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その夢を、星空に -Star Observation Society KYOTO-  作者: TOM-F
Sign01 アンドロメダ ダムゼル・イン・ディストレス
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壺中天


 白い息がたちのぼる先には、漆黒の夜空にきらめく星々たちがあった。


 天空に描かれた英雄と王女の間を、白い薄紗の帯がつなぐ。

 それは、音もなく流れる星の河。そのほとりから、天の水がこぼれおちて、ひとすじの光が走った。


 刹那。

 僕のとなりで、息をのむ気配がした。

 目を向ければ、そこには星空を見上げる女性がいた。


 ぎこちなく動こうとした彼女の唇は、しかし言葉を紡ぐことはなかった。

 つかのまの光芒が闇に消え、こちらを向いた彼女の瞳が、ひととき僕を映す。そして、そのまま、まぶたの奥に消えて……。


 ひとしずくの涙が、流星のように彼女の頬を伝い落ちた。


 まぶたが開かれ、彼女が、ふたたび天を仰ぐ。


 またひとつ、光が夜空を走り。


 彼女と僕は、その行方を追って、東の空に目を向けた。

 黒い稜線と藍色の空との境目は、うっすらと赤みを帯びはじめていた。


 つないだ手のぬくもりだけを信じて。

 僕たちは……。




『その夢を、星空に -Star Observation Society KYOTO-』


 Sign01 アンドロメダ ダムゼル・イン・ディストレス




 ガラス窓の向こうは、ちいさな坪庭だった。


 奥の壁際にあるこんもりした黒い庭石の右側から、青白い砂がまっすぐに流れ下る。白砂の川は手前の窓際で池となり、紅加茂石が島のように浮かんでいる。

 庭の中央は苔と石畳が市松模様を描き、知足のつくばいが据えられている。

 そこからひとすじの路が左奥に向かって伸び、道標を模した白い石灯籠が立つ。

 三方を高い壁に囲まれたそこは、坪庭というよりも壺中天というべき場所だった。


 さっきからその壺の底あたりを、小さな黒い蝶が低空飛行をしている。

 ガラス窓に映りこんだ二人の女性の顔を横切るように、蝶がはばたきをくりかえす。よくみかけるシジミ蝶だが、どうしたことか迷い込んでしまったのだろう。

 もうすこしだけ高く飛べば、かんたんに外に出られるだろうに。石と砂と、わずかな緑だけの、閉ざされた空間。蝶は、ここが自分の生きるべき世界だと、思い込んでいるのだろうか。

 こんなところから、はやく逃げだせばいいのに。


 僕はカフェチェアの背もたれによりかかって、そんなことを考えていた。

 そのとき……。



星河(ほしかわ)くん」


 フルートのささやきのような声に名前を呼ばれて、僕は我に返った。

 アンバーのアンティークランタンに照らされた古民家カフェに、オリビア・ニュートン・ジョンの『そよ風の誘惑』が流れていた。

 僕を呼んだ声の主は、青色の矢羽根絣の茶衣着にフリルのエプロンをかけた女性だった。


「ああ、天水(あまみ)……先輩」


 先輩と呼ぶにはいまだに抵抗感のある、ローティーンの少女のような顔に笑みが浮かび、ペリドットを思わせる深い黄緑の虹彩が僕を映す。


「えっと、今夜の星空案内は、わたしの担当でいいのね?」

「はい、お願いします」


 僕が答えると、衣擦れの音がして腰をかがめた天水先輩が、紅茶の入ったカップを木製のトレイからテーブルに置いた。

 湯気のあがるミルクティーと同じ色の長い髪につけた柘植のヘアクリップには、一輪の菫が咲いている。


 ほのかにただよう白檀の香りが、僕の鼻をくすぐった。


「今日の茶葉は、アッサムのセカンドフラッシュです。お水は染井(そめい)の水を使ってます。星河くんが汲んできてくれたんですよね? すごくおいしいお水でした」


 紅茶の説明をする天水先輩のささやきが、右耳の間近で木管楽器の音色を奏でた。その近さに僕はうろたえ、「よかったです」と返すのが精一杯だった。

 ふふっと柔らかな笑い声を、天水先輩がたてた。


「わたし、京都のお水は好きですよ」


 その言葉に反応するように、向かいの椅子に座ってフォークでシフォンケーキをつついていた女性が、「ふうん」と目を細めた。

 長い黒髪を団子に結い、広隆寺の弥勒仏を思わせる整った顔の中で、口角がわずかに上がる。

 彼女は、黒いセーターの腕を、いきなり天水先輩のエプロンの腰に回した。


「水か。星河にしては気が利いてるやないか。そやけど春花(はるか)は、この『路子(みちこ)カフェ』の看板娘やで。そんなんで落とそう思ったかて、ほいほいとあんたにはやらへんからな」


 僕はこっそりとため息を落とし、その女性に話しかける。


「はいはい。比丘施(びくせ)先輩は……」


 名前を呼び終わる前に、「こら」という彼女の叱責とともに、僕の額に痛みが走る。どうやらデコピンをくらったようだ。


「苗字で呼ぶなって、なんべん言うたらわかるんや。真優理や。ま、ゆ、り」

「……真優理先輩は、天水先輩の保護者でもないし、この店のオーナーでもないですよね」

「関係あるかいな、そんなん。春花はおぼこい子やから、ウチが守ったらんとあかんのや」


 そう言い放って、真優理先輩は薄い胸を張った。

 こんどはため息を隠さなかった僕に、彼女の顔色が変わる。


「なんや、星河。文句でもあるんか?」

「いえ……」


 僕が言葉に詰まると、真優理先輩はいかにも残念そうに「もう終わりかいな」と肩を落とした。


 真優理先輩の隣でコーヒーを啜った白いダンガリーシャツの男が、「星河には、真優理の相手はまだまだやな」とうそぶいた。

 大ヒットした刑事ドラマでエリート警察幹部を演じた俳優によく似た、優しそうなのか怖そうなのかわからない顔に薄い笑みが浮かぶ。

 真優理先輩は、こんどは顔色ひとつ変えずにふふん、と鼻で笑った。


「えらそうなこと言うてるけど、なら高橋(たかはし)、あんたはどうなん?」

「俺は余裕でいけるけどな。真優理と付き合ったら尻に敷かれそうやから、おとなしい天水の方がええわ」


 冗談とも本気ともつかない高橋先輩の台詞に、真優理先輩は「なら、がんばりや」と笑い返して、天水先輩から離した手でフォークを持った。そして無造作にシフォンケーキに差し込むと、ひとくちぶんというには大きすぎる欠片を切り取り、豪快に頬張った。

 声を立てずに笑った天水先輩は、僕の隣の席に腰を下ろした。濃厚な白檀の香りにめまいを感じて、僕はあわてて高橋先輩に話を振った。


「それはそうと、僕らみたいな非公認サークルに、よく本館の屋上庭園の夜間使用許可なんて出ましたね?」


 そう問いかけて、僕は店の入り口側の窓の外に目をやる。

 六車線もあるふたつの大路の交差点を、緑色の市バスがゆっくりと右折していく。その先に立ち並ぶビル群が、僕が通っている大学のキャンパスだ。

 同じ方向を見やった高橋先輩が、「ああ、それな」としたり顔で口を開いた。


「俺ら、来年は四回生やからな。最後の年くらい、なんとか屋上庭園を使ったろと思うてな。学校側に相談したら、活動内容によっては許可を出せるって言われたんや。それで、活動方針の第一条を、色気の欠片もあらへん内容に書き換えたんや」

「地域の子供会等との連係による、児童及び少年への天文学教育ってやつですか」

「うちは教育学部がウリの大学やからなぁ、そういう活動は支援せんわけにはいかんのやろ。というのは、まあ建前や。ぶっちゃけ、天水のおかげ……」


 言いかけた高橋先輩の言葉を、天水先輩は両掌をふるふると振って制した。


「わたし、なにも……」


 上気した頬の上で、ペリドットの瞳が焦点を失って中空をさまよう。

 真優理先輩が、シフォンケーキの最後のひとかけらをフォークに突き刺して、高橋先輩に向けて突き出した。


「高橋、いらんこと言わんとき。春花が困ってるやないか。今までみたいに、児童公園で肩身の狭い思いせんでええんやから、ありがたいやんか」


「そうですね……」と、僕は打ち合わせを締めくくる。


「じゃあ、今年さいごの星空教室なので、今夜はがんばりましょう」

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