酔心
吉田神社を後にした僕たちは、出町柳にある小料理屋に入った。
店主おまかせで、京都の野菜や食材を使ったおばんざいの八種盛合わせと、グラスの日本酒を注文する。勧められた酒は、水も米も麹もすべて京都産の材料だけで作られた、伏見の酒だった。
青い玻璃の酒器に桃色の唇をつけて、こくんと酒を飲んだ天水先輩は「やっぱり口当たりがいいね」とささやいた。僕には酒の味の違いはわからなかったが、言われてみれば、まろやかで、あっさりとした飲み口だった。
杉の弁当箱に行儀よく並んだ小鉢のおばんざいをつまみ、酒を口にしながら楽しげに語らう高橋先輩や真優理先輩を横目に、僕は追儺神事を思い出していた。
『現実と向き合わず遠ざけるだけでは、根本的な解決にならない』
また言われてしまったな、と悔しい思いがこみあげる。
高橋先輩はともかく、真優理先輩はすでに自分の進路を明確に決めている。しかも彼女自身の希望として。
ならば、僕はどうか。
あの流星夜の高橋先輩の問いに、まだ答えの糸口すらみつけられていない。結局のところ、逃げているだけだということなのだろう。
黙り込んでいた僕の耳に、天水先輩のひとり言が聞こえた。
「かくきこしめしてば、つみというつみはあらじと。かくさすらいうしないてば、つみというつみはあらじと」
声の方を見れば、天水先輩がペリドットの瞳を僕に向けていた。
高橋先輩と真優理先輩の姿はなくなっていた。揃って手洗いにでも行ったのだろう。
「すみません、考え事をしていて。いま、なんて言ったんですか?」
相手をしなかったことを詫びると、天水先輩は僕を責めることもなく、和み水を飲んでから答えた。
「祝詞の一節だよ。神様が聞き届けてくだされば、水に流し去ってくだされば、どんな罪も消えてしまうって……。ねえ、吉田神社で真優理ちゃんや高橋くんが言っていた、嫌なことを遠ざけるって、いけないことなのかな」
天水先輩の声が、その言葉が、僕の胸にすっと入りこんできた。
そういえば、天水先輩はあのとき、目を伏せてため息をついていた。今も、なにか思い詰めたように、顔を曇らせている。
もしかしたら、と僕は思った。
高橋先輩や真優理先輩の言葉と、天水先輩の「家出」という告白と、小西先生の「現実逃避」という指摘は、まるでなにかの符丁のようだった。
それはつまり、天水先輩のいまの心情をも、言い当てていたのではないか。
だとしたら、僕と天水先輩は……。
「僕もちょうどそれを考えていたんです。いけないことかどうか、僕にはわかりません。ただ……」
そして、今なら、と僕は思った。
あの元旦の棘を抜くことができるのではないか、と。
僕は残っていた酒を飲み干し、その勢いを借りて、棘を問いに変えて吐き出した。
「それは、家出と関係があることなんですか?」
ひとしきり僕を見つめたあと、天水先輩も酒をあおって酒器をテーブルにそっと置いた。
ふうっと息をつき、彼女はすこし焦点のずれたペリドットの瞳に僕を映した。
酒に濡れた唇が開き、艶やかなフルートの音色を奏でた。
「関係がある、と言ったら、どうにかしてくれるの?」
それは、もはや問いかけではなかった。
『信頼に応えなくてはならない』という小西先生の言葉が、僕の心に残った棘の傷を甘く疼かせた。
そしてそれは、僕自身の問題よりも、優先すべきことだと思った。僕は、覚悟を決めて口を開く。
「天水先輩は……」
言いかけた僕の唇を、天水先輩が人差し指で塞いだ。
突然のことに、何が起きているのかすぐには理解できなかった。
追い打ちをかけるように、天水先輩は「智之くん」と、甘やかに僕を名前で呼んだ。
「これからは、二人きりのときだけでいいから、名前で呼んでほしいの。……真優理ちゃんみたいに」
思いがけない言葉だった。
けれど、僕にとって、そういうことを言われるのは、初めてではなかった。
だから、彼女の言葉がなにを意味するのかは、わかっていた。そして、それがひとつの確信へと変わるのに、さほど時間はかからなかった。
「じゃあ」と、僕は彼女を正面から見つめる。
「春花は、どうして家出したいの?」
ひととき目尻を下げて頬をゆるめた春花は、けれどすぐに真顔に戻った。
「卒業したあとのこと、母からいろいろ言われるの。お正月に帰ったときもそうだった。わたし、ひとり娘で天水家の跡継ぎだから、それはしかたないことなんだけど。父と母で希望も違うし、でもそろそろ決めなきゃいけないし。どうしたらいいか、わからなくて」
家の跡継ぎ。そんなことが春花を苦しめ、縛り付けているのかと思うと、僕は無性に腹がたった。
けれど、だからといって、今の僕には、彼女を縛り付けた鎖を断ち切るハルパーもなければ、彼女を苦しめる怪物を封じるメデューサの首もない。
それなら、せめてこの僕が……。
「さっきの答えだけど、僕は、嫌なものから逃げるとか、とりあえず遠ざけるとか、そうするしかないときもあると思う。だから、もし春花がそういう選択をしたとしても、責めたりしないよ」
それは断じて春花への迎合ではなかった。
真優理先輩や高橋先輩の言ったことは正しいのかもしれないが、誰にでもできることだとは思えなかったのだ。
「ありがとう」と、春花は涙声で答えた。
高橋先輩と真優理先輩が、店の奥から姿を現した。
春花はあわてて、ハンカチで目元を拭った。




