霊辰
交わす言葉もみつけられないまま、僕たちは龍源院を後にした。
天水先輩の告白は、本気だとは思えなかった。
彼女は金沢に実家があって、京都では叔母の小西先生と暮らしている。家出というからには、この二つの家から出奔することを意味しているのだろう。僕は彼女のプライベートをあまり知らないけれど、僕にとって天水先輩とは、そういうこととはいちばん縁遠い存在だったのだ。
北大路通に出ると、僕の下宿アパートが見えてきた。
このまま別れてはいけないような気がした。けれど、だからといって、事情を尋ねたところで、僕になにができるだろうか。
見上げた空は、重苦しい雪雲に覆われていた。
アパートの入口に着くと、天水先輩は「じゃあ、これで」とお辞儀をした。
「今日、つきあってくれてありがとうございました。いい思い出になりました」
そう言い残すと、天水先輩はなにかを断ち切るように、くるりと僕に背を向けた。
その背中がどんどん小さくなるのを、僕は無言で見送るしかなかった。
部屋に戻って上着を脱ぐと、袖からほのかに白檀の香りがした。
そして、僕の耳に天水先輩の言葉が木霊した。
『家出したい』
やはりこのままじゃまずい、と思った。
僕はスマホを取り出して、メッセージアプリを起動した。リストのいちばん上に、天水春花の名前がある。そこをタップし、僕は「もういちど会いたいです」とメッセージを送った。
それから再び上着を着て、路子カフェに赴いた。
北大路通には、小雪が舞っていた。
路子カフェのドアを押してみたが、開くことはなかった。
僕はスマホの電話アプリを起動して、天水先輩に電話をかけた。けれど、電波の届かない場所にあるか電源が入っていない、という人工音声が聞こえるだけだった。
僕はなんのあてもなく、ふたたび今宮神社に行った。
天水先輩に教わったとおりの作法で手水を使い、拝殿で手を合わせた。
『彼女を……』
そこで願い事に詰まった。
『彼女の……』
そう言い換えたが、やはり願いは続かなかった。いまさら頼るつもりか、と祭神に突き放されたような気がした。
深々と頭を下げて、僕は神前を辞した。
おもかる石も相変わらず、重いままだった。
大徳寺の境内を通って部屋に戻り、読みかけの『古都』のページをめくった。
文章を目でなぞるばかりで、なにも頭に入ってこなかった。ヒロインの父親が自宅を離れて嵯峨野の尼寺にこもっている場面で、僕はすぐに本を閉じた。「家出」という天水先輩の言葉が、ずしりとのしかかってきた。
送信したメッセージは、いつまでたっても既読にならず、電話もつながらないままだった。
僕は、思いあまって小西先生に電話をかけた。
すぐに応答があった。なんだかほっとした。
けれど、新年の挨拶を交わし、そこで僕は言葉に詰まった。
「元旦そうそうから、辛気くさい電話をしてこないでくれないか。『古都』の考察でも聞かせてくれるのかと思ったのに」
そんな用件で、わざわざ電話するわけがない。
だが、と僕は思いなおした。それは、いいきっかけになりそうだ。
「それです。佐田太吉郎が嵯峨野の尼寺にこもった理由が、どうにもわからなくて」
「あれはね……」と小西先生は軽い口調で告げた。
「家出だよ」
こちらの魂胆を見透かされたような答えが返ってきて、僕はまた言葉を失った。
スマホから、小西先生のため息が聞こえた。
「星河君、朝から春花と一緒だったんだろう。なにがあったんだい?」
すべてをお見通しの小西先生に、僕は観念した。
「天水先輩が、家出したいって、そう言ったんです。それから連絡がつかなくて」
白状しながら僕は、なにかを間違えているような気がした。
僕よりも天水先輩に近く、彼女のことをよく知っているからといって、安易に小西先生を頼るべきだったのか。
ふたたびスマホから、小西先生の大きなため息が聞こえた。
「君が善良で常識的な人間だという私の見立ては、間違っていなかったようだ。だが、そういう長所をだいなしにするほどに、他人まかせと引っ込み思案が過ぎるよ。とにかく、いまの話は聞かなかったことにしておく。理由はわかるかい?」
「いいえ」
「そうか。それなら教えよう。家出の話は、私も知らないことだった。つまり春花は、君だけを信じて秘密を打ち明け、君だけを頼って助けを求めた、ということだ……」
それは、にわかには信じられない言葉だった。どう考えても、僕は天水先輩からそんな大事なことを打ち明けてもらえるような……。
そこまで考えて、僕は愕然とした。
今日、天水先輩が話してくれたことは、どれもみな彼女にとって大事なことではなかったのか。なのに僕は、会話を続けることに精一杯で、話題のひとつだとしか考えていなかった。その結果、成行きのように重大な告白を彼女から引き出してしまい、受け止めきれずに狼狽したのだ。
「ならば君は」と小西先生は語調を強めた。
「彼女の信頼に応えなければならない。ちがうかい?」
小西先生の指摘が棘となって僕の心を刺した。自身の未熟さを思い知らされた僕には、ひとことの言い訳もなかった。
「ほら、まただ。私は、大切な姪を君に託すと言っているんだよ。黙っていないで、嘘でもいいから、はいと言いなさい」
「はい……わかりました」
僕は反射的にそう答えていた。
電話から、はははと、小西先生の笑い声が聞こえた。
「それでいいんだよ。安心しなさい、春花は私と一緒にいる。いま、金沢に向かっているところだ。それと、ひとつ補足しておくが、佐田太吉郎の家出は、現実逃避にすぎない。そこに正当性なんて微塵もないよ」
電話を切ると、メッセージが届いていた。
スマホの電池が切れていました、というお詫びのあとに、また休み明けに、と笑顔のスタンプつきのメッセージがあった。
長い正月休みが明けたのは、一月七日だった。
開店時刻を待つように路子カフェに出向くと、いつものとおり茶居着姿の天水先輩が、七草粥を運んできてくれた。鶏団子と大根の煮物、そして花びら餅がそえられていた。
「どうぞ。お正月に食べすぎたお腹には、優しいですよ」
いつもどおりの笑顔、いつもどおりの声色、いつもどおりの天水先輩だった。
七草粥を口に運ぶ。うすい塩味で、たしかに優しい食べ物だと思った。
「……おいしい?」
問いかける天水先輩の声は、いままでよりも近くから聞こえた。白檀の香りも、ずっと濃く匂った。
「はい」と答えた僕は、「だから」と続けた。それは、初詣の別れ際に、言っておくべき言葉だった。けれど、いまでも、いや、いまからでも遅くないはずだ。
「天水先輩が作ってくれる料理を、ここでずっと食べたいです」
そう告げた僕の心のなかで、刺さっていた棘の痛みが甘さを帯びた。




