雛人形
桃の節句の下鴨神社に、大勢の見物客が詰めかけていた。
その視線を一身に浴びて、春花は――春花と僕は、御手洗池の畔の舞台で、置き畳の上の椅子に並んで座らされていた。
目の前を、桜柄の着物を着て黒髪をおふくに結った舞妓さんが、ぺこりと頭を下げながら通り過ぎる。
反射的に頭を下げかけた僕は、スタッフから受けた注意を思いだして、すましたままで彼女たちの挨拶を受けた。
舞妓さんたちは、御手洗池に張り出した桟敷から、小さな円形の藁船を水面に流した。
僕はみじろぎもせずに、それを見守った。
というか、身動きもできない状況だった。これほど多くの衣類を身に着けたのは、生まれてはじめてのことだ。衣冠束帯という平安時代の男子の正装なのだが、こんな服を着ないといけなかった時代に生まれなくてよかったと、僕は心の底から思った。
そして、『一緒にお雛さまになってほしい』という春花の頼みを安請け合いしてしまったことを、ちょっと後悔していた。
会長とか会頭とか議員とかの肩書がついた来賓が、つぎつぎに僕たちに挨拶をしてから藁船を流していく。
僕はさりげなく隣を見やった。
ほぼ黒一色の僕とは対照的に、春花は華やかな十二単を身にまとっていた。内側から順番に白、薄い黄緑、薄い桃色、薄い紫、赤色、濃い桃色の着物を重ね着し、いちばん上には鮮やかな緑の唐衣を羽織っている。髪型はお雛様の定番である大垂髪ではなく、長い黒髪をそのまま前後に流して水引で束ねたものだった。髪飾りもよく見る黄金の釵子ではなく、桃の花を枝ごと簪のように耳元で髪を束ねた水引に刺していた。
彼女もまた、姿勢を正してまっすぐに前を見ている。
やがて「お雛様とお内裏様による流し雛です」というアナウンスが、僕たちの出番を告げた。
緋袴に白装束の巫女たちが、僕と春花を促す。
僕は、巫女さんに手を引いてもらいながら、やっとの思いで腰をあげた。その横で春花は、おだやかな笑顔をうかべたまま、誰の助けも借りずに優雅に立ち上がった。
石段を下り、桟敷に並んで座る。
巫女さんから、紙の雛人形を載せた藁船が手渡された。
可愛く並んだ折紙の雛人形は、子どもの身代だと言われたり、人の穢れを移したものだと言われたりしている。
二人で息を合わせて、藁舟を水面に浮かべる。指先が御手洗池の水面に触れ、藁船が手を離れると、僕は心底ほっとした。
僕たちの藁船は、まだ冷たい風に流されて水面をすべっていった。
春花が流した藁船と僕が流した藁船は、寄り添っては離れ、やがて先に流されていた藁船たちのなかにまぎれていった。
流し雛を終えてもお役御免ではなく、僕たちはマスコミや見物客たちの撮影大会のマネキンになっていた。
カメラの群れが去ると、表情を飾ったままだった春花が、ほっとちいさな息をついて空を見上げた。
まるで、雛祭りを祝福するかのような、うららかな晴天が広がっていた。
そうだ、と僕は気づいた。
彼女の横顔に向けて「春花」とよびかける。
「お誕生日、おめでとう」
空からおろしたペリドットの眼差しを僕に向けた春花が、にこりと微笑んだ。彼女は「ありがとう」と会釈して、「でも」と続けた。
「なんだか素直に喜べないよ。だって、あと一年しかないのに」
「そうだね」
「……ねえ、智之くんは、卒業したら朝陽に戻らないといけないの?」
春花の問いかけには、いつまでも保留にしておけないことが含まれていた。
このまま失点なくすごせば、大学は無事に卒業できて、教員の免許も得られるだろう。だが、その先はどうするのか。
あの流星夜の答えを、僕はまだ見つけられていない。
「わからないんだ。でも、高橋先輩が言うように、朝陽市は教員の募集が極端に少ないから、帰って就職するのは難しいかなって思ってる」
あのとき春花は、「わたしも……」と言いかけた。その続きが、今ならわかる。彼女は、「わたしもそうだよ」と言おうとしたのだと。
春花はどうするの、と問いかけようとした僕の機先を制して、「もし」と彼女が口を開いた。
「よかったら、わたしの……」
なにかを言いかけて、けれど春花はあわてて掌で口元を押さえた。
僕たちの前に、初老の男性が二人立っていた。僕の通っている大学の理事長と、この神社の宮司さんだ。
春花は、宮司さんに向かって頭を下げた。背筋をぴんと伸ばしたままで、上半身だけをきれいに前傾させる。こんな衣装を着たままで、器用なことができるものだと感心した。
「この度は、母が無理を言いまして。面倒をおかけしました」
春花の謝罪に、宮司は「なんの」と笑顔で応じた。
「ほんまに気が利かんことでした。一之宮のお嬢さんが京都においでやねんから、こちらからお願いせなあかんかったんですわ。それにしても、さすがは当代の菊理媛といわれるだけおありやなぁ。下げ髪に十二単がようお似合いやし、所作も来年からのお手本にさせてもらいたいくらいで。けど……」
そこでいちど言葉を切った宮司さんは、隣の理事長に問いかけた。
「このお役目は、てっきり日野さんのとこの龍一くんとやらはるもんやと、思うてましたんやけどなあ」




