえ」と詩織は問うた。
「智之くんは、したいこととかあるの?」
「僕は……」
答えかけて、けれどその先は言葉にできず、僕は口をつぐんだ。
僕の答えを待ちきれないように、春を告げる鳥の初音がした。




