菊理媛
宮司さんに話を振られた理事長が苦笑する。
「龍一は優しゅうてええ子やけど、傍流の家からの養子やからか、どうにも意気地なしで。天水さんからの縁談もすっぽかして、なんとかの視察や言うて海外に行ってしもうたんです。ほんまは流し雛には間に合うように帰国するはずやったんやけど、急に帰られへんて言うてきてな。それで、この有様ですわ」
言葉尻に怒りをにじませた理事長に、春花はきっぱり「いいえ」と反論した。
「龍一さんを責めないであげてください、伯父様」
春花にこんな一面があるとは、知らなかった。
それにしても、伯父様ということは、親戚だったのか。サークルの行事で屋上庭園を使えることになったとき、高橋先輩が「天水のおかげや」と言っていた言葉の意味がやっとわかった。
理事長は、渋い表情で頭を下げる。
「いいや、これは私らの落ち度やから、けじめはつけんとな。ただ……」
口では謝罪しながらも、顔を上げた理事長は僕を値踏みするようにじろりと睨んだ。
「……相手の人選を春花くんに任せたんは私やけど、これは千歳も承知のことなんやろな。そうでないんやったら、このお人だけでなく、あちこちに迷惑がかかることになるかもしれんで」
理事長の言葉の意味を、僕は図りかねた。けれど、春花の表情が険しくなったところをみると、わけありということらしい。
そんなに大事だとは思わず引き受けてしまったが、断るべきだったかと思ったところに、宮司さんが「まあまあ」と理事長の肩を叩いた。
「これはどうも、私がいらんことを言うてしもうたようです。せっかくの桃の節句に水を差しとうないし、若いうちはいろんなことを経験した方がええ。そんなわけでここはひとつ、大目に見たってもらえませんか。それに、こないに可愛らしくて初々しい雌雛と雄雛、なかなか拝めるもんやあらしませんで」
それを聞いた理事長は、はっとしたように「そやな」と笑って頭を掻いた。
「春花くんの雌雛姿が、あまりに可愛ゆうてな。私もしょうもないこと言うてしもたわ。かんにんしてや」
理事長と宮司は、ばつが悪そうに会釈をして立ち去った。
いろいろと聞き捨てならない会話だった。事情を春花に尋ねようとしたとき、こんどは真優理先輩の声がした。
「春花、こっち向いて」
真優理先輩は、そう言ってスマホのカメラをこちらに向ける。
「春花はええけど、相方があかんなぁ。ぜんぜん釣り合うてへんわ」
「ほっといてください」
僕は抗議したが、真優理先輩は完全に無視して、「ああ、そうや」と付け加えた。
「この役な、結婚の決まったカップルがやるのが、習わしなんやで。星河は、まあ、だれかさんの代役っちゅうわけやな」
真優理先輩の言葉は、はからずも僕の疑念に応えるものだった。
僕は、足元がぐらつくような、突然開いた穴にすうっと落ちていくような感覚に襲われた。
『だれかさん』と真優理先輩が言った人物を、そしてその人物と春花の関係を、僕は知っている。であれば、今日の出来事で、春花や僕にとってなにかが大きく動いてしまったのだろうことも容易に想像がついた。
「真優理ちゃん、だめだよ」
春花が、真優理先輩の言葉尻に噛みつくように、尖った声でたしなめた。
はぁ、とため息をついて、真優理先輩が首を捻る。
「だめって言うても、ほんまのことやし。そうやろ、春花」
春花は眉を寄せて、真優理先輩を睨みつけた。
このままでは、口論をはじめかねない。
そんな状況を救ったのは、スタッフの「おつかれさまでした、こちらへどうぞ」という声だった。
僕と春花は、社務所の一室で着替えを待っていた。
かなり疲れていたけど、どうしても春花に尋ねておかなければならないことがある。
それを切り出そうとしたとき、「ごめんね」と春花の声がした。
「いろいろいきなりで、びっくりさせちゃったよね」
「驚いたというより、なにがなんだかわからないんだけど」
「そうだよね」と春花はうなだれた。
しばらくの沈黙のあと、彼女は意を決したように口を開いた。
「わたしの実家は、由緒のある神社なの。社家といって、代々宮司を勤めてきた家系でね。父ももちろん宮司で、学校も経営してるんだけど、身体が弱いしもう歳でね。わたしの結婚相手に後を任せたいって。だから……」
衝撃的と言っていい告白だった。
けれど僕は、初詣からの春花の言動も含めて、そういうことかと妙に納得してしまった。だが理性はそれを認めていても、感情が追いついてこなかった。そしてその感情は、制御されないまま僕の口からあふれだした。
「だから、なに? じゃあ、春花は僕に……」
僕はそこで言葉に詰まった。
なにを期待してるのかと、尋ねたかった。
けれど。
『どうにかしてくれるの?』
追儺の夜の春花の問いかけを、そしてバレンタインのときの春花の依頼を、僕は拒絶しなかった。この事態の責任の半分は、僕にもあるのだ。
だが、そうであっても、春花が僕に求めているだろうことは、あまりにも重かった。
僕は、迷ったあと、問いを変えた。
「どうして、僕だったの?」
春花は、しばらく僕を見つめたあと、ちいさく息を吐いた。
「よくわからないの。でも……」
答える彼女の横顔を、障子の隙間から差し込んだ陽光が照らし出した。
白い光が透かす彼女のペリドットの瞳は、宝石をはめこんだ義眼のように見えた。そう、そこにいるのは生身の女性ではなく、生きている雛人形そのものだった。
その雛人形が、芯のない甘やかな声を潜めて告げた。
「もしそうなるのなら、智之くんとがいいなって思ったから」




