花競
節分が過ぎても、京都の春はまだ遠い。
ダウンコートを着て厚手のズボンを履いても、足元からの冷気で身体が震える。暖房が恋しくて、学校と下宿と、そして路子カフェが居場所になる。
その日は日曜だったから、下宿にこもっていようかと思ったところに、春花からメッセージが届いた。
午後三時に路子カフェに来て欲しい、という内容だった。
路子カフェにのドアには、「本日貸切」の看板が出ていた。
ちりりんと風鈴を鳴らしてドアを開くと、店内にはチョコレートの香りが充満していた。それで僕は、今日が二月十四日だということに気づいた。
「いらっしゃい」
いつもどおり、春花の声が出迎えてくれた。
けれど。
坪庭の席の近くには、ひらひらふわふわした黒いドレスを着た髪の長い女性が、こちらに背を向けて立っていた。
さっきの声は春花のものだったが、その後ろ姿は彼女のものではなかった。
カラヤンの『G線上のアリア』の旋律に合わせるように、その女性がゆっくりと振り向く。
たっぷりと膨らんだシフォン生地のティアード・ジャンパースカートには、レースとリボンがふんだんにあしらわれている。白い長袖のフリルブラウスの首元には、修道女のような赤い十字架が刺繍されていた。
彼女の長い髪がゆらりと揺れたあと、さらりと胸元に流れて落ち着いた。
こげ茶色の瞳の切れ長の目と、まっすぐに通った鼻筋。彫像のような顔のなかで、ルージュに彩られた唇が、つんと尖ったあとでふっと嗤った。
「なんや、その顔は」
声と言葉づかいは、たぶん真優理先輩だ。推定、真優理先輩は、唖然とする僕に、「で」と続けた。
「どうや」
どうか、と問われても含意が広すぎて困るが、察するに、今日の服装に対する感想を求められているのだろう。
広隆寺の弥勒菩薩像に、ビスクドールの衣装を着せたようなものだと思う。
僕は見たままの感想を口にする。
「ゴスロリ弥勒……」
言いかけた僕の言葉に、真優理先輩の眉間がきゅっと寄る。
僕は咳ばらいをして、言葉を継いだ。
「……似合っていると思います、すごく」
追従ではなかった。着こなしの難しそうな衣装だが、まったく違和感がなかった。違和感がないどころか、ずっと見ていたいとすら思えた。
僕の返事に、ふふうんと満足げに微笑んだ真優理先輩は、ウエストをひねって、くるりとひとまわりする。
広がったスカートの裾が、僕の足をくすぐる。
こちらに向き直った真優理先輩は、スカートを両手でつまみあげると、かるく膝を曲げて、右足のストラップシューズのつま先で、床をこつんと叩いた。
ちょうどそのとき、ちりりんとドアが開いて、高橋先輩が入ってきた。
ポーズを決めた真優理先輩に目を丸くしたあとで、高橋先輩は「へえ」と腕を組んだ。
「なんや真優理、柄にもなく可愛らしい恰好して」
真優理先輩の頬が染まるのを、初めて見た。
「な、なんで、あんたまで来てるんや」
「え、天水に呼ばれたんやけど」
はあと真優理先輩がため息をもらし、厨房に向かって声を上げた。
「なあ春花、忠告しといたるわ。博愛精神もええけど、時と場合によるで」
その声に誘われたように、厨房から春花が出てきた。
曲がヨーヨーマの『無伴奏チェロ組曲』のプレリュードに変わる。
給仕のトレイを捧げ持って目前に立った春花の姿に、目が釘付けになった。
初詣のときと同じ、青い加賀友禅の着物だった。だが、ミルクティー・ベージュだった髪が、つややかな黒髪になっていた。アンティークランプのアンバーの光を、吸い込むようにも反射するようにも見える。ストレートのおろし髪は、純白の和紙の元結で束ねられて背中に垂れていた。
黒髪に縁どられたあどけない顔の中で、ふたつのペリドットの瞳が異彩を放っている。
巫女のようだな、と思った途端、小西先生の声がした。
「これが、ほんとうの春花だよ」
「でも、春……天水先輩、どうして」
僕の呼び間違いと戸惑いに、小西先生は含み笑いで応えた。
「私はこっちの方が、好みでねぇ。星河君も、同意見かい?」
「叔母様……」
めずらしいな、と僕は思う。春花が小西先生をたしなめるのも、小西先生がそれを素直に受け入れて「すまないね」と謝るのも。
こくんと頷いて、春花は紅茶のカップを皆の前に並べた。
「今日の茶葉は、ダージリンのファースト・フラッシュです」
その声は、そしてほのかな白檀の香りは、まぎれもなく春花のものだった。けれど僕は、そこにいるのが天水春花だという実感が、どうしても得られなかった。
春花は、紅茶に続けて青色のマカロンを盛りつけた皿を、まず僕に差し出した。
「ホワイトチョコのマカロンだよ。青い色はバタフライピーでつけたの」
真優理先輩に睨まれながら、僕はマカロンを口に運んだ。
さくりとしたあと口の中でとろけるマカロンと、挟まれたガナッシュは、まろやかなホワイトチョコレートの甘さだけを感じた。
マカロンがなくなると、今度は真優理先輩がしっとりと艶のある黒いケーキのようなものを切り分け、僕と高橋先輩の皿に盛り付けた。
「ショコラ・テリーヌや。リキュール入りやから、がつんとくるで」
口にすると、真優理先輩の言葉通り、濃厚なチョコレートの味とともにオレンジ風味の酒が口に中に広がり、一瞬で顔が熱くなった。
にやりと笑った真優理先輩が、「ああ、そうや」と声をあげた。「三月のな……」
「はい」と僕は応じた。そろそろ、時期だと思っていた。
「星空教室ですよね。新月が……」
「はあ」と、真優理先輩が語尾を上げた。
「なに言うてるねん。三月といえば、桃の節句のひな祭りに決まってるわ。春花の誕生日やねんから、今年も白酒パーティやるで」
紅茶のカップをソーサーに戻した春花が、「すみません」と頭を下げた。
「その日はちょっと予定があって」
「なんや、デートか?」
真優理先輩はそう言いながら、なぜか僕をまた睨んだ。
春花が、ふるふると首を振る。
「そうじゃないんだけど……ちょっとお断りできない予定で」
「怪しいな」と言って、さらに詮索しようとした真優理先輩を、小西先生が制した。
「春花はね、下鴨神社の『流し雛』で、お雛様の役が決まってるんだよ。黒髪に戻したのは、そのためさ」
その言葉に、真優理先輩は「ああ、そうか」とあっさり納得した。
よくわからないが、「そうか」の一言で済むような話ではないと思う。それは高橋先輩もおなじだったようで、「いやいや」と真優理先輩に食いついた。
「なんで金沢出身の天水が、そんな役に当たるんや。普通は、京都のいい家のお嬢様がやるんもんやろ?」
真優理先輩は、テリーヌを口に運びながら、ふふんと笑った。
「そやから、その、いい家のお嬢様なんや、春花は。お母はんは、若いころに葵祭の斎王代をやった人やで。いずれ春花もそうなるやろな。まあ、ウチらとは住む世界が違うっちゅうことや」
春花は、僕を見て、ほっとちいさくため息を落とした。
「そんなのじゃないの。いろいろあって、しかたなくなの」
「そうなんだ」と答えた僕に、春花はすこし間をおいたあとで、こくんと頷いた。
その瞳が、唇が、まだなにかを伝えたがっているように、僕には思えた。それがなにかはもちろんわからなかったが、僕はふとした思い付きを口にした。
「見に行ってもいい?」
「ううん」と首を横に振った春花のペリドットの瞳が、けれどほんのわずかに明るくなったような気がした。
そして彼女は、「あのね」と付け加えた。
「星河くんに、頼みたいことがあるの」
帰り道の足取りが軽かったのは、チョコレート菓子でカロリーをとったせいではない。春花の依頼が、僕を有頂天にさせたのだ。
路子カフェから部屋に戻ると、三つの宅配便が届いていた。
ひとつは実家から、もうひとつは吉祥寺から、そして最後のひとつはニューヨークからだった。
しばらくはチョコレートを買わなくて済みそうだと、僕は上機嫌でそう思った。




